海は広いな~大きいな~

海には白線も標識もないあるのは広い海原だけで自分の思った通り走り自由に何処にでもいける


道路に穴があったとか標識が欠落していたとかと道路管理者を訴える人もいるが
海は突然の三角波が来ても濃霧が出ようが暗岩があろうが誰も訴える事は出来ない
自由とは自分に対する責任が伴う、
その多くは自分の命を持って償うのが海なのだ
多くの罠がひそんでいる海で危険を回避する方法は沢山あるが
その中でも仲間を作る事も大事なのだ一人で海に出る事は落水があった場合は
ほぼ船に戻る事は出来ない
船頭が多すぎても困るが何かあった時は正確な判断が出来ない事が多く
嬉しいのもわかる 気がせくのもわかるが
初めて船を買ってひとりで海に出る事は絶対にやってはいけない

海も山も救助は蟻地獄に落ちた者を助けに行くに等しく
自分が困った状況のおちいった場所に、状況に、同じ目に、あってくれと言ってるのだ
助けるには経験と充分な準備と多くの陰の人員が必要なのだ。

この時代に命からがら戻っても誰もジョン万次郎にも大黒屋光太夫にもなれん
ただ皆を危険な状況に引き摺り込んだ者として記憶される。

覆水盆に返らず

北海道なのに名古屋のような暑さ
いま終活中で鍋と軽トラ以外はすべて処分しようと倉庫を片付けていて二階にあった思い出のバイクも処分する事に
逃げられた嫁さんとの物もあって一品一品づつ見入ってしまい
片付けが全然前に進まない


小さいのから大きいのまで様々なバイクに乗ったが
モトクロスレースで道内各地を転戦していた時に最後に乗った
CRこの頃は力がすべてでイケイケでなんでも自分の思い通りになると思っていた。


先週はここに持っていた家は誰かに貰って欲しかったが誰も現れずに解体に
倉庫や車庫など見たら進まないので解体業者に頼んですべて壊して貰った。
掛かった費用は百数十万
後継者がいないと言う事は築き上げた物をすべてを壊し
さらに一円にもならない事に高い銭を払わないといけない
今更だがこれも自分で選んだ人生なのだと


春夏秋冬で送ってくれる同人集を読む
ささやかな生活のなかで堅実に日々を暮らす人達の言葉が綴られている
俺にもこんな心掛けがあったならと思って読んでいる。
バイクで走ってから考える野生児のような生活だったが
終活をやっていて捨てる物を見る度にあの時に知性があって踏み止まっていたならと

閉館

日本中の路線は東京に行く道は上りと言い遠ざかる道は下りと言う
アホくさい
理由は幸せの単位を金額に置き換えてる処が間違ってるのだ
もう東京をモデルにする時代は終わってるのにと思うのだが


ここの集落に移住して30年
当時は先住民は40数人いて子供会もあったが今は住民はたった6人しかいない、

 
この集落に移住してほんと良かったと思う

増毛町は春にはエビや地酒の味祭り、秋にはシャケ祭りがあり
まいど数万人の集客があり周辺市町村に羨まれるほどなのだが
祭りは商業祭りと村祭りは別の物で集落が楽しむ村祭りがあり、
それをよそ者がのぞき見せて貰うと言うものが本来の祭りではと思うのだ
そこ住む者が楽しく過ごす一日があって
他所に行った子や孫が祭りに戻りたいと言えるのが祭りではないのかと
ここには海もあり山もあり食い物の山なのに人が減っていく

この集落の会館も取り壊す事が決まり来週で閉館となり取り壊すが
閉館前にやる事があったろうにと頭によぎる。

足が

3月頃からふくらはぎが痺れそのうち治るだろうと思っていたがだんだん酷くなり
真っすぐ歩けなくなったので痺れをネットで調べたら
腰からとかストレスとか心臓とかで、しまいには歩けなくなりストレスで鬱になり最後は心筋梗塞になるらしい
ネットは見る者にインパクトのある言葉で自分の記事が受ける事を狙ってるフシがあり
それを読み進めると生きてるのもおかしい位で自分で自分の病気を作ってしまうとアホ臭くなり止め
旭川の整形病院に行って来たが
毎度大盛況で朝7時から受付で遅いと丸一日掛かるので前日から車中泊で行って夜は居酒屋せいちゃんで隣の外国人と国際交流をしながら楽しく呑んで
「治すのは俺ではないアンタだと」言った先生に見て貰った結果は腰から来てるとの事だった。
背骨のナンチャラ言う骨が年で減ってるらしい治す方法はお任せで投薬で処置する事に
専門家やプロと言われる人達は常人が一生出会う事のない状態に何度も経験してるし
自分で求めて出会っているのが素人との違いなのだ
下手にネットやAIなど信じたら酷い目に合うような気がしてならない
人を疑心暗鬼にして不安を煽るのは銭になるが
心配も備えもほどほどにしないといけないと思う。

昼メシは蜂屋ラーメンを食う ここのラーメンはどうやって作るのか不思議で食うのは3度目だが
評価も極端に分かれるが中間をとらない自分流を貫く姿勢が好きなので食ってから100円で団扇を買った。
俺の土日ラーメン屋にはそんな根性はないが地元の人が食って美味いと言うラーメンと思っている。

ラーメンは

醤油ラーメンは鶏ガラと豚骨からホタテラーメンは昆布とシイタケなどから木曜日から仕込みが始まり追加は出来ないので予定数量が売れたら店は終了になる。
土日ラーメン屋は7日土曜は土砂降りの雨だったがそこそこお客さんが入った。
8日日曜日は数人のかたまりでお客さんが入って
いつもと違う入り方でなんだべと思ったら小学校の運動会で地元の人が家族連れで何組か入ってくれた。
ここは地方のお客さんが多いが俺にはどんなお店も地元の人が8割入る店が理想だと思っていて
それは観光客が入る店もそうで地元にソッポを向かれる店はやがて衰退するだろうと思う
いっ時の繁栄に浮かれてやがて巨大な負の遺産を残していった温泉地は多くあるが
地元向けの温泉は続いている。


孫の運動会に来たと思われる まだ若いおばちゃんが小銭入れから小さく折り畳んだ渋沢栄一を取出し醬油ラーメンとホタテラーメンと6人分の会計をしたが
普段から財布を必要としない経済状況であると思われる
その中から払った銭には孫たちと逢えた嬉しさがこもっている
俺は手が不器用でラーメンは2杯づつしか作れないので時間が掛かるがゆっくりと海を見ながら孫達との会話の手助けを出来たのではないかと
ラーメンの価格を考える時に最低賃金を超えるラーメンはラーメンでないと思っている
それでなければ4人家族なら父ちゃんが半日働いて家族がラーメン一杯づつしか食えない事になる。
銭が余るほど持ってるならわざわざラーメンを食わないでも寿司でも焼肉でも食えばいいのだ
ラーメンとはそう言う食べ物なのだ
このシワになった札を見て改めて心に刻んだ。


思いつく事が多いのか、やりたい事が多いのか、欲たかりなのか
整理整頓が出来ないので掃除整理整頓は月曜日にアルバイトさんに丸投げしているが
ラーメンを作る時に設備に銭を掛ける事はそれだけ価格に影響を与える事になるので食材と厨房設備以外はこの壊れそうな家でこれからも続けていこうと思う。

米騒動

米が足りないのは中国が買い占めてると聞いた。
言った相手にその証拠はと聞く証拠は当然だが示されなかった
時局がら話としては面白いが何かあると国単位であの国はと言う話はよく聞く
では直接自分の目で耳で確かめたのかと聞く
それは自分の思い通りにいかなかった人生をひとのせいにする事で自分には落ち度はないと言いたいのではと思う
と考えるとヘイトスピーチをする人達はいかに自分がポンコツであるかを公言してるに等しい
そうなると一定の線を引き良識ある人は寄って来なくなり
似た者同士で集まりさらに自分の意見は強固になってしまう。
そうなって行き着く先が見え始め/(^o^)\ナンテコッタと言う人生が待っている。
防ぐには阿漕な肩書や立場も置いてひとり旅に出て自分の身を違う場所に置く事ではないかと
角を曲がったらそこから旅と言ったのは永六輔


陸中 大野村阿子木

バイクに半世紀以上と長い事乗ってきたが車とバイクの大きな違いは相手が悪かろうが此方に優先権があろうがどうであろうが
ぶつかればケガをするのは自分自身なのだ。
法治国家で法によって守られてる限りはなんぼ急いでいても誰も通らん道でも信号が赤になれば止まらなければならない
他国の事は知らんが日本の法は弱い者を味方する助ける為の法が圧倒的多いと思う
それなのに自分の人生がポンコツになる原因は自分自身を高く見積もり過ぎた事にあると思うのだが
欲を掻くと大損するのは米商いも人生もさほど変わらないのでないかと今頃気づいた。

令和米騒動

以前一緒に働いた仲間に農家が二人いた事と今はNさんのお陰様で米を最後に買ったのはいつだったか忘れるほど米を買った事がないし来年食う分もある俺が言うのもなんだが

米問題を重量で考えると60キロで3万とすると普通に魚でも野菜でも60キロで3万で買える商品は少ないと言うか記憶ではほぼ無い
安いジャガイモでも1キロ800~1500円はする
さらに食べ物以外の商品でも中はほぼ空洞の洗濯機でも重量30キロで3~5万はする
350キロある船外機は420万する。
米は価格に対して輸送コストの割合が高い商品と言う事になり
その米をアチコチ移動させる事は無駄が多い事になる
まさに米ほど地産地消をした方がいい商品と言っていいのに移動させるのは何が或のだろうと素人は思ってしまう。
60キロは成人一人が一年で食う重量で1日3食で米代は1日およそ83円前後になる
それが高いとは到底思えないのだが
それより米が足りない事が問題でこの米騒動は米流通過程に色々問題が隠されている様な気がしてならないのだ。
随意契約を言い始めると今度は精米所が足りないと言い始める
今まで順調に市場に白米が出てたのに精米所が足りないと言う
米不足で精米所の倒産が急増していたなら不足はあっても仕方ないが
あれ~それは滅茶苦茶可笑しいのでは
誰かが価格が安いコメが市場に出回る事を阻害してるような気がしてならないが
この状態は投機株取引と似ているが株はただの紙で今は電子データーで買い支えてなんぼ有っても保管も流通も困らない
だから素人でも簡単に手を出してしまうが流れを変える事が出来るほどの資金力を持った者が勝つのは自然の流れなのだ。
それを上回るほどの情報力と明察力がなければ素人は損をするのは当たり前なのだ。


新潟伊藤家
米は風通しのいい場所に保管され壁に直接付かない様に米倉は二重壁になっていた。

米は湿度温度ネズミなどの対策をした米専用の保管倉庫が必要で何処にでもある訳ではない
が~北海道はそこら中にある
その北海道が今年は肌感覚でやたら水田に水を張っているのが多く感じるのだ
ただ救われるのは倒産してしまえばタダの紙切れになる株や誰が考えてもおかしい1637年のチューリップ・バブルと違い米は日持ちし実際に食える物なのだ
この騒ぎによって末端の米農家は救われ邪な考えで食い物でぼろ儲けを企んだ者は10月には痛い目を見る事になるだろう。
自分の手を土でよごし汗を掻いた者が生き残る事を証明する秋がもうすぐ来る。

 
北空知北竜案山子

話は変わるが定価がある商品が市場に出て売れ始めると簡単には値上げは出来ないので卸価格が変わったり取引条件が変わったり小売店の選別などはよくある事で
さらに生産調整をして市場に不足感を持たせるのはメーカーの常套手段なのだ
魚組にせ農協にせ各組合は組合員の為にあり問屋も必要な物を必要としてる人に届ける流通業の真骨頂を試される時にある
欲を掻くと大損するのはバブル崩壊でも証明したが古来からの商いの定め

算数2

算数が出来なかったので殆どを感覚だけで生きて来たのだが
エビ祭りはここの道路は通行規制が掛かり暇になるのでラーメン食いに来た悠の字に算数を教えて貰った。
かなり理解出来たが0をどう解釈するかが大問題でまだなんかシックリ来ない
算数が凄いなと思うのは無駄を無くする事が出来る事で無駄の塊のような俺になったのは
ひとえに算数が出来ないからだと思う

 
大和ミュージアム 91式射撃盤
大きさは縦4尺ほど 昭和6年に艦砲射撃をする為に愛知機械で作られた計算機
動く物に対処する時は相手の動きを予測しさらに自分も動いているので両方の動きを計算する必要があり最初はこれで計算して敵艦に試し打ちして当たると打ちまくるのだが
試し打ちなどかなりの無駄があり搭載してる弾も限りがあるので無駄に先に気づいた者が勝つ
時代はすでに航空戦に

一発勝負の月行きロケットは闇雲に満月のウサギを目掛けて打ち上げていたら
月も地球も両方動いているのでいつまで立っても月に着く事は出来ないと思う。
ロケットを打ち上げて一発到着させてしまうのも算数あっての事と思う
その優れた算数技術の現代においての米騒動は誰かやましい邪悪な心掛けの者がいるからだと推察するのだが
いまの時期は峠を越えていっかた空知平野の沼や川に魚を見に行っているが
感覚だけで生きて来た野生に近い俺は米生産地帯の空知平野を峠の上から見て思うのは10月に米は大暴落すると思う。

算数

最近パソコンを開くと暗算が表示されるのでついやってしまう
実社会では掛算と割算のどちらが多いかと言ったら
6尺材から4尺を取る場合は12尺材を使った方が無駄はなくなるなど圧倒的に割算を使う事が多く
掛算は数字の配列に関係なく答えは同じになるが割算は配列の後先で答えが違う
割算を簡単にしたモノが分数だと思うのだが
算数をやると面白くて紙とボールペンだけで考えるのだが夜も寝れないほど色々考えてしまった
1/2×1/5は0.5×0.2だと思うのだがこれを1メーター四角の土地で考えると
1/2は50センチで1/5は20センチだと思うのだが、なんで掛けたのに0.1と土地面積が減るのかわからん
他のものはそれぞれの考え方や経験で答えが違う事はよくあるが算数だけは誰がやっても答えが同じなのが面白いが
俺がエジプトに生まれていたなら算数の見本のようなピラミッド作りに何も考えるなとムチでバシバシと叩かれ10トンもありそうな石を押してる側だろうと思う。
現代に生まれよかったぜ~
丸暗記や与えられた情報を鵜呑みにする事はそれは何も考えるなと指示する側とされる側になり
いまのスマホも使用料の銭だけ払えあとは何も考えるな思うなと使わせる側と使わせられる側になり
スマホの使い過ぎはアホになると
もしもう一度生まれる事があったなら食う為に鉄屑や空き瓶ん拾いで中途で終わった義務教育の小学生をやって字と算数を習ってみたいと思う。


それにしてもこの何不自由ない時代にわざわざ他の国に行って戦争する意味がわからん

謙遜,謙虚と卑下

謙遜や謙虚は明日食う米が米櫃に入ってる時に出来るのであってガザの様に子供達が今日食うメシも無い時に謙遜も謙虚もヘッタくりもない
不幸な状態に陥った時に誰かを呪うか、そこに生まれ落ちた自分の不運を呪うしか明日を生きる力が無くなる
誰かを呪う事はそれは相手が変わって呉れるか、変わらない限り自分には目が出ない事を意味する
そんなものは待っていられないから自分の不運のうち何か変えれる事、やれる事を探した方がいいのだ。
己の何が悪いのか人様より何が劣っているのかと己を卑下してどん底まで落とし込んで
そこから這い上がる
職人と言われる人達は理屈はわかっても手がその通り動かない事を知っている
出来る人と何かが違う事を認めてそこからまだまだと厳しい修行を続けていく
その中で卑下が生まれ卑下と卑屈は違う

花井組はなんか変だなと思ったら蹴られた方は社長の妹の甥らしい
親戚筋を仕事場に入れると周りはそこらの小僧っ子とはやはり扱いは違う
さらに血筋が繋がってると思うと自分の意を酌んで呉れるのではと過大な期待をしてしまう
その両者の大きな違いに苛立ちを覚えるのはよくある事なのだ。
回りの人間には最高の連中であって欲しいと願うのはどの経営者も同じだと思う。
その落差がつい怒りとなって手や足が出る事もよくある事で その程度は職業柄が出るのもよくある事なのだ。
浜では船が岸壁にぶつかりそうになると漁師の母っかさんは父さんに
「 ひとの傷は治っても船の傷は治らんぞ 」と怒鳴る
危険な現場ではいまそこにある危険に優しい小さな声などない
聞こえない優しい返事は返事ではない


自分の事は棚に上げてノコノコと画像に出るナマな御身内には他の若い衆に示しが付かない
お仕置きを
暴力反対~