12月8日に思う三つ子の魂百まで

下屋が出来た~これで朝マキを取りに雪をこいで取りに行かんでもよくなった。

俺は修理工が長いが昭和30~40年代はボデイ部品の2ミリや5ミリの違いなど許容範囲だったがやがて触ると返品が出来なくなるのでそのまま返品をする様になって
工場からスケールが消えて旋盤が消えてゆきやがて部品交換工になっていった。
この部品交換工が工場内に5人いたら一人が故障原因を10分考えたら50分のロスになると言われ始め
考えるのは工場内のフロント一人が考えればいいとなり、言われた事だけをせ~となった。
同時に住込みで24時間使われて日給月給一日200円の丁稚奉公制度がなくなり賃金が上がり始めて来たが
そこには自分で考える 物を測る事が出来ない部品交換工が出来て自分で物事を考え決断する事が出来ない者が増えていった。
俺はその丁度両方を経験したどっち付かずの最後の丁稚になる。

全国でも有数の戦闘機生産県だった愛知県は三菱は大江にあり愛知航空機は徳永にあってその後ジャイアント、コニーを生産した。
コニーのバンには狂ったオジサン達とアルバイトをした思い出があり今では笑い話だがいつか書いてみたい。
昭和40年代は戦地から戻って来た元戦闘機整備兵が30代後半から40代になる時期で修理工や機械工になった者も多かった。
その当時の西郊通は町工場がそこら中にあり戦地から戻った狂ったオジサン達が沢山居た。
修理工場だったので自然と元航空機関兵が集まったりしたが
工場で部品を目で確かめて確認してると
「 おまえ手で触っただけでわからんのか 」
「 灯りを点けたら空襲されるぞ 」と酔っ払いの狂ったオジサンに怒られた。
手の間隔で物を作った時代で
仕事帰りに寄って酒を呑んで帰る者も結構居たので帳場にはいつも一升瓶が用意してあった。

本文には関係ありません いいオジサンの方です。

当時の40代など今とは違いチョットした言動でも気いらなければ口より先に手や物が飛んで来てそれは恐ろしく近くに寄る事など出来なかった。
特に若い者が軍歌を歌ったり戦闘機の事など聞くと
「 おまえに何が分かるのだと 」と拳が飛んで来る暴力が横行して暴力は連鎖し習慣性を持ちより過激になるそんな時代で大きく影響され俺の気性も荒くなった。

三つ子の魂百までなのだ
狂った戦地を刷り込まれた帰還兵の戦後処理をきちっとしてあげなかった事が狂った修理工や狂った製函工や機械工を作ったのだろうと思う。


ハ45 誉

昭和40年代はまだ飲酒運転には罰則が無く罰則が付いたのは1970年代だったと思う。
当時は庶民が持てる車はまだバタバタと言われた中古車で青信号でスタートして次の信号まで3速に入るかどうかと言う走らない車が多くさらに頑丈な鉄板のバンバーが付いて事故でもそんなにひどい事故は無かったが自家用車を持てる人は少なく
市電や歩いてる人が多く夕方はそこら中の町工場は狂ったオジサン達が集まり居酒屋と化してその中から様々な物が出来上がって来たのだが
いまや俺も部品交換工となって寸法を測るなど出来ない様になっている、その中で数えて寸法を測り丸バタを組んで下屋をやっと作った。

いつか様々な不始末や中途半端でお世話になった愛知にお詫び行脚をしにいかんとないと思いながらも気が重く行く事は出来ないでいるが
もう修理工としても終わりたい
これからは直っていたら魚か菜っ葉でも持って来いやと言う日々を送りたいと思っている。

小っせい奴が大河ドラマ見る

久しぶりに青天を衝けを見たが
石狩にも小樽にも渋沢倉庫と看板を見るが、どう~だ庶民など1ミリも付け入る隙間もない様な系図が明治から延々と続く
渋沢栄一の息子、篤二の例を見る迄もなく
出来た親に出来た子と言うのは現代においてもすべてがそうなるとは限らんが
この出来の悪い息子と言うのは現代の行き詰まった資本主義においては大変重要な役割があり放蕩のあげく家系図の崩壊と富の再分配に繋げる為に
立派な名門ほど大いに放蕩を繰返して系図を崩壊させて欲しいと!
戦国時代なら足軽か雑兵程度で落ち武者狩りを逃げ延びて盗賊になったろうひねくれた小っせい次男坊は思うのである。

人間の性格をレーダーチャートにすると独創性と協調性は対角にあると思うが綺麗なデルタ型の性格は中々いない訳で
凡人はその足りない部分は他の人に補って貰うしかない
その他の人とは一番最初は親だと思う そう思う時に小さな頃の親との関わりが大きく影響し
渋沢栄一の性格を作ったのは渋沢家に養子で来た父市郎右衛門と藍葉を買う為に末端現場を見ながら一緒に並んで歩いた道中の雑談の影響が大きかったのだと思う。
雑談は面と向かってしない処がいいところで二人で歩く時は親のどちらに並ぶかは大きく影響すると思うのだが
海外は知らんが日本では並ぶ時は右習え右で右の耳で聞く事は頭に入るらしい
親子関係はどれだけ一緒に歩いたかが大きく影響するのかも知れんと青天を衝けを見て思った。

それにしても血洗島とは恐ろしい地名だと
なんも関係ないが島続きで6年ほど前に日本一危険と言われる瀬棚の太田神社を新年参拝して沖に奥尻島を眺める。

海の無い埼玉県で島と言うのだから中洲か何かなのだろうと思ってグーグル先生の地図を見ると利根川と小山川に挟まれた平坦な地形である事がわかる。
この川に挟まれた処と言うのは農業の適地で渋沢家は結構稼いでいたらしい
親と一緒に稼ぐ手伝いをする雑談をした世代が明治維新を作ったのかも知れんなどと大河ドラマを見て思った。
逆を言えば親の手伝いをよくする子はいい子に育つと

屋根

隣にあった家が解体され100メーターほど離れた家の居間が見える様になった。
コチラから見えると言う事はアチラからも見えるのである。
少し留守にすると婆様がシャッチョ~しばらく居なかったね~と頻繁に言われる様になった。
最初はまだ見守りの範囲かと思っていたが最近は婆様が冥土の土産に俺の操を~などと思ったり
少し近すぎると思い始めてる。
住宅は横並びが適当な距離感がいいので
いまは老人ホームには絶対に入らんと思っている。

鉄筋コンクリート造の学校がアチコチに放置されてるが
なぜに集合住宅や老人ホームに活用しないのか不思議

一気に降った雪はまだ周辺に残っているが、たった40キロ南下すると

無い 北海道は40キロ程度なら買い物に行くかと言う生活圏なのだが南下はよく行くがなぜか北には中々行かない
内地では40キロ違えば違う土地で文化も違う。
北海道はアイヌの人以外は元々は和人の移住者でアチコチの文化を持込んでいるのでごちゃ混ぜになっている。
それでも集団移住した田舎は何処となく雰囲気と言うか空気を感じる場所がある。

知内方面は四方屋根が多くあり、北の江差松前などは切妻屋根が多くなる。
雪が屋根の型を変えて来たと思うのだが
四方屋根などは玄関先に雪が落ちて出入りが大変だと思うが
それでも四方屋根や鬼瓦に拘るのは望郷の念がそうさせているのだと思う。
その土地ならでの屋根があったがそれももうすぐ消えて行くだろう。

屋根は重要で一つ屋根の下と言う。
横並びで平屋の集合住宅は外に出ないで隣に行き来出来るのはこれから高齢者が多くなる田舎では必要ではないのかと思うのだが
なぜか海岸線の平屋集合住宅はいきなり通りに出る作りが多いがすぐ傍で内陸になる北竜や雨竜の集合住宅は外に出ないでも隣に行ける共同の屋根を持っている住宅が多く見られるが
海岸線は風も強いのになぜ屋根が掛かった共同通路は無いのだろう。不思議


最近たまに見る ソーラー発電の倒壊
ここは20キロ四方人家も何もない熊か鹿しかいない山奥

積雪の無い内地と雪が降る北海道とはパネルの勾配が違う。
勾配を付けづに平らに置いた方が発電量も違うが北海道は積雪がある為にカネ勾配まで付ける必要がありそれで向ける方角も狭くなるし支柱は強度が必要になる。
積雪のない所とは経費も掛かる上に発電量は少ない北海道は
個人が投資目的にやるのはまだ早いのかも知れない

デカい大地の小っせい奴

毎日雪との闘いで気分直しに当別迄配達に行って来た。
北海道は広いがカーナビに当別町青山〇〇〇番と入れるだけで玄関先まで着いてしまった。
9文字これだけで着くなどデカい大地なのに凄いなと思う。

青山は暑寒山系の裏になるが石狩まで大きく回り道して片道100キロ

生振から東に入り劉連仁記念碑
劉連仁氏は強制連行で沼田明治炭鉱に行くが逃げて終戦を知らずに当別に13年も隠れて住んだという。
昭和33年と言えば北海道はまだまだ貧乏暮らしだった思うが、ここに居たとしたらさほど高い山でもないのになぜに見つからずに13年も暮らせたのか
今年俺はスズメバチ駆除に青草を燃やしたらミニパトが来て・・・・・・
冬は煙も上げずにどうやって暖を取ったのか
冬の食料は?もともと中国ではそんな暮らしてたのか
これだけ根性と体力があれば13年間なら歩いて帰れる場所なら歩いて戻ったろうと思う。

俺が昭和38年に津軽海峡を青函連絡船で渡った時はもう歩いて戻る事は出来ないと覚悟をしたのを覚えている。
それから穴グラではないが愛知県や関西周辺をアッチコッチ転々とした。
日本列島は異国から来たら歩いて戻る事は出来ない
そう思う時に異国から来た人を在日だのなんだのかんだのと差別するのは情として人間として偏狭でセコいケツ穴の小さい、頭でしか考えられない小っせい奴なのだと思う。

劉連仁記念碑を左に見て弁華別からさらに左の山奥に入り配達完了
帰りは町場に出たので念願の天ざる1650円を食った。
美味かったが150円予算オーバ~ 俺も小っせい奴なのだ。