16日琵琶湖

これが最後の内地車中泊旅なるだろうと思う瀬戸内島々巡りは諦めよう
と紀伊半島南下旅を選んだが
いまだに自分の人生をどう終わればいいかが分からない
まだまだ儲ける事は大好きだしやりたい事は沢山ある。
儲ける事は大好きだがそれはただ単に数字でしかないだから貯蓄の二文字はない生れ付いての気性と遺伝子なのだと思う。
その年に食うだけ稼ぎその年暮らしが希望で楽しく終わりたいだが方法がわからん
そのヒントは奥地の田舎暮らしにあるような気がしてたのだが!

琵琶湖に象が居た時代があった。

16日10時リニューアルした琵琶湖博物館見物を予約していたので熱検知を通り入館する。
今回は各地の博物館は予約制が多くなり見れない処も何ヵ所かあった。
淡水魚飼育が趣味なのでここはこれで3度目になる。

この人はニューアル前からここに立っていた。
足元には堅田のシジミがびっしり敷かさっている その大きさは現在の物より遥かに大きく天塩川の物や網走湖でも大きいシジミの分類に入る。
シジミと言えば落語にもある病気の姉を持つ子供のシジミ売りだが江戸時代で一升桝で十文くらいで現代の価格で160円ほどだったらしい
現代の価格に比べて安いジャンと思うが当時は誰でもシジミは簡単に採れたらしい
この肩に棒を担いで野菜から一心太助の魚などなんでも売って歩く棒手振りには幕府からの鑑札を買わなくてはならずそれを仕切る元締めがいた。
ざっと考えるには棒手振りが読み書き算盤が達者とは思えない それでも商いを続けるには計算をする事の無いように兎に角仕入れた金額の倍で売る事が基本だったろうと思う。
その手法は昭和の戦後まで棒手振りは存在してやはり倍で売る事が多かったらしく
売値が10文なら仕入れは5文になるが一日売って歩き全部売れるとは限らんし 少し知恵がある子は後半は値引きなど行っていったろうと思う。
しかしシジミを収穫する側は直接売ったら倍の値段で売る事が出来るのにしなかった。
そこにはシジミ採りにはシジミ採りの矜持と定め掟があったと思われる。


水辺の掟

その時代時代で定と掟があった。
それは地政学的な位置は変える事は出来ない集落の生活を守る為にあり
年貢は現代の様に個人に課せられる事はなく村事に課せられる為に病気で稼ぎがない村民や田畑の不出来などから村民が村民を守る事にも繋がっていった。
現代の移住田舎暮らしをする為には過去を充分に知る必要がある。
書き物を読んでいて水生植物園を見る時間が無くなってしまった。

俺は日本列島は縄文だったが大陸から渡来人によって東西に分かれ
その一番最初は現在の対馬海流潮流れが巻き込む若狭湾周辺から始まり山々のなだらかな部分を伝い歩きし南下をしていったと思っている。
思込みかも知れんがこのラインの女の人は顔が弥生顔が多い特に岐阜県南部や滋賀県は多い様な気がしてる。

17日はよいよ奈良県に入るが今迄の考え方が間違えてるかも知れんと思い始める。

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