邂逅

通常機械の場合は部品はそこにしか付かないし嵌らない
ギヤトレーンやリバーシブルなど同じ部品の場合でもマジックなどで番号や印を付けて元の位置に戻す。
以前の大型重機などの場合はホイルナットでさえも番号をふって元の位置にナットを付けたりして他の組み合わせなどないのだ。
それが完璧な正解作業となる。

俺は自分の人生に後悔はないと思ってるが それはそう思いたいと思う願望なのかとも思う。
ここ数日は自分が試されてるのではないかと思う偶然が続き やっぱりなる様になってシマッタ
機械と違い人間は無限大の組み合わせがあり何が正解なのか分からないし自分がクタバッテも気付かない事も沢山あると思う。
なにが正解が分からないと言う事はなにが誤りかも分からないと言う事で人それぞれの生き方と組み合わせがあり
他の人の行いにそれは誤りだとかドッタラコッタラ言う事は出来ないのだ。
俺には毎度貰い物だがその日食うコメもあり12畳と狭いが足を延ばして寝れる場所もある。
それだけで充分幸せなのだと
ここ数日は誰にも迷惑を掛けないのなら他の人が口を挟む事ではないのだと思い知らされた。

今はどこの空の下で寝てるのか
こんな偶然もあるのかと思う石狩川と雨竜川をまたぐ江竜橋に続く道路をとぼとぼと歩くオヤジに4年振りにまた再開した。
お礼にと玄関先の雑草をむしって片づけてまた歩いて去って行ったオヤジに蚊取り線香を持たせてやればよかったと後悔した。

愛我無罪

機械の事しか知らない、それもほんの一部しか知らないが機械でさえすべての現象は因果と原因がある。
漢字文化の隣の中国には愛国無罪と言う四文字熟語があるらしい
では自分の命を我を守る為の行いは無罪になるのだろうか その線引きは何処にあるのか
子は親を選んで生まれる事は出来ない その親が早くに亡くなってしまって親戚をたらい回しなった場合や
育児を放棄してしまったり 一人しかいない親にロクデナシの愛人が出来てしまった場合など
その時に子が自分の命や我を守る事をした場合は、その行為はどんな時も無罪になるのだろうか

児童相談所さえも大した当てにならない時代に自分の命を守ろうと口に入る物を求めて手に入れようとする行為は何処から何処までが許され、それはいつまで許されのか
表面的には豊かになった時代ではあるが そんな子供達はすぐ傍にゴロゴロと居るのだ。
その中で何が出来るのか
溺れている者に無防備に助けに行ってはいけない抱き着かれ共倒れになるのは
数々の水難事故で証明されている。
出来る事は訓練を積むか その辺りにある浮く物を投げてやるか
もしくは声を掛けてやるしかない
声は届こうが届かないが構わないのだ その声を掛けようとする気持ちがいつか実を結ぶ時が完成される時が来るかもしれない。
俺には虚構の世界としか思えない芸術に完成品などないのと同じだと思うが
ところが珠に本当に無垢の人を完成されたと思う人を二度ほど見た事がある。
一度は望来のお多福で見た少し知恵遅れと思われるカップルが美味しいね美味しいねと言いながら食べてる姿は荒れた心を我に返すほどの姿だった。

良くも悪くも誰にもなんの影響も与えない そんな者になりたいと思う様になったが俺にはどんな事をしても絶対に、完全に、、無理だが
せめてクタバる時には「ありがとう」と言ってクタバリたいと思う
今週はそんな事を思ってシマッタ 
ナンマンダブ~ アラ~は偉大なり~ 右の頬叩かれたら左の頬を叩き・・・・・ア~メン

費用対効果

『 ね~ね~アンタ~あの酔っ払いに修理は出来るの~夏も人生も短いのョ~』
『 いつも呑んでるわけではね~べ~ 』
『 だって行くたんびに呑んだくれてるょ~ 』
と休日にしか来ない人の声が聞こえて来そうな日々に耐えながら費用対効果に悩みに悩んだ。

日曜日は全船帰港を見てから呑み始めるのでありますが
さらに今週日曜日は20数年前にこんな日が来る事など想像も出来なかったKが家族を見せに来た。
その場に居た漁師のタカさんがタラ鍋を作ってくれた。
呑まずにいられようかと祝宴を始める事に
逆境だろうがなんだろうが守るべき人を持った奴は強い
親方、親方と言う声に酒が少し塩っぱい味がした。


ひと月ほど悩んだV6修理も目鼻が付きほぼ完了した。
特別骨董的な価値がない機械物は闇雲に費用の掛かる物は新品に交換した方が良いに決まっている。
実際に使用される機械は費用対効果が求められて年数のたった機械は機械の残りの年数といつまで海に出れるか自分の残り年数と修理代との兼ね合いは大事な要素になる為に悩む事が多いし
年数がたったエンジンはボルトは外れないで切れてしまう確率が多いその為に中々作戦が立たないのだ。
大事なのは機械などではない家計の為に諦める事も大事なのだ。
OEMもあるこのエンジン系列は結構な数を売っていてサービスマニュアルはボロボロになるまで読んだ。
悩んだ時はやはり本の方がいい、違う項目でも一枚づつめくる事でひらめく事もある。

たとえ修理を諦める事になって船を手放しても付き合いが変わる訳ではないと言った。
その船主の嫁さんが来る度に持って来て呉れるニギリメシは何よりも美味いのだ。

砂川に

いったいどうなってるのかやたら忙しい 
遊びでなく仕事で網走からやっと戻って今度はNV175のエンジンオーバーホールをせんといかんかも
その前に忙し過ぎた頭を冷やすのに上砂川岳温泉のパンケの湯に行って来た。


初めてみる地下無重力実験センター 海で仕事をするがひどい船酔いをするのにさらに無重力などには耐えられないので無視して通過

砂川は何かと縁がありパンケの湯の後は中央市場に行ってラーメン食ってカネイ池内で海鮮丼を食おうと思う。
砂川はラーメンに至ってはそれぞれの店の独自の味付けがあるし何処も美味い価格は600円前後が相場
お菓子も美味い 北菓楼のおかきは美味いが俺的には、おかきは駄菓子屋風の処で買いたい
自営業はお客さんより店も立ち姿も車も 心根以外は立派になってはイカンと思うのだが
母親はよく言った「 商売はバカにされるぐらいが丁度いい 」と


砂川中央市場 俺が砂川で物販自営業をするなら家賃が多少高いくらいならこの場所を選ぶ
理由はコマが適度な広さと駅が近い 店頭は少し小さい位が商品も見栄えがするし店舗も無駄な銭が掛からん 
駅が近いと必ず無料駐車場があるし
駅は何処の駅でもその駅から立って行った人は現在の街の人口の数倍はいる。 
駅前の景色は一個人の所有物ではない そこから大志を抱いて行った者 挫折を抱えて行った者 閉山によって去って行った者達を待ち続ける心の場所でなくてはいけない
その為にもやたらめったら駅前の景色を変える事は止めるべきだと思うのだ。
サ~サ~大都会でド~ンと稼いで戻って来て古巣で銭を思いっきり使ってチョ~ダイ~となる。
良い時は誰だって上手くいく 落ち込んだ時や何か道を踏み外そうと考えた時に、なんの損も徳も考えずに過ごした、ふる里を持つ事は大事な事なのだ。
その為にも駅前の景色を変える事になる建替え等は慎重にするべきと思うのだ。


海の傍に居るから美味い物を食ってるかと言うとそうでもないマグロやサケは地元では取れないし地元は意外と高いのだ。
流通がこれだけ発達した現在は何処でも店主の努力で何処でも美味い物は食える。
それだけに対面する人間臭さが大きな勝負どころになる。


海鮮丼 価格は確か900円くらいだったと思う。
2時半以降はお持ち帰りのみだったので駐車場で食った。


向かいの店で好物の釧路サバ味噌缶詰とニシンの切込みを買う。
そのあとは砂川オアシスパークか何処かで車中泊をして夜は初めて行く焼き鳥ロッジにでも呑みに行こうかと思ったのだが
電話で予定が入りやむなく戻る事に
呼び戻したのは貴方

田舎暮らしにようこそ


花巻宮沢賢治なにか館だったか忘れた。

ド田舎の自営業が考える有意義な人生とは
40代まではイケイケドンドンでアチコチに作った敵にはなるべく遭わない様にして謝って済むものはサッサと謝り
そこそこに楽しく恨みは買わない様に地域循環型社会に潜り込む様にする事ではないかと思っているのだが
田舎から大都会を見てるととてもでないが循環型社会にはなっていない
人も物資もブラックホールの様に飲み込んで消費しているのだ。
50代を過ぎたら戦線離脱をして体力勝負の田舎で暮らした方が有意義な人生を送れると思うのだ。
コロナは大都会での生活を見直す切っ掛けになってゆくだろう。

実体経済が困っているのに株価はたいして下がらんのは
金融経済が実体経済を先食いして食い物してる証拠なのだ。
食い潰される前にそこそこに働き休日には土を耕し竿を垂れる
田舎暮らしにようこそ

田舎暮らしのコツは流されるままにそこそこに
もっとも限界集落で楽をさせて貰える保証はないが

皆勤賞


先週土曜日には若者がラーメンを食いに来た。
隣の店は今もやってるのかと色々聞く 
以前ここ崖下村に別荘を持っていた人と知り合いだと言う。
その若者が言うには
すっかり忘れてたが今から13年前になるらしいが小学校を皆勤したのに学校からは皆勤賞を貰えないと言っていた子がいた。
いまは熱を出しても学校行くのがいい事だとは思えないとの事で皆勤賞は無いらしいが
小学校6年間を休まずに行くなんて俺は半分位しか行っていないので凄い事だと思った。

勉強嫌いでロクに学校に行ってないのでよくわからんが小学校6年間およそ1300日くらい出席するとしても雨の日も風の日も雪の日もある大変な日数になる
それを皆勤したと言う事は風邪も引かん下痢にもならんと言う事で家族も含めた健康管理が出来たと言う事なのだ。
一人だけでは出来ない、いかにいい親で家庭だったかがわかる。
そう思った俺はその子に手書きで皆勤賞の賞状を作ってあげた事があった。
実際に書かせたのは漢字検定2級の事務のお姉様だったが
渡したの俺だった。
土曜日に来た若者はそれは嬉しかったと言ってくれた。
若者が帰ったあとにその場に居た連中と昔話しを肴に酒盛りに

その時の写真を探したらあったが本人の承諾があったら載せたいと思うのだが・・・・


今年はまったく忙しい 
およそ考えらる部品と工具とパソコンを持って二か所を回って歩く事に
移動は二時間走っては20分寝るをしないと走れん
遊びで走る時はどんどん走るのだが仕事となるとやたら眠たく
働き税金を納めると言う事は結構疲れるのだ。


来週は290キロ東にゆかんとない北海道は広い


船外機ボートは6000回転が常用回転で車では考えられない回転域を常に使う為に車とは違った故障が起きる それも歩いては戻れない海の上で

にあんちゃん

自営業には残業手当はないし仕事の出先でメシ食っても、それは遊んでいても食うのでメシ代は基本経費では落ちない事が多いし、夜通し走って眠いからと言って自販機で缶コーヒーを買っても経費では落ちないが、それでもサラリーマンからしたら自営業は恵まれている。

昔し活動写真かと思うほどタライ回しになったブツブツ切れるフィルム映画をよく見た。
大和田まで線路を歩いて行くと炭鉱映画はタダで見れたし八幡屋デパートの映画館は宣伝チラシを配るとタダで見れた。
その中でも「 にあんちゃん 」は長門裕之が言ったと思った言葉はいつまでも心に残って今の自分を作っている。
子供に『 髪は必ず伸びる 食うには困らないから床屋になれ 』と言った。
将来を見越した言葉だと思う。
内田橋でガソリンスタンドのアルバイトした時もスタンドの大将は今は風呂屋に行かんでもスタンドには来ると言った。
よっぽど頭が良ければ需要を自分で作る事は出来るかも知れんが
必要とされない処には自営業は成り立たない

孫子にまで莫大な借金を残してまで自営業を助ける必要は無いのだ。
自営業はどんな事があっても生き残ってこそ、その経験は財産となって力となって強くなっていく
一方庶民が居て呉れてこその自営業で庶民を助ける事が出来る商売や道具を売る作るなど出来る商売は生き残っていくだろう。
銭持ってる奴から頂き従業員や無い所に回すのがジエイギョウ

田舎者の自営業者から見る大都会はもはや人がたった一度しかない人生を続けていく場所ではない
虚構に虚構の厚化粧を重ねているとしか思えないのだが


天北はやたらシカが多いぞ~気を付けないと軽では運転者はタダでは済まない
体脂肪ゼロのマイクタイソンの腕の様な足で跳ねた時点で防御のケリが入るらしい
『 怖いですね~怖いですね~ 』
帰りは少し時間があるので遠回りになるが東浦に回り浜頓別から俺の大好きな275を通り帰る事にした。

美深で信号待ちしてたら、
おお~昭和かと思える外観の大衆食堂発見で入って見る事に時間は12時半過ぎ
入ってびっくりやたら人が居る。 アマチュアラーメン屋の俺は食堂に入るとすぐ人数を数えてしまうのだ。
俺の勝手な計算では一般食堂は昼12時から1時までの間に入った瞬間に居た人数の4.5倍が一日の売上なのだ。
その時に居た人数は俺も含めて8人が店内に居たので✕4.5で36人が一日の来店数✕客単価が一日の売上になるがラーメンは520円と店の物はすべてが安い
ラーメンは貧乏人ご用達の贅沢外食なのだ。
最低賃金で一時間働いても食えないラーメンは家族4人でラーメン食ったらチャンの半日分の稼ぎが飛んでしまうなど
ラーメンでは絶対ない!バカこけと思うのであります。


店主お勧めラーメンを食す 620円 メンマやチャーシューが別の皿に入って来るが量が普通より多い
店内がやたら面白い電気代節約かカウンターに座ると自動で電気が点くが麺を口に入れようとすると電気がまたパッと点くま~いっかと思える店だった。


275を通ったらお参りする旧光顕寺が雪で潰れていた。
ナンマンダブ~

またまた稚内


またまた稚内に
ここからおよそ160キロ 片道3時間いつまでこの仕事をするのだと思いながら霧雨の中ゆく
小ぶりの雨の中で一時間半作業をして完了 故障修理は事前の下調べと部品調達と二度いかさるので修理工賃より出張料の方が遥かに高いはずなのだが自分売った物は泣く事が多い
帰りは稚内で寝て帰る事に


いつも行くスーパーは閉店していたのでユアーズで食料調達して宗谷岬で車中メシ ご飯は自宅の炊飯器から持ってきた。


海から日の出を見たのは正月に釧路で見て以来


二ヶ月分の生活費で買ったナンチャラ軍ご調達の距離、方位も多少暗くても見える双眼鏡タスコは サハリンの様子がすぐ傍に見える。
双眼鏡は揺れる小さな船で役に立つ事は中々難しく安い物は無駄金になる。


あれ~赤白灯台なのに白の閃光だぞ 
赤と白が交互に光る不動互光か閃互光なはずなのに
なんでだ~と不思議なので戻ってから東京の元航路標識事務所に聞いてみたが明確な答えはなかった。
これなら稚内は浅く暗岩が多いのでうろ覚えでなく北海道航路標識案内本を持って航海しないと危ない


サハリンがはっきり見える。
サハリン残留二世の方が稚内の灯りはサハリンからハッキリ見えると言っていた事を思い出した。
残留一世の方は日本人としての振る舞いを固く守り二世に伝えてゆき
まるで日本の缶詰の様な二世と親交があるが 
一世の人達が今の日本を見たらどう思うかと思うと複雑なものがある。

戦争は経済が密接に絡み起きていくが金のある者や権力のある者はそれを利用していち早く逃げ帰る事が出来たが 
犠牲になるのは全く何も関係ない弱者が一番に犠牲になっていくのは現在も変わらない
この構造は原発も同じで一番電力を使う地域ではなく戦後開拓農地に半数が作られて残りは低所得の地方に作られてゆく

逆にいまコロナは所得の高い地域に集中している。
若かりし頃は夜な夜な飲み歩いた俺が言うのもなんだが 
コロナは所得と享楽を取るのか健康を取るのかと問題を投げかけている。
ある時を境に呑み歩くのを止めたら別に呑みに出んでも良いわいとなった。
元々は男女間の虚構の世界なのだもう水商売は凋落の一歩を急激に進んでゆくだろう。
かつて連日都会の状況をこれほどニュースで見る事はなかっただろう 
命を掛けても繰り出すそれは田舎者から見ると不思議な世界で息子や娘に田舎での暮らしを選択させる切っ掛けになるかも

義経伝説

文字を持たないアイヌ人は口伝によって様々な事を伝えて来たが
口伝は伝説を書き換えるには都合がよかっただろうと思う。
義経は奥州衣川で生涯を終えてると言うのに文治5年西暦1189年渡道したと言う。
北海道平取には静御前の墓まであるらしいしが
民話と違い伝説は時の政権の嘘ニュースなのかもょ。
義経伝説を作ってアイヌの人達をたらし込んでの協力を得ながらアイヌからの搾取が無しでは
北海道開拓は出来なかっただろうそれは昭和初期と近代まで続くが
その為に義経がアイヌ伝説として利用されて来たのだと思う。
積丹ブルーの海に沈む夕日が黄金色に輝く時に悲恋の話などはぴったりなのだが
現実に見たモノと手で触ったモノと力しか信じない俺には身も蓋もない話ではあるが

二年前に行った弟子屈町屈斜路コタンアイヌ民俗資料館 
和人が持ち込んだシントコ 熊10頭と交換が相場だったらしい 
以前はヒグマは一頭100万したが現在は暴落してヒグマ20万としても数百万になる おいおい


美国漁港横で美国川が流れ込んでいる。
 ここにサンキャット7.7双胴船を海底深度測量の為に増毛から回航して来て途中でシケに合いえらい目にあったのが25年前になる。
双胴船は一定の波までは安定してるが大シケになるとハルとハルの間の波は横に逃げる事が無いので腹が叩く為に通常のモノハルよりは衝撃は大きい事を実感した。
当時はGPSは高価だった為にコンパスと山を見ながらの航海だった。
増毛から積丹半島に向かっての回航は大変だったが逆に積丹半島や小樽から増毛に向かって来るのは日方岬を目標にするので楽だったし時間も早かった。
あちこち回航を何度も経験した身として同じ海でも岬を交わすとベタ凪になる為に緊急避難や港の利用に制限を掛け違反した船長には過料5万円が課せられる北海道独自の北海道漁港管理条例には今でも強く反対をしている。
ここでも条例が出来る過程を見て来たが作る側は何の責任もとらんがそれによって海難死する者にとっては100パーセントの不幸となる。
世話になった人が海難に逢う度にもう嫌だ嫌だと思いながらもいまだに海に関わって生きてる。

もう食いたい物もやりたい事も大したない
今年こそ週休3日を実現させようと思ったがコロナがあるのに例年以上に忙しく時間にゆとりがないのだ。
出張修理で地方に出る事が多いが国道の電光掲示板に札幌にはゆくなと書いてある。
コロナは都会と田舎に壁を作ったのだ折角なので今まで都会に流出していたマネーは田舎で使ちゃいましょう。
地元の物を食って車はもう一年余分に使いましょう。

ロクデナシ義経 2

積丹半島神威岬を出帆してものの八海里もいかんで積丹半島入舸で難破してしまったアンポンタンな義経主従
そこで怪我をした義経を看病したのが入舸の酋長の娘シララ姫だがそれもまた二人の子供まで作ったのに、またまた袖にした為にシララ姫は積丹ブルーに呑まれてしまい女郎子岩となりました。


この高さ170センチほどのトンネルを歩いて抜けると。

島武意海岸 左にゆくとシララ姫の女郎子岩 


下に降りる遊歩道があるが靴に替えてこなかったので少し躊躇したが夕暮れまで戻れそうなので雪駄で降りて見る。


降りる途中で息のあがった二人の若者とすれ違う、俺の雪駄を見たのかここを降りるのは大変ですと言って呉れた。 下から上を見る。 


後でプリン体を食いながら聞くには昔のニシン番屋だったらしい銘板には大正六年、石工 中村栄一郎とあるあとは読めん


ハングルのポリタンク


不思議なボンベがあった。プロパンではない充填口がある処を見るとアセチレンなのか 
147kgf/cm2まで充填する工業用酸素瓶(注意医療用ではない)ならシームレス一体構造になってるはずなのに
なっていないしかと言って口金は酸素瓶のフランス式になっている。
酸素瓶の口金にはドイツ式とフランス式があり吹管も両方あるが日本では愛知県を境に東はドイツ式で関東方式と呼び西はフランス式で関西方式と呼ばれていてこれは電気のサイクルが違うのと同じで
県をまたぐ工事現場に行く時は確認をしないと現場がストップしたりと少々困る事になってしまう。

愛知県を中心に西は和歌山県、東は静岡県と各地の工事現場を夜具を布団袋に詰め込んでガス器具や工具を持たされて飯場を渡り歩いたがこのボンベは知る限りでは何とも判断が付かない
きっとかの国の船が難破して流れ着いたのだろう使っていた者達は海の藻屑と消えていったのだろう。
昭和40年代の荒くれ飯場に送り込まれた修理工は次の交代要員が来るまでに現場の労務者と渡りあって行かなければならなかった。
当時はトンネル工事も切り通しも火薬を使いドッカン~と爆破が主流で労務者の賃金は支保工を何本立てたかで決まっていた為に手が遅い者には容赦ない言葉が投げつけられ
その荒くれ労務者を相手にする修理工の給料は破格だったが機械以下の扱いだった。
飯場から遥か眼下に見える街の明かりに早く帰りたい交代要員は来ないのかと思い続けた日々だった。
日本国内ですらそうだったのだ、
有志で銭を集い海外の傭兵を使い一旦海外に出国させるなど手段は無かったのかと横田さんのニュースを見た。


トンネル出口にあった店でプリン体三銃士を食う。