ラーメン屋再開

暇になると思ったら仕事がトロくなって何かと気忙しい日々が続いている。


土日ラーメン屋を木曜日から仕込みして再開したが4月17日18日と雨に降られて全然ダメだったが
それでも近所の人が集まって呉れた。

今は18リッターの水に2時間でダシ取り終了する鶏ガラと12時間出ダシ取りするトンコツを別々に火に掛け営業前に合わせ36リッターにする。
途中で状況を見ながら蒸発させて濃さを調整するのだがアマチュアなので自分の舌など当てにならん眼で見て確認がどうしても多くなってしまう。
その眼も免許更新対策用に眼鏡を作ったが左右が違いすぎて実践には使用出来ないので
やはり普段使ってる慣れてる眼鏡を使って眼鏡使用条件でなんとかクリア
左眼の角膜を移植しかないらしいが只でさえ足りない角膜を年寄りが使うなど勿体無いし
デジカメでレンズばかり良くなってもメモリーが一杯一杯では話にならんが今の俺はメモリーが破損状態なのでその時が来たら免許は無くてもいいやと思う。

車一台所有する経費が俺の軽トラですら保険、車検燃料減価償却などで年に60万ほど掛かる。
これだけあったらタクシーに充分乗れると思っていたがそのタクシーがこの町から無くなってしまった。
誰ぞ個人タクシーを開業する人は居ないのかと思うのだが
人口3900人の町で個人タクシーが成り立たないとは思えないのだがそんな話は何処からも聞かん
2016年に人口4600人居たので年平均100人ほどが減っているが
なにか自然滅以上に減っている様な気がする。
これは金イコール幸せな生活としか思えん考え方を変えるしか方法は無いのだろうと思うのだが

昨年から菊芋を空き地に植えたが自生してる状況をよくよく観察すると斜面に多く自生してる。
う~ん斜面は延々と留萌迄十数キロあるぞと思い昨秋一角にコッソリ菊芋を植えて見た。
黄昏た崖下村にも楽しみは沢山あるのだ。

NHKのチコちゃん叱られるは最初は面白いと思ったが見てる皆が身体を使う事もなく知ってしまう話などクソも面白ないワイと思い見ていない

 

古池や蛙飛びこむ水の音 


北海道狩勝峠佐幌にある歌碑群 北海道ではこんな広々とした土地に作物の代わりに
言うは水に流し聞くは岩に刻むとばかりに恨み辛みから嬉しい事まで石に歌を刻み沢山置いてある。場所は分かりにくくサホロ酒造周辺を探すとある。

説明は聞いたがそれでも芭蕉は怪し過ぎるだろう。
大たい何食ったら一日40キロも歩けるのだと
古池とは旧体制を意味し、そこに飛び込む蛙とは蛙は水陸両用で忍者を意味する。
それは旧体制に忍者が放たれたと読むべきではないのかと・・・・・俳句と称して暗号文を・・・・・
そう思うと町内や周辺に怪しい くノ一が数人

主君を持たない出稼ぎ忍者集団の伊賀流は同郷の出であっても敵対した時に即断即決でバッサリと切るのが伊賀忍者の掟らしい
グズな俺に一番足りないものでもある。

おそらくこれが最後なるだろうと思うが全国アチコチ回って歩いたが紀伊半島ほど生活が厳しいと感じる土地は知ってる限りでは他にはない
その厳しさが甲賀忍者や伊賀忍者を生んできた。
それは太古の時代から宿命付けられ琵琶湖が大きく関係していて琵琶湖はドンドン動いてるが その跡地は農地には向かいらしい

芭蕉記念館ですっかり話し込んで遅くなり 今夜の寝床針テラスに向かう道中
チョットでも平らな部分があれば家を建て集落が出来る。
これくらいは状の口でなんで誰もいない処に車がチョコチョコと止まってるのかと思ったら道路に車を止めて今度は歩いて坂を登って山奥の家に帰るのが日課らしい

北海道はそこら中に平原があり種さえ撒けば食える野菜が出来るし
山に入れば山菜が豊富にある 今時は山の菜と言われるが要は山に生えてる雑草なのだ。
その山菜の種を畑に蒔けば雑草もびっくり過保護で育つわ育つわでなんぼでも生えるのだ。
紀伊半島ではその畑すら儘ならないで斜面に住む事で大雨で多数の犠牲者が簡単に出てしまう。
それでもそこに住む理由は江部乙出身の岩橋永遠の
故郷とは自分を記憶して呉れる人達の住む処と言う事に尽きるのではないだろうか
何処でも住めば都なのだろう
この紀伊半島には修験者から忍者やサンカと厳しい土地ゆえの奥行きがあり
北海道とは違うその地に生活をする根本があるような気がする。

モップおじさん

春から秋までの今シーズン仕事はあと数日で終了する 後はのんびりと秋まで待機なのだが待機は無収入で拘束されるので何処にも行けないムッタシ

伊賀上野忍者屋敷
市営駐車場でクソ高い駐車料金600円を払い見に行くがコロナでドッタラコッタラで3時で終了、着いたのが3時15分頃
遅れて来た情報など大した役には立たんのはどの業界も同じなので忍者は時間を守る事は重要だとは思うが
うんだら駐車場のクソ高い駐車料金返せと思ったが手裏剣でも落ちてないか駐車料金の元を取る為に周辺を散策

伊賀上野城石垣
だけどこの石垣を積むにも銭が相当掛かると思うが
その銭をどうやって集めたかが商人としては興味深々なのだ。
「 胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり 」
と言ったのは
江戸時代の神尾 春央だが百姓と違い商人(あきんど)は儲からない事には銭は出さん
賄賂も戻って来るから出すのであって、それは現代も何も変わらんタダで酒を呑ませてくれるなどと呑気な事を言ってるのは最近では総務省の役人くらいのものなのだ。
江戸時代の侍人口比率は一割程度だったらしいがそれは現在の役人の比率から比べると大層多いが半農武士も居たろうから一概に比較は難しいが
そう考えると城は農民から見るとムッタシ来る事も多かったのではないかと思う。
弥生時代に始まった農民はその後も近代まで食管制度でいい風に絞られ続けるのである。
物事をどっちから見るかで大きく違うが困った修理ほど左右から見るのが修理では大事な事なのだ。
「 人は城、人は石垣 」と言ったのは武田信玄だが聞き位置や立場によっちゃ~結構残酷な話になる。
などと思案していたら

入館出来る建物発見で300円払って
300円払ったら蕎麦食えるぞ思いながら入館
博物館は大好きでかなりの数を見て来たが
俺は思うのだが博物館の着眼大局を見てる一番の関係者は学芸員や事務所に座っているネエチャンやオヤジでないと思う。
以前朝から晩までフィルムの現像をしてるカメラ屋のおばさんと話をした事がある。
亭主はチョットは知られた写真家ではあるが
自分では一切カメラを持つ事はなく
お客さんが持ち込むフィルムを現像し写真を確認してお客さんに渡す作業を数十年続けたおばさんが
意外と素人の方がこれはいいと思う写真を撮る事が多いと言っていた。
博物館で一番の着眼大局を見てるのは掃除のおばさんやおじさんだと思っているので見掛けたら必ず声を掛ける。
この建物を見掛けたら入館してモップを持ったおじさんを見掛けたら
それはラッキ~でこの博物館空間が何倍にも広がる事は間違えない


俳句にまったく興味はなく
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」しか知らんが
芭蕉は伊賀上野の生まれである 俺は芭蕉は俳句と称して情報を集めた忍者ではなかったのかと想像して博物館に入った。
木戸銭を払いながら学芸員らしいネエチャンに聞いてみたが
『 そう言う本も出てますが一切そう言う事はありません! 」
と言ってモギリを渡した。
入館後にモップ持ったおじさんが居たので同じ話をした。
そのモップおじさんは自分では俳句はしないそうだが
芭蕉はなぜ忍者でないのかとその後閉館まで様々な展示物を使い現代と比べて説明をしてくれた。
平均して一日40キロ歩いたそうだが奥州路のある場所は通り抜けているがその理由はなどと説明してくれたが
資料としてはさほどの量ではないがモップおじさんが居た事で
この博物館は大きく広がる。
毎日毎日同じ事をしてるからこそ見えて来るものがあるのだろうと思う。
ちなみにこの芭蕉記念館を寄付したのが間組だった。
間組うん!間者か忍者か!などと思ってしまった。
忍者と間者は違うらしいが忍者とは逃げる事にありと悟った。
幾らいいい情報を掴んでも捕まる様では話にならん

岐阜

崖下村は30人程度の集落で店もない交通機関もないタクシーも廃止ない
でも生活にはなんの支障もない顔を合わせると昨年とたいした変わらん同じ話が繰り返される。
それはいつ迄もここに居ていいのだと言っている様に聞こえる。
若い時は兎に角闘う事を前提にやって来た 敵を作る事、倒す事で前に進む
信号で止まると先の信号を見越してアクセルを開ける。
すこしまともになって商いをする様になっても昨年の売上を成長させる事で前に進む 昨年が10台なら今年は11台と翌年は12.1台と成長、競争を止める事など自分自身に許される事ではなかった。
メーカーの数百ある販売店を一か所に集め前列右から売上順に並ばせB5程度の成績賞を貰う アイツより下になってたまるか酒が不味いわと
さらに自分の中に敵を作り休む!満足!などクタバッテからせいと言う人生だった。


岐阜恵那上矢作
両側を山に挟まれたこの小さな町でスタンドがあるとは思わなかった車修理と雑貨を扱っている。
多分俺の人生で一番高齢の方に給油して貰ったと思う。
まず婆ちゃんが何処かに爺ちゃんを呼びに行ってから給油が始まる。

女城主の岐阜恵那岩村 のぼりが桜色

岐阜郡上八幡島谷

岐阜郡上八幡鍛冶屋
実際に役立つかどうかわからんが殆どの町家に、うだつ、がある。
道は広そうに見えるが車すれ違いは難しい処が多い

山之内一豊の妻 千代生誕の地 所説あるらしい

岐阜は愛知との県境の各務原や瀬戸と産業はあるが
そこ以外は周辺の県とは空気が全然違い何処を通っても時代から置いていかれた県と感じる。
更新をされない為に観光地として生き延びているのだろうと思うがこの福井から琵琶湖の東側を通り三重から奈良、和歌山のラインは思い込みもあるのだろうと思うが何かが違う。
女性の顔立ちはほっそり顔のキツネ顔が多くそのまま巫女さんにしてもいい日本顔の美形が多い
それに印象が浮かれていないのだ どことなく凛としたと言う言葉があってる様な説明は難しいが
ここまで店など殆どない山ばかり走って予算は余ったしコロナでなければ何処かの宿に泊まって呑み歩いてみたかったが断念する。

もう宇宙船地球号はイケイケドンドンが許される状態ではない今あるものを大切に使い明日に続ける。
さよなら三角また来て四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いは、、、、
と明日を信じる夕暮れ時が似合う岐阜の町々を見たら無性に帰りたくなった。
帰るわ

岐阜県カモシカ街道

若さとはそれは見識を知らない事で人様を傷付ける事が多かった 通り過ぎて見ると辛い事より悲しい事の方が多い様な気がしてならない
名古屋市内に入って台湾ラーメンを食べて昔の通りを通り抜けてみようかと思ったが
今回はどうもそんな気にならず愛知県は迂回して天竜川沿いを中津川に向かう


天竜川沿いの鍛冶屋の息子として生まれた。
本田宗一郎生誕の地 静岡県磐田郡光明村
浜名湖周辺は豊田佐吉 本田宗一郎 ヤマハ スズキと日本の自動車と二輪車の創業者が20~30キロ四方に集まっている。
豊田佐吉や本田宗一郎や田名角栄の生誕の地を見たが何か共通した雰囲気がある。
それはその場所は暮らすにはちょっと大変だったろうと思う場所で
特に田中角栄の生まれ育った家の場所は農家をやるにもいい場所とは言えない
苦境が頑張り根性を養って来たのだろうと周辺の山や田畑を見ると感じる。

天竜川右岸を登ってゆく左岸は国道152号線
川を境に全然違う文化圏を作るのは当たり前で現在の橋やトンネルを作る技術が発達してから国道を左岸か右岸かとどっちに作るかは大問題だったろう。
ずっとどう云う経緯で道は作られるのかを考え続ける事になる。

辺境の地 くんま道の駅 ここまで来る道産子は中々おらんべと思った。
今度こそ平谷村に行くぞと思い山の中を道を探して彷徨う

びっくり初めて生きてるニホンカモシカを見た。
青森県浪岡道の駅では剥製は見たがおいおい崖でなく元畑と思える平地でカモシカが楽して草食っていていいのかょと思った。
南海道では崖ばかりでこんな広い空き地はとうとう見る事はなかった。
カモシカさんあんたの誇りと矜持はどこに

道路がすぐ傍を通ってるので
ドンドン近づくが逃げる気配がない
「 オラオラ ニホンカモシカの俺様に手出ししたら日本国政府がゆるしせんで~ 」
と言う感じで逃げない北海道のニホンカモが付かないそこらの雑兵足軽並みのエゾシカだったら こんな傍に居たら今夜の焼肉になってしまうぞ~と思った。
岐阜県に入ってそこら中にサルは居る熊や鹿などの野生動物も沢山いるらしいが
南海道では野生動物を見掛ける事はなかった 多分捕獲され食われるだろうと思うのだが山の奥地で暮らす人達には川の魚も少ないので野生動物を捕獲する事は動物性たんぱく質を取る重要な事だと思う。
南海道で山奥の道の脇に沢山あったドラム缶はミツバチの蜜を取る為の物だと教えて呉れた。
岐阜県ではジバチを獲る事は禁止と書いてあった処が多かった。
そのあたりに同じ山奥でも生活の違いがあるような気がする

野生と向き合いながら暮らすのは危険も伴うかも知れんが言ってみれば毎日が自然公園内で遊んでいる様なものだと思う。
切ったらチ~が出る無垢の獲物を獲って酒盛りをする人達にとっては都会で元の姿がわからん物を口にする人達やコロナの危険を犯してまで虚構のスナックやキャバクラなどに出掛ける人達はおかしいと思ってるのではないかと思う。

よほど拒まれてるのか今回もなぜか信玄街道途中にあるらしい平谷村宿は発見出来ずにやっと暗くなる前に人里に出た 野宿かと思ったがほっと安心
一週間旧街道を探して走って来たが現代は橋でもトンネルでも好きな様に作れるのですべての道は都会に向かう為に作られ
何処にでも道は作る事は出来るようになったが道を作る時に民間鉄道の様に地価の安い処に線路を作り街を作り地価上昇で莫大な利益を得るやり方は取り残された旧街道は限界集落を生み大都会の一局集中を生んできたが
俺が言うのもなんだが本当にそれがいい方法とは思えなくなっていて
三大都市の一つからここに移り住んでたった一回しかない一生を思う時に若い時は人様の迷惑も返りみず目一杯やっても後半は安心と楽しくさらに還元が大切だと思う様になっている。

メシ食った。

免許更新用の眼鏡を作ったり眼にいいナンチャラ言うサプリを呑んだりした。
更新は出来たが左眼角膜が切れて視野が極端に狭く条件付でなんとかなったがそれより
よく録音した自分の声を聞くとあれ~こんな声なのかと思うが
初めてサツドラの駐車場にある証明写真の箱に入って写真を撮った。
そこから出て来た写真を見た時に
誰だこのロクデナシ風の顔はと普段鏡で見る顔とは全然違うのだ。
なんでだろう脳が勝手に自分の顔を作るのだろうか
最近は目元が綺麗なお姉さんがやたら多いが疑り深い俺はマスク以外で見える処だけ入念に化粧をしてるのでは思ったりしてるのだが


南海道の川はどこもこんな感じの色が多く熊野古道博物館で有機質が少なくドッタラコッタラと書いてあったが本当にそれだけなのだろうか海の青さとは全然違うので疑ってシマッタ
水清ければ魚は極端に少ない

2200年前に徐福が始皇帝の命で船で出発するがここ波田須に流れ着き永住する。
秦の時代の半両銭も沢山見つかっていると書いてある。
南海トラフ地震は100~200年毎に起きるらしいが2200年も前の物が出土するのは地形がどっち向いてるかで津波の被害が違うのだろうか

崖の上にある徐福茶屋

熊野古道博物館 熊野古道ほんの少し歩いたが楽な道なら修行にはならんわい
俺は修験者ではないので熊野古道は数十メートルで断念引き返す瀬棚の太田神社の比ではない

なるべく人に逢わん様にして歩き主に自炊したが昔はよくあった定食屋に入って今回一番の贅沢メシ
愛知県は色々思う処があって鳥羽からフェリーで伊良湖に渡り浜松に行ってS社の博物館を見学予定だったがコロナで予約がドッタラで人数がコッタラで空いてる時は結局は無いとの事だった。
だったらネットに出すなと思ったがネエチャンに言ってもどうもならんのですぐ傍のヤマハ博物館に変更
コロナ対策で携帯番号だけを教えて中に入る。

ヤマハは先進的な事に関しては進んでいて臆さないボートやスノーモービルやジェットスキーとH社もS社も二輪車以外はヤマハの後を追いおこぼれを貰っていると言っていい
たった一人でもミニホッパーを使い無料のヨット教室をやって海への道を開いた。
30年ほど前にはヤマハ以外にボートメーカーは無いと思っていた人が大半だったのだ。


昔乗っていたシフト機構が独特な YDS1 煙がやたら出た。


ヤマハが最初に作った除雪機 1978年 YT665 7F7
原型は栗山で作っていたヤナセスノースワローに近いが振動防止や自動調心ベアリングなど渾身の力作だったが
故障の連続で寒い中で泣かされた。
だがヤマハはクレーム処理に関しては3社ある内でも一番対応が良く この7F7は数時間でフリクションデスクが摩耗して動かなくなる代物だったが対策部品が出来るまでデスクを段ボール箱でどさっと送って来て一枚替える事に僅かではあるが工賃が支払われた。
一度掛かると途中で諦める事の無いメーカーと言っていい


1965年 それがトヨタ2000GTを生んだ。
ヤマハが作ったエンジンと言っていいトヨタ2000GT当時これは衝撃だった
それまでロータスツインカムがドッタラでアルファロメオがコッタラ言っていたのを一気にひっくり返した今でも世界に誇る不動の名作
ヤマハにはこれからも頑張ってやっていって欲しいと強く願う。
ライバルがいない業界は政治と同じでロクな事にならん

うだうだと

紀伊半島の道の駅は駐車場は東北や北海道のチョットした商店の駐車場程度しかない処が多く ここで車中泊は迷惑だろうなと思う処が多く泊まる処をアチコチ探した。
俺の車はFFヒーターが付いていて一晩で2リッター程度の灯油を消費する、北海道は雪が吸収するのかあまり音は気にしていなかったが
FFヒーターは早い話がジェットエンジンと大した変わらん構造で点火してしばらくはアフターバーナー状態でジェット機が離陸する時の音になり
車外に出てるマフラーの騒音は結構なものでトラックが泊まっている処か道端でなければ車中泊は出来ない。

名阪国道と国道369号線が交差する ‎奈良市針町 にある道の駅 針テラス
左端が俺の軽トラ 止める場所もトラック並みに煩いのでトラックから離さんといかん
半グレみたいに斜め駐車になってるがここに小さなマスが斜めにあるのだょ!

ここは大きく様々な店や飲食店があり北海道の郊外型ショッピングセンターに近い
日本の大型トラックは可哀想だといつも思う。荷物の都合で何処に行くかわからんし帰りも空で走らせて貰えるほど甘くはなく帰りの都合で自分の住んでる町を通り越すなど普通にあるだろう。
そんな時に着の身着のままで寝ると疲れが取れない
だがベットの上に最低でも1メータ以上のクリアランスがないと着替えは出来ないうえに寝返りも満足に出来ないスペースしかない
さらに暖房はジーゼルノックが打つエンジンを始動した状態でしか出来ない
なぜせめて冷蔵庫とFFヒーターを付けてやらないのか
鮮魚トラックに乗った経験から日本のトラックメーカーや運送会社はいつまでこんな事を続けるのかと思う。
せめて出来る事は先に行かせてやり余裕が出来た時間に仮眠させてやる事しかない
JRがもう少し賢ければ鉄道路線を残して日をまたぐ荷物は鉄道コンテナで運び駅を中心にした日帰り路線を小型トラックで運ぶ事を考えていたなら
運転手の負担はかなり減らす事が出来る。
ここ増毛には宅急便は70キロ先の深川から集配に来るが留萌のホームセンター駐車場で荷物の積み替えを手作業でやっているがハブの深川で鉄道に乗せて増毛まで運んであとは地元の軽トラが集配したらいいと思う。
昔のチッキの大型版になると思うのだが
コストカッターJR北海道の社長は人相が貧相だから無理か!
と人相で差別する。


道の駅 トイレ
わざわざ書いてあると言う事は相当あるんだろうなと思う。
銭があっても地位があってもさらに上を見て進む
それは自分の立ち位置を守る為や失った時の恐怖心など差別する側の弱さから来て差別が完全になくなる事はないだろうと思う。
対策は圧倒的な心の強さと立ち位置が必要で世界で一番の金持ちか何も失う物のない徹底した貧乏人かで どっちにせ差別は半端モノのやる事だと思うが
俺自身も男女差別から始め何かと俺とは違うと差を探そうとし
それに気づく事がありまだまだ心の弱さと修行が足りないと思う。
その強さを持ってる人は二人しか知らないが二人も知ってるだけでもまだ恵まれているか~

びっくり 原木栽培シイタケが1パック200円から250円
つくし1パック250円 ふきのとう1パック250円 え~え~
ここは都会ではない宇陀の山中 北海道は改めて恵まれている。

伊勢路旧街道宇陀宿場 右側の壁の下に

ここにも画像左下にある半丸斜めに簀の子がある犬返しと言うらしい
これがあちこちにある何の為にここに色々と不思議
先に進む

南海道十津川村

身体を張った揉め事は負けた時の恐怖心は実体の何倍にも想像を膨らませる。
それをいい風に指導者が利用し身内に銃を向けさせたのがカンボジア、ポル・ポトで現代のミャンマー国軍であり北朝鮮や習近平とプーチンといい
そったら狂った指導者のもんは出来るだけ買わん様にする為に
値札の生産国をしっかり確認せんといかん 商人(あきんど)的にはおよそ2割以上売上が落ちたら
その国の物をわざわざ輸入してまで商売するメリットはない


道の脇に余裕があるとドラム缶がアチコチに置いてある。

丸太株これもアチコチに置いてあるが
理由は後で知る事になる。

水タンクと岩陰の丸太株のセット

今迄考えた事も無かったが電気は上には簡単に上がるが水は上に上げる事は難しい為に水道は無く澤水をタンクに貯めて山の上の民家が使っている。

商店前の軽がやっと通れる狭い道を鉄の柱を使い道を拡幅してる。
その下にも人家らしきものが建っている。

紀伊半島の川は独特のエメラルドグリーンの色がしていて北海道やその他の地方では見る事は珍しい色をしてるが魚の影は見る事は無かった。
水清ければ魚棲まずは本当の話でいてもヤマメかイワナだと思うが
皆食ってしまったのか紀伊半島の山に野生動物は全く見なかった。
動物性蛋白質はどうしてるのか

この古い橋がアチコチに掛かってるが橋が無い時代はどうしてたのか
そう思う時に橋も無く川を越える事が出来ずに雨竜町に出ずに暑寒岳を越え増毛に来たと言う国領の話を思い出す。

宇陀市から吉野町を通り下北山村から十津川村に向かう。

安い輸入材で林業はまったくダメと言うのにどういう経済構造なのか結構立派な家が多い

十津川村は江戸時代に作物は取れない為に年貢が免除されていたが
武士と同格の郷士と言われ幕末期には京都にわざわざ駆け付けて揉めている。
古い家の表札には武士と書いてあるらしく現在でもこの山々で鍛えた足腰もあってか剣道はやたら強いと道端で作業してた若い衆が言っていた。
もう十津川村民は日本の山岳民族と言っていいと思う。

南海道紀伊国石を積む


伊賀上野城壁の石を積む

川の中の石の上に家を建てる。

畑に石を積む

南海道紀伊国
ここで暮らすには気の遠くなる様な石を積む事から始まる。
ここでは田畑の土が流されない様に石を積むのです。
ここでは子供が一人増えたら住む処を作る為に食べさせる為に石を積むのです。
と加賀美幸子のナレーションが聞こえる気がした。

川の中に鉄の杭を打ち川にはみ出し家を建るなど普通に見られるが
軽がやっと通れる道に他所者がノンビリ車を止めて写真など撮る事など許される事ではない
ましてやギリギリの生活を画像で切り取る事も躊躇してしまうのだ。

今迄コロナで職を失って住む家も失ってホームレスになってもなぜ生まれた処に帰らないのか
帰ればふる里が温かく迎えて呉れるだろうくらいに思っていた。
南海道紀伊国には次男坊や三男坊がその土地に残る事など許されなく一ミリの隙間もない事が容易に想像出来た。
各地を転々として歩いた、お気楽な俺は行った先々でここに定住するにはどうやって生計を立てるかを常に考えるが
修理工か畑作なのか狩猟なのか、
ここ南海道紀伊国には何も思い浮かばないのである。
義務教育が終われば行った先の土になれともう戻る事すら拒んで様に見えるのだ。
吉野では大雨でいつ流されるかわからん川の上で捨てるしかない様な丸太の皮の次にわずかに残る厚さ2~3センチ程度の半丸の端材を集めて小さな機械で割り箸を作っていた。
割って割って割り捨てる事で誰かがやっと生きて行けるのだと
北海道はいかに恵まれているかを思い知った南海道紀伊国

辛子大根うどん

16日琵琶湖

これが最後の内地車中泊旅なるだろうと思う瀬戸内島々巡りは諦めよう
と紀伊半島南下旅を選んだが
いまだに自分の人生をどう終わればいいかが分からない
まだまだ儲ける事は大好きだしやりたい事は沢山ある。
儲ける事は大好きだがそれはただ単に数字でしかないだから貯蓄の二文字はない生れ付いての気性と遺伝子なのだと思う。
その年に食うだけ稼ぎその年暮らしが希望で楽しく終わりたいだが方法がわからん
そのヒントは奥地の田舎暮らしにあるような気がしてたのだが!

琵琶湖に象が居た時代があった。

16日10時リニューアルした琵琶湖博物館見物を予約していたので熱検知を通り入館する。
今回は各地の博物館は予約制が多くなり見れない処も何ヵ所かあった。
淡水魚飼育が趣味なのでここはこれで3度目になる。

この人はニューアル前からここに立っていた。
足元には堅田のシジミがびっしり敷かさっている その大きさは現在の物より遥かに大きく天塩川の物や網走湖でも大きいシジミの分類に入る。
シジミと言えば落語にもある病気の姉を持つ子供のシジミ売りだが江戸時代で一升桝で十文くらいで現代の価格で160円ほどだったらしい
現代の価格に比べて安いジャンと思うが当時は誰でもシジミは簡単に採れたらしい
この肩に棒を担いで野菜から一心太助の魚などなんでも売って歩く棒手振りには幕府からの鑑札を買わなくてはならずそれを仕切る元締めがいた。
ざっと考えるには棒手振りが読み書き算盤が達者とは思えない それでも商いを続けるには計算をする事の無いように兎に角仕入れた金額の倍で売る事が基本だったろうと思う。
その手法は昭和の戦後まで棒手振りは存在してやはり倍で売る事が多かったらしく
売値が10文なら仕入れは5文になるが一日売って歩き全部売れるとは限らんし 少し知恵がある子は後半は値引きなど行っていったろうと思う。
しかしシジミを収穫する側は直接売ったら倍の値段で売る事が出来るのにしなかった。
そこにはシジミ採りにはシジミ採りの矜持と定め掟があったと思われる。


水辺の掟

その時代時代で定と掟があった。
それは地政学的な位置は変える事は出来ない集落の生活を守る為にあり
年貢は現代の様に個人に課せられる事はなく村事に課せられる為に病気で稼ぎがない村民や田畑の不出来などから村民が村民を守る事にも繋がっていった。
現代の移住田舎暮らしをする為には過去を充分に知る必要がある。
書き物を読んでいて水生植物園を見る時間が無くなってしまった。

俺は日本列島は縄文だったが大陸から渡来人によって東西に分かれ
その一番最初は現在の対馬海流潮流れが巻き込む若狭湾周辺から始まり山々のなだらかな部分を伝い歩きし南下をしていったと思っている。
思込みかも知れんがこのラインの女の人は顔が弥生顔が多い特に岐阜県南部や滋賀県は多い様な気がしてる。

17日はよいよ奈良県に入るが今迄の考え方が間違えてるかも知れんと思い始める。