ヂャイアントコニー

ヂャイアントコニーを書いてみようと思ったが
記憶を辿ってゆくうちにどれも北海道の田舎から出て行った者には何もかも強烈な出来事ばかりで端折る事は難しく別枠でと思ったりしてる。
北海道原野二線の川の傍から昭和38年に流れ行き付いた先が元塩町のアパート
二階の中加減あたりに茶色の線が付いていて伊勢湾台風でそこまで水に浸かったと言う二畳半の矢作アパートだった。
すぐ横の地面より高い処にコンクリート堤防で守られたでなんでも浮いている大江川があり大江川は名古屋港に繋がっていて海抜0メートル地帯の為に水が流れる事もなく満潮干潮でゴミは行ったり来たりするだけのドブ川だった。
そんな場所だから部屋代も格安だったが幾らだったのか思い出せない
すぐ横に荒れに荒れた南光中学がありその一角に

伊勢湾台風の渦が巻いて水が引いた跡に大量の靴が溜まった事で靴塚と名付けられたが当然靴だけではなかったはずだろうが靴塚慰霊碑があった。
住んで居た当時の周辺は急ごしらえの文化住宅が多かった。
そこから北に数百メートル行くと北頭電停がありそれに乗って行くと鶴舞公園に出てそのすぐ傍が有名な吹上
それから市内を転々として転居を繰返したが
いまのここ崖下村での生活にはとても満足している。
それは見えるとこ見えないとこで大勢の人からの到底返す事など出来ない恩を受けたりお世話になったり不義理をしたりと思い出すだけでどれも端折ってはいけない これからも刻んでいかないと思う。
そんな訳でヂャイアントコニーと狂ったオジサン達の事を中々書く事は出来ない

ヂャイアントコニーは水平対向エンジンで確か運転席の下にエンジンがあったと思うのだが画像を検索し見るとボンネットがある記憶違いなのだろうか


愛知県長久手トヨタ自動車博物館に行った時に撮った一枚なのだが
これだと思ったが違うかもスズキスズライトの様な気もする。

コニーはエンジンはトヨタパブリカUP10のエンジンとそっくりで水平対向エンジン特有の吹かすとエンジンが本当にバタバタと言うエンジンだった。
サイドガラス窓は普通のガラスで勢いよく閉めると割れどんなに急いでもゆっくり閉めないとガラスが凶器となって自分に飛んで来るのだった。
それに手配師のアニーが乗って来て人を集めに来る。
いく場所は少々危ない処からキツイ処と何処に連れていかれるかはその日次第だった。

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