小学生の頃 峠下に熊が出ると言う話を聞いて
くせ毛でやたら背が高くチョット変わった転校生の潔に
熊を見にゆくべ~と自転車を持って来いと言い二人乗りで峠下に熊を見に行った。
留萌からずっと砂利道で二人乗りの自転車は幌糠でパンクしてしまい、そこから押して帰り真夜中になってしまった。
戻ると学校の先生や近所の人達で大騒ぎになっていた。
当然主犯格の俺はこっぴどく怒られたが懲りる事は無く
今度はあの山登るべと暑寒岳を指さした。
二人は入念に計画を立てに図書館に行きノーチラス冒険記からロビンソンクルーなどを読み漁った。
字がパッと読めん俺は潔と一緒に図書館にゆき潔に字を教えて貰ったようなものだった。
そこで学んだのは水が一番大切だと言う事だった 水筒を買う事が出来なかった貧乏人の俺は一升瓶に水を積めて背中に背負ってゆく事に いざゆかんと言う時に計画は先生にバレてこっぴどく怒られたが
そんなに登りたいならと何の会か知らんが担任の先生と大人数人のグループと潔と俺が一緒に小6の時に暑寒岳に初登頂をした。
その副産物で図書館利用記録は一番になった。
面倒な字は省いて読み、絵の多い本を都合よく解釈するので読むスピードは速かったのは道理である。
潔はその頃は確かエジプト人と言う本を読んでいてエジプト人の色恋の話を読み聞かせて貰い衝撃を受けた事が今でも思い出す。
その後も冬山にウサギを獲りに行こうと言ったり礼受の港にカキを剥がしに行ったりとしたが
心優しい潔はウサギを食うのは可哀想とか言って中止になった。
原野二線には養豚農家や密殺場があって肉を食う事は普通に行われていたが
大人になってからあまりにのリアルさがフラッシュバックして肉が全く食えない時期が数年間続いた事があるのだ。
ある時は自衛隊の大和田射撃場に潜り込み小銃の弾を沢山拾って来て東光小学校のストーブに乗せ曳光弾を破裂させて遊んでいたが筋金入りの貧乏人の俺は弾を向かいの雑品屋に売りに行って生活費にした。
付合いは俺が学校を辞める中一まで続き その後に潔も親の仕事でどこかに転校して行って国立大学に入ったと風の噂で聞いた。
何を考えて何をするかわからん食うや食わずのクソガキ時代だったが字は潔に教えて貰い 楽しい時代だった。
俺は言葉を喋れたのが小学2~3年生頃だったので多分今でいう発達障害だったと思うのだが
その時期があったから いまではすっかり変わった名古屋駅裏中村区のスラム街で耐えられたと思う。
潔は今頃何をしてるのか縁があったらどこかの沼か川でバッタリと遭うかもしれん