小っせい奴が

小っせい奴が小っせいキャリートラックで恒例の年末札幌詣でに二日間いっていた。

機械でも物が壊れる時は加速していく人類が石を道具として使い始めてから土器を作るまで10万年掛かっているが1903年の師走にライト兄弟がせわしく空を飛んでからわずか66年後
間寛平が生まれてから丁度20年後にアヘアヘ、ア〜メマ~と月に人が行っている。
こないだはどっかの成金が宇宙に行ったらしいが外国にも行った事がない上に船酔いする俺には
100億も掛けて、なんか他にする事はなかったのかと可哀想にみえてしまった。

人類が月に行ったからと言ってウサギから餡ころ餅でも土産に貰って来たのか
俺を始めどうでもいい雑学は増えたが庶民に何かいい事でもその後あったのか
歴史年表を見る度に俺にはなんか誰かにダマされて
現代は自分の幸せではなく満足が誰かの不幸の上に成り立っている様な気がしてならないのだ。
そう思う時に食って行くだけの俺は
なんかこの「 小っせい 」と言うフレーズがいたく気に入ってしまったのだ。


網走北方民族博物館
この時代は皆が芸術家で上手い事、焼けたとか網目が上手く出たとかで
そんな事で幸せを感じメシがいつもより美味く食えた時代だったと思う。
土と水があるだけでもう充分の小っせい幸せでいいではないのかと


望来から崖下村方向を見る。
海沿いを北上しトンネルを幾つも越えて崖下村に戻るがこの時期にこの坂を下り思うのは
現在は満足はしてるが幸せとはほど遠い俺には
冬の西日はターニングポイントは幾つもあった事を思い出させる。

ヂャイアントコニーと花嫁行列

朝に矢作アパート前に着いたコニーからホッカイドーと出身地で呼ばれ
車に乗り込む
お坊さんが使う経本のようなパタパタと開く六曜開運暦 を出し
知った被りのアニーは鼻の穴をひろげて今日は嫁入りに最高の母倉日ナンチャラ言う日だからと他にも車に乗れるだけ乗せて出発する。

名古屋には当時から喫茶店はそこら中にあり
零細の枝葉末端の町工場は事務机を置く場所があるなら旋盤や出来上がった製品の一台も置いた方がいいと言い帳面や接客などは喫茶店でやっていた。
当時から朝はパン一切れか卵が付いていて
回数券があり10枚買うと1枚余分に付いて来たがとても自分では買える物ではなかったが可愛がって貰い連れていかれた。
そこには町工場の大将など様々な人が集まり何処そこの娘は嫁入りするなどや中京競馬や競輪のノミ屋などや日雇いの情報交換の場となっていた。


港区浜
嫁入りは二階から菓子の袋をばら撒いたり嫁入り家具の見本市状態になり娘が三人居たら身上を潰すと当時から言われていた。

事前に喫茶店で得た情報を元に路地に名古屋名物の嫁入り行列が居る時間帯を見計らって360が一台やっと通れる細い路地をコニーで無理くり侵入すると
もうすれ違う事は出来ない どちらかがバックするしかないが
嫁入り行列は決してバック後戻りは出来ないのである。
かくして嫁入り行列の世話人はバタバタのアニーにご祝儀を渡しバックして貰うのだ。
その時に一台に大勢乗ってるとご祝儀も多くなると言う三段で青ッ鼻たらしていようが人数さえ多ければいいのだ。
ご祝儀を目当てに次から次と路地に入って来る車があると戻すのは
先頭の車がご祝儀を束で受け取り後の連中を表の道路まで戻すのだが
中に貫録負けをするとアニーでは無理があり時には大貫禄のロクデナシの狂ったオジサンに仕切られてトンビに油揚げ状態なったりとチョットした華を付ける賑わいが起きて来る。

鼻タレ坊主はせいぜい何十円程度のお小遣いが渡されるだけだったが
それでも廉売マーケットの製麺屋で作る
ただ汁を掛けただけの支那ソバが食えた。
北海道のラーメンが食いたい、帰りたい、と思っても帰っても食い扶持が増える事は守る事が出来なかった妹はすでに亡くなっていたが弟達のメシが減る事は目に見えていた。

ヂャイアントコニー

ヂャイアントコニーを書いてみようと思ったが
記憶を辿ってゆくうちにどれも北海道の田舎から出て行った者には何もかも強烈な出来事ばかりで端折る事は難しく別枠でと思ったりしてる。
北海道原野二線の川の傍から昭和38年に流れ行き付いた先が元塩町のアパート
二階の中加減あたりに茶色の線が付いていて伊勢湾台風でそこまで水に浸かったと言う二畳半の矢作アパートだった。
すぐ横の地面より高い処にコンクリート堤防で守られたでなんでも浮いている大江川があり大江川は名古屋港に繋がっていて海抜0メートル地帯の為に水が流れる事もなく満潮干潮でゴミは行ったり来たりするだけのドブ川だった。
そんな場所だから部屋代も格安だったが幾らだったのか思い出せない
すぐ横に荒れに荒れた南光中学がありその一角に

伊勢湾台風の渦が巻いて水が引いた跡に大量の靴が溜まった事で靴塚と名付けられたが当然靴だけではなかったはずだろうが靴塚慰霊碑があった。
住んで居た当時の周辺は急ごしらえの文化住宅が多かった。
そこから北に数百メートル行くと北頭電停がありそれに乗って行くと鶴舞公園に出てそのすぐ傍が有名な吹上
それから市内を転々として転居を繰返したが
いまのここ崖下村での生活にはとても満足している。
それは見えるとこ見えないとこで大勢の人からの到底返す事など出来ない恩を受けたりお世話になったり不義理をしたりと思い出すだけでどれも端折ってはいけない これからも刻んでいかないと思う。
そんな訳でヂャイアントコニーと狂ったオジサン達の事を中々書く事は出来ない

ヂャイアントコニーは水平対向エンジンで確か運転席の下にエンジンがあったと思うのだが画像を検索し見るとボンネットがある記憶違いなのだろうか


愛知県長久手トヨタ自動車博物館に行った時に撮った一枚なのだが
これだと思ったが違うかもスズキスズライトの様な気もする。

コニーはエンジンはトヨタパブリカUP10のエンジンとそっくりで水平対向エンジン特有の吹かすとエンジンが本当にバタバタと言うエンジンだった。
サイドガラス窓は普通のガラスで勢いよく閉めると割れどんなに急いでもゆっくり閉めないとガラスが凶器となって自分に飛んで来るのだった。
それに手配師のアニーが乗って来て人を集めに来る。
いく場所は少々危ない処からキツイ処と何処に連れていかれるかはその日次第だった。

あ~あ~俺も文句ばかり

10万円は子供がいないので俺には一切関係ないが なぜにこんなにゴタゴタするかと言うと
物事が決まって行く時は様々な案があちこちから出されて
それを案から実際に実行する事は出来るのかと消去法で一つづつ消して残った物を首相に進言するのだと思うが
優秀なはずの官僚機構は安倍晋三がボロボロにしてしまい。
その思い付きのたんなる案を実行に移す事が出来る優秀な人材がいないのだと思う。
なぜそうなったかは長い安倍政権がイエスマンを官僚に据えた結果が有能な人材を死に追いやったり佐川ナンチャラみたいに言われた事は法に触れようがなんでもやってしまう人間が頭に立てばそりゃ~何も出来ない組織になるのは目に見えてる。

官僚機構から安倍政権の残党を追い出すまでは岸田政権のゴタゴタが続いて行くのだろう。
ただ単に叩くだけでなくここはしばらく様子見る事も大事だとおもうのだが
選挙では俺は立憲民主党に清き一票かどうか知らんが一票を入れた。
立憲民主党が落ち目になるのは蓮舫議員の様に出てシマッタ事案を青筋立ててガナリ続ける様が受け入れられないのだと思う。
かなり昔になるが宣伝と広告を深く~深く~考察し実際に三誌に原稿を書き続けた事があった。
案で上がって来た物をチェックし修正するのは誰でも出来るが
まったくの白い紙に最初の一筆を入れる事は中々出来ない
その広告の最初の一筆に様々な事が有るとは思うが一番にはすでに買った頂いた方に思いを馳せる事が大事で
その人を元気だろうか無事に使って呉れてるだろうかと思い馳せる。
あ~ここで買って良かったと、ここで買ったのだと言える買って貰った人に恥を搔かせない広告が大事で
読んで呉れた人が買わなくても一つでもいい思いをする徳をする何か知恵が付く
それが広告の大事な役割なのだ。
難しく道半ばで今は終活をしてるが広告をしない事も大事で、いまの目の前を大事にする事も大事と思っている。

大恩人の森本正義さんがいつも言った事は宣伝より顔を覚えて貰いなさいと言った。
それは自分の姿を見せる見せるに耐えられる自分になりなさいと言う事なのだと最近になってやっと思う。
出来てないが!

話はブットンだが政治家は白い紙に自分の最初の一筆を入れそれを広げ青い空なのか曇った空なのか明日への希望を夢を見させるのが稼業だと思う。
晴れた日と曇った日では同じ24時間でも明らかに気分も違い作業もはかどるではないか
人の案に青筋立ててアッタラコッタラとチェックするだけなら誰でも出来る。
立憲民主党も早く気付いて欲しいと思う。
出来ないならいっその事自民党を自由党と民主党に再度分裂させてはと思う。

次記事はもう時効だと思うのでお口直しにジャイアント、コニーと狂ったオジサンに付いて

12月8日に思う三つ子の魂百まで

下屋が出来た~これで朝マキを取りに雪をこいで取りに行かんでもよくなった。

俺は修理工が長いが昭和30~40年代はボデイ部品の2ミリや5ミリの違いなど許容範囲だったがやがて触ると返品が出来なくなるのでそのまま返品をする様になって
工場からスケールが消えて旋盤が消えてゆきやがて部品交換工になっていった。
この部品交換工が工場内に5人いたら一人が故障原因を10分考えたら50分のロスになると言われ始め
考えるのは工場内のフロント一人が考えればいいとなり、言われた事だけをせ~となった。
同時に住込みで24時間使われて日給月給一日200円の丁稚奉公制度がなくなり賃金が上がり始めて来たが
そこには自分で考える 物を測る事が出来ない部品交換工が出来て自分で物事を考え決断する事が出来ない者が増えていった。
俺はその丁度両方を経験したどっち付かずの最後の丁稚になる。

全国でも有数の戦闘機生産県だった愛知県は三菱は大江にあり愛知航空機は徳永にあってその後ジャイアント、コニーを生産した。
コニーのバンには狂ったオジサン達とアルバイトをした思い出があり今では笑い話だがいつか書いてみたい。
昭和40年代は戦地から戻って来た元戦闘機整備兵が30代後半から40代になる時期で修理工や機械工になった者も多かった。
その当時の西郊通は町工場がそこら中にあり戦地から戻った狂ったオジサン達が沢山居た。
修理工場だったので自然と元航空機関兵が集まったりしたが
工場で部品を目で確かめて確認してると
「 おまえ手で触っただけでわからんのか 」
「 灯りを点けたら空襲されるぞ 」と酔っ払いの狂ったオジサンに怒られた。
手の間隔で物を作った時代で
仕事帰りに寄って酒を呑んで帰る者も結構居たので帳場にはいつも一升瓶が用意してあった。

本文には関係ありません いいオジサンの方です。

当時の40代など今とは違いチョットした言動でも気いらなければ口より先に手や物が飛んで来てそれは恐ろしく近くに寄る事など出来なかった。
特に若い者が軍歌を歌ったり戦闘機の事など聞くと
「 おまえに何が分かるのだと 」と拳が飛んで来る暴力が横行して暴力は連鎖し習慣性を持ちより過激になるそんな時代で大きく影響され俺の気性も荒くなった。

三つ子の魂百までなのだ
狂った戦地を刷り込まれた帰還兵の戦後処理をきちっとしてあげなかった事が狂った修理工や狂った製函工や機械工を作ったのだろうと思う。


ハ45 誉

昭和40年代はまだ飲酒運転には罰則が無く罰則が付いたのは1970年代だったと思う。
当時は庶民が持てる車はまだバタバタと言われた中古車で青信号でスタートして次の信号まで3速に入るかどうかと言う走らない車が多くさらに頑丈な鉄板のバンバーが付いて事故でもそんなにひどい事故は無かったが自家用車を持てる人は少なく
市電や歩いてる人が多く夕方はそこら中の町工場は狂ったオジサン達が集まり居酒屋と化してその中から様々な物が出来上がって来たのだが
いまや俺も部品交換工となって寸法を測るなど出来ない様になっている、その中で数えて寸法を測り丸バタを組んで下屋をやっと作った。

いつか様々な不始末や中途半端でお世話になった愛知にお詫び行脚をしにいかんとないと思いながらも気が重く行く事は出来ないでいるが
もう修理工としても終わりたい
これからは直っていたら魚か菜っ葉でも持って来いやと言う日々を送りたいと思っている。

小っせい奴が大河ドラマ見る

久しぶりに青天を衝けを見たが
石狩にも小樽にも渋沢倉庫と看板を見るが、どう~だ庶民など1ミリも付け入る隙間もない様な系図が明治から延々と続く
渋沢栄一の息子、篤二の例を見る迄もなく
出来た親に出来た子と言うのは現代においてもすべてがそうなるとは限らんが
この出来の悪い息子と言うのは現代の行き詰まった資本主義においては大変重要な役割があり放蕩のあげく家系図の崩壊と富の再分配に繋げる為に
立派な名門ほど大いに放蕩を繰返して系図を崩壊させて欲しいと!
戦国時代なら足軽か雑兵程度で落ち武者狩りを逃げ延びて盗賊になったろうひねくれた小っせい次男坊は思うのである。

人間の性格をレーダーチャートにすると独創性と協調性は対角にあると思うが綺麗なデルタ型の性格は中々いない訳で
凡人はその足りない部分は他の人に補って貰うしかない
その他の人とは一番最初は親だと思う そう思う時に小さな頃の親との関わりが大きく影響し
渋沢栄一の性格を作ったのは渋沢家に養子で来た父市郎右衛門と藍葉を買う為に末端現場を見ながら一緒に並んで歩いた道中の雑談の影響が大きかったのだと思う。
雑談は面と向かってしない処がいいところで二人で歩く時は親のどちらに並ぶかは大きく影響すると思うのだが
海外は知らんが日本では並ぶ時は右習え右で右の耳で聞く事は頭に入るらしい
親子関係はどれだけ一緒に歩いたかが大きく影響するのかも知れんと青天を衝けを見て思った。

それにしても血洗島とは恐ろしい地名だと
なんも関係ないが島続きで6年ほど前に日本一危険と言われる瀬棚の太田神社を新年参拝して沖に奥尻島を眺める。

海の無い埼玉県で島と言うのだから中洲か何かなのだろうと思ってグーグル先生の地図を見ると利根川と小山川に挟まれた平坦な地形である事がわかる。
この川に挟まれた処と言うのは農業の適地で渋沢家は結構稼いでいたらしい
親と一緒に稼ぐ手伝いをする雑談をした世代が明治維新を作ったのかも知れんなどと大河ドラマを見て思った。
逆を言えば親の手伝いをよくする子はいい子に育つと

屋根

隣にあった家が解体され100メーターほど離れた家の居間が見える様になった。
コチラから見えると言う事はアチラからも見えるのである。
少し留守にすると婆様がシャッチョ~しばらく居なかったね~と頻繁に言われる様になった。
最初はまだ見守りの範囲かと思っていたが最近は婆様が冥土の土産に俺の操を~などと思ったり
少し近すぎると思い始めてる。
住宅は横並びが適当な距離感がいいので
いまは老人ホームには絶対に入らんと思っている。

鉄筋コンクリート造の学校がアチコチに放置されてるが
なぜに集合住宅や老人ホームに活用しないのか不思議

一気に降った雪はまだ周辺に残っているが、たった40キロ南下すると

無い 北海道は40キロ程度なら買い物に行くかと言う生活圏なのだが南下はよく行くがなぜか北には中々行かない
内地では40キロ違えば違う土地で文化も違う。
北海道はアイヌの人以外は元々は和人の移住者でアチコチの文化を持込んでいるのでごちゃ混ぜになっている。
それでも集団移住した田舎は何処となく雰囲気と言うか空気を感じる場所がある。

知内方面は四方屋根が多くあり、北の江差松前などは切妻屋根が多くなる。
雪が屋根の型を変えて来たと思うのだが
四方屋根などは玄関先に雪が落ちて出入りが大変だと思うが
それでも四方屋根や鬼瓦に拘るのは望郷の念がそうさせているのだと思う。
その土地ならでの屋根があったがそれももうすぐ消えて行くだろう。

屋根は重要で一つ屋根の下と言う。
横並びで平屋の集合住宅は外に出ないで隣に行き来出来るのはこれから高齢者が多くなる田舎では必要ではないのかと思うのだが
なぜか海岸線の平屋集合住宅はいきなり通りに出る作りが多いがすぐ傍で内陸になる北竜や雨竜の集合住宅は外に出ないでも隣に行ける共同の屋根を持っている住宅が多く見られるが
海岸線は風も強いのになぜ屋根が掛かった共同通路は無いのだろう。不思議


最近たまに見る ソーラー発電の倒壊
ここは20キロ四方人家も何もない熊か鹿しかいない山奥

積雪の無い内地と雪が降る北海道とはパネルの勾配が違う。
勾配を付けづに平らに置いた方が発電量も違うが北海道は積雪がある為にカネ勾配まで付ける必要がありそれで向ける方角も狭くなるし支柱は強度が必要になる。
積雪のない所とは経費も掛かる上に発電量は少ない北海道は
個人が投資目的にやるのはまだ早いのかも知れない

デカい大地の小っせい奴

毎日雪との闘いで気分直しに当別迄配達に行って来た。
北海道は広いがカーナビに当別町青山〇〇〇番と入れるだけで玄関先まで着いてしまった。
9文字これだけで着くなどデカい大地なのに凄いなと思う。

青山は暑寒山系の裏になるが石狩まで大きく回り道して片道100キロ

生振から東に入り劉連仁記念碑
劉連仁氏は強制連行で沼田明治炭鉱に行くが逃げて終戦を知らずに当別に13年も隠れて住んだという。
昭和33年と言えば北海道はまだまだ貧乏暮らしだった思うが、ここに居たとしたらさほど高い山でもないのになぜに見つからずに13年も暮らせたのか
今年俺はスズメバチ駆除に青草を燃やしたらミニパトが来て・・・・・・
冬は煙も上げずにどうやって暖を取ったのか
冬の食料は?もともと中国ではそんな暮らしてたのか
これだけ根性と体力があれば13年間なら歩いて帰れる場所なら歩いて戻ったろうと思う。

俺が昭和38年に津軽海峡を青函連絡船で渡った時はもう歩いて戻る事は出来ないと覚悟をしたのを覚えている。
それから穴グラではないが愛知県や関西周辺をアッチコッチ転々とした。
日本列島は異国から来たら歩いて戻る事は出来ない
そう思う時に異国から来た人を在日だのなんだのかんだのと差別するのは情として人間として偏狭でセコいケツ穴の小さい、頭でしか考えられない小っせい奴なのだと思う。

劉連仁記念碑を左に見て弁華別からさらに左の山奥に入り配達完了
帰りは町場に出たので念願の天ざる1650円を食った。
美味かったが150円予算オーバ~ 俺も小っせい奴なのだ。

小っせい通りの小っせい者

雪が降ってから野外に放置していた物を屋内に入れる為に毎日雪を掘っている。
プラスチックケースやブルーシートやスノーモービルなど特にブルーシートは除雪機で巻き込むと故障の原因にもなるし取除くのが大変なのだ。
だけど記憶はほんといい加減で確かここにと思って掘っても中々見つからない
およそ400坪あるボート置場や小屋周辺を掘って掘ってまた掘って出て来た物は夏に除雪機を預かっていた倉庫が冬には空くので倉庫までひぱって行くのだ。
もうクタクタで歳に勝てないが不思議な事に昔の事は鮮明に覚えているのだがついこないだ置いた場所を忘れている。
何かを頼まれた人には携帯に着信を入れて貰う様にして机に座ったらメモをするのだがメモすら忘れる事がある。
メモは頭と手が記憶するのだと思うのだが


昔は古い家を数軒買い駐車場にしたりしたがその一軒から大量の本が出て来て
日本の貿易がドッタラコッタラと教科書などを書き写したのか自筆で書いた物が沢山出て来た。
捨てるに捨てられず取っておいてあるが高校一年某ナンチャラと書いてある。
俺は小学校は言葉がうまく喋れづロクに行っていないし中学も以下同文であまり行っていない俺がいま思うのは小学生の書き順を習う時だけは真面目に行っておけばよかったと思っている。
現在生存している兄弟の中で俺だけが字が汚く読めないのだ。
ところがこの某ナンチャラ言う女子の字は小さい字だが読めるのだ、それだけでも凄いのにこの量を書く

う~んこれだけ勉強をし努力したのだから勉強をした者としない者が将来に差が付くのは当然なのだと納得するのだ。
もはやこれは写経で修行僧に近いのではないかと

こちらは世界の地理がドッタラコッタラとこれも手書きで書いてある。
思うに現在はコピーで写し込むものを自分の判断で加除しながら手書きしているので現在の勉強とは全然違うのではないかと思う。
面白いのはノートでなく藁半紙に書いてあるのだがなぜにノートでないのか色々想像すると面白いのだ。
書き主に一度も逢った事もないが現在はどうしてるのだろうか
どこかの官僚でもやって悠々自適だと思うが
それともこれが普通の高校一年の勉強の仕方なのだろうか
年齢的に近いと思うのだが小っせい通りの小っせい大した努力もしなかった俺の現在を思う時にこの書き物を見ると自業自得と納得してしまうのだ。

さ~今日も雪堀人足をせんといかんが俺には肉体労働はピッタリだと思う。
この歳になって思うのは自分のレベルを下げる事は簡単で癒されるがレベルを上げる事は難しい
いまニューヨークで苦労をしてるのは貴顕社会しか知らない
お姫様に合わせ所作も変えなければならない圭さんの方ではないのかと思ってしまった。
幼児期からの努力や勉強で身に付いたものは自然に出て来る そこに小っせい通りの小っせい者が合わせる事は中々難しく
俺は嫁さんに合わす事は出来なかった。

北緯40度 ニューヨークは冬に入ったが嫁さんを寒さから守るのは亭主の役目なのだ。
頑張ってほしい

貧乏人の肌感覚

11月24日 一晩で15センチほど積もってシマッタ。
除雪機やスノーモービルを盛んに売っていた時は安く仕入れる為に9月にまとめて仕入れ予約をする為にその年の天候予測は欠かせないと思い某国立大学の天候講義を聞きに行ったり測候所には毎年通ったが
結局は・・・・・・・
カラスの巣が低い処に作る年は風が強いとかヤギが啼くと雨が降るとか言うのは本当らしいが
中には小学校が騒がしいと雨が降ると言うのもあるが
雪国では小学校が騒がしいと雪が降るのかな?
小学校が騒がしいと雨が降るのは日本の奥地を回って歩くのが楽しみなのだが その俺が思うには
これにはれっきとした根拠がありそうなのだが後日に

35年ほど前の気象では細かい数字は忘れたが留萌は年におよそ70日程度しか雪は降らず。
それ以上何日も増えたり減ったりは異常気象と言うと覚えていたが
現在ではまったく当てにはならないが
それでもつい最近まで留萌地方にまとまった雪が降るのは
旭川が積もってから一週間後あたりに一度その雪が溶ける頃に留萌や増毛に初雪が降る。
それで今年もノンビリ構えていたのがこの降りよう。

土曜日まで雪予報なのでもう溶ける事は無いだろうと思う。
もしこの雪が溶ける事があったなら俺の予測では今年の降雪量は少ないはずなのだが
散々調べたりしたが耐久消費財に関しては長期予測は気象学者ではないので正確に知る必要もなく
大たいこんな感じだべ~と言う世間一般の肌感覚が大事で
その肌感覚が売上に大きく影響してゆく
あまりにも知り過ぎる事は裏を搔く者が現れ、またその裏を搔く者が現れ結局は裏の裏は表になって行ったり裏の裏の裏をなどと思惑だけで物の価格が変動して結局はどうもならん銭で銭を儲けようと言う連中が儲けてしまう。
それが現在の石油価格でポリタンクで灯油を買うと2000円になるが年寄りでは年金の半分が灯油代に消えてしまう人もいるが
それでも雨露が凌げる。
冬山に入っては汗が命の危険さえ招く為に汗を搔かないようにゆっくり動く事が大事で
ここは北緯43度だがベラルーシ国境は北緯53度にありその緯度では寒すぎて雪すら降らんそこで難民に放水する事はほぼクタバレと言うのと同じ事なのだ。
俺の部屋は匠の棟梁に作って貰ったおかげで灯油は日に2リッターあればよく
それでも朝は出来る限り布団から出ない夜はサッサと寝ると貧乏暮らしを楽しみ
浮いた銭は国連ナンチャラや食えない子にオートマチックに引落とされる。
銭が足らないからこそ買わないで あれこれ考える自分の手を使い修理もする
動かないモノが動く、助からない者が助かる、
募金も裏を考えてしまうと際限がなく貧乏人の肌感覚で充分で
自分の貧乏に彩りを添えて呉れ事でもある。