19日塩街道

 
ここは春に千曲川を遡る旅の続きになる千曲川支流の抜井川になる佐久穂古谷渓谷
ここに乙女などいない絶対いない、
乙女の滝などと言うのはアチコチあると思うがないものねだりなのだ。
名称やスローガンなどはないものねだりの象徴で
中京ドヤ街の一角にあった正直屋のTシャツは一回の洗濯でヘソ出しルックになり
「余計な事を言わない男」は余計な事を手一杯言う

 
佐久は室町時代から続く篠澤家と言う豪商が殿様以上の力があったそうで現在もホテルを運営してるらしい
室町時代から500年も商いが続くのは家訓や教えが徹底されているのだと思う
考えようでは商人が納める地域はメンツと力を重んじる武士よりは庶民は暮らし易かったかも知れない
それでなければ500年も支持され続かない
自分自身を振り返ると拡大や売上重視でなくもっと丁寧にしておけば良かったと思う
メーカー品を売ってる販売店が集められる時は売上順に席順が決まり
それが競争心に火をつけて売上をあげる結果になったが
その席順を得る為に能力を超えたかなり無理な販売を続けて来た
当時のメーカー側にしたら椅子をずらすだけで売上あがるので可笑しかっただろうと思う。
経済優先競争から離れてみると投資資金も運転資金も要らない結果は借金ゼロになり
気持ちは考えられないほど楽になって怒る事も無くなった
逃げられた嫁さんや従業員にも苦労を掛ける事を減らせただろうと今頃になって思う。

18日国道299号十石峠

 
小鹿野町から国道299号線をどんどん進む旅籠か峠の茶屋かと思われる廃屋がアチコチにある
昔の木賃宿や峠茶屋は諸藩を跨ぐ情報交換の場所になり、その店主はひと方の人物だったと思われる
当然山賊もロクデナシも居ただろうが朝ドラのトキがどの道を通って女ひとり松江から東京に行ったのかとても興味がある
鳥取の貧農の出のおっかさんは離れ離れになる別れ際に騙す人より騙されるひとになりなさいと言ったが
旅の安全は儒教「五常の徳」や誰も見ていなくとも「お天道様が見てる」と言った教えが旅の安全を守ったのだと
英語などでこれらにピッタリハマる言葉はなんだろう
God is looking over youとも違うような気がする
「思いやり」がマナーとも違うし「誇り、矜持」がプライドともやはり違う日本や儒教独特の文化なのかと思うのだが
改めて日本語の大切さを知る

 
秩父小鹿野真福禅寺 ここから山奥に入っていくが途切れ途切れに集落がある
記憶ではセコンドギヤでなければ登れない国道は初めてで止まって車を降りると思っても
サイドブレーキは効かないので止まる事は出来ないほどの坂

 
それでもそのさらに山奥にまた集落があり何で食っていくのか不思議
ま~何処でも住めば都と言うのは本当だと思うが
平家の落人だろうがなんだろうが何百年もの歴史があると思うので田舎で余生をなどと移住しても慣れるまでは苦労するのは当たり前の話
北海道とは違い家々が大きく立派
増毛などはこれがひとの住む家かと思う様な小さなバス停より少しましな家はまだ沢山あるが
考えると周辺市町村の中でも増毛は小さな家が特に多いがそれが貧乏とは違うような気がする
なんでだろう
俺の家は13畳一間で台所風呂便所も納まってる、
趣味の旅行を取るか家を取るかと言ったら・・・

 
日本航空123便で有名になった上野村

 
国道299号線 十石峠 軽がすれ違うのがやっとなのだが物好きが酷道に挑戦してくる
大きな4駆からバイクそれもトライクまでがいる

 
俺はカメラマンにはなれない事がハッキリした
う~んあっちはナンタラ山でこっちはカンタラ山でと見ていたら下から赤いフルカウルでサイドバック付き大型バイクが登って来て砂利の駐車場に入って左にコケた
足を地面とに挟み起き上がる事が出来ない
ついうっかり大声で何やってるのだと言ってしまって階段を急いで下りたが着いた時に駐車場に居たたった1人も加勢するがフルカウルは掴み処が無いので起こせない
大型バイクは自力で起こせないと免許は貰えないはずだと思ったが・・・・・
増毛の乗車切符をやりたい様な頭のそこそこの歳のオヤジは恥ずかしいのか緊張してるのか
一応大型バイクのインストラクターを持ってるので起こす前にチェンジをローに入れて起こさないと言うが聞かない
ニュートラルで起こすと勝手に走って行ってしまうしサイドスタンドを出したら後ろに引かないといけない
十石峠を無人のバイクが走るさまも面白そうだが
オヤジに手はここにと言いやっとバイクを起こし後ろに引いた
終ってからや~上から写真を一枚撮っておけば良かったと、
俺はカメラマンにはなれんと思った。
そう言えば何十回も船を曳航してるのに曳航してる写真は一枚も撮っていない

17日芦ヶ久保道の駅


負の意見には皆はすぐ反応する
口コミでは館内は写真撮影禁止となってるが写真を撮りたいと紙に書くとすぐOK
写真撮影禁止はデマ

本田宗一郎が米国のリーズ・ブラッドナー社から買ったと言う自動量産ホブ盤

大隈鉄工のパラレルリンク形マシニングセンタは工作機械を数見て来たのと多少は使って来たので
その先端に付いているエンドミルを見て不思議だったので聞いてみたが
青い服を着た言葉がハッキリしないオジサンに握手を求められた
連れ合いらしいおばさんはいい質問だからだと言った
その後手話とも違うが頻繁に身振り手振りで声掛けと握手をされた
付き添いと思われるひとが盛んにメモを取っている
きっと何かで名を成した人達なのだろうと思った。
日本人とは握手はしないが外国人と逢うと必ずする
思うに握手とハグは争いを繰返したヨーロッパで相手の力量を知る手段ではないかと思う

朝にトルコ系外国人と握手をして別れて来たが握手をすると多少は相手の事がわかる気がするのだ
手の生命線、頭脳線、運命線、感情線などが相手の手相とゴリゴリとサンドペーパーの様に
こすれ合うのでそりゃ~勝てるかどうかも何かがわかるってもんなのだ。
修理工を長い事やってるとドライバーなどを扱うので握力はかなりあるが
握手はただただ力を入れて握ればいいと言う訳ではない


ガスタービンの実物 全長10メートルほどある

これを見るとオイルがいかに大事かがわかる
説明してる人は心出しを強調していたが振れをゼロには出来ない
それを補うのはオイルで油膜によって本体を浮かす事で歪みや振動から本体を守っている
油膜が切れたオイルはもうオイルとは言わないし油膜の強度イコール価格なのだ
現在はオイルの重要性にも注目され化学合成オイルなどが沢山出来ていて
ホームセンターで売られている極端に安い機械の構造はオイルに寄って助けられている部分がある

工業もまた見えない処で日々日進月歩をしているが、それは一朝一夕に出来てる訳ではないのに
株価は秒単位で上がったり下がったりと会社の価値が決まるがそんな訳がないだろう
会社や従業員を食い物にしてるのが投機マネーゲーム連中で
虚業と実業を一緒くたにする連中を見ると廻し蹴りを噛ましてやりたいが
もう足は相手の肩にも届かない
浜名湖湖西に行くとモンゴロイド系が作業服を着て沢山歩いているが肉体労働者にコーカソイド系を見る事はない
日本で地べたを這って地元日本人ですらしない肉体労働をして苦労してくれてるのはモンゴロイド系なのだ。
相手を嫌っているの働いてくれはない
経済優先はビルも立たなければ野菜も魚も満足にないゴミも片付かない国にしたのだ。


芦ヶ久保道の駅で一泊 標高は相当高いと思うがその上を電車が走っていた

首都圏は大き過ぎてさらに隙間がないので田舎者には車で入る事は難しい
暗くなる前に首都圏脱出をと思ったが結局は16日夜から脱出出来たのは
18日夜になってしまった。
もう着いた時は店を探す気力もなく車内で幅広うどんを食う。

17日ハッピーケバブセントラルキッチン


もう都会での生き方を忘れてしまって この土も水も無い処で生きて行くのは無理と思う
人間本来の生活習慣から外れ寝てる時間も働く都会では生活空間はどうなっているのか
電車内や屋内で自分のパーソナルスペースにスマホを持って会話も無しで
知らないひとが居る状態を異常と思わない事が異常なのだと思うのだが
馬を運ぶ時は馬運車が使われるが牛と豚は専用車ではない
この崖下村では3メートル以内にひとが入ったなら知らないひとでも何らかの会話が生まれる
会話は最低限の意思疎通方法で安全確保の手段でもあり
会話が無ければ相手を勝手に解釈せざるを得なくなる
それはとても危険な事なのだ

古代には電話やテレビなどと言う言葉なく その生活は家族が最低限食っていくと言う今より遥かにシンプルな生活で言葉の数は半分も無かっただろうが愛はあっただろう。
現代は多くの言葉や物で様々な生活選択肢を選ぶ事が出来るが
その溢れる選択肢の中で都会人は溺れているように見えてしまうのだ
信じる事も多くのエネルギーを使うが疑う事も多くのエネルギーを使う
人を疑う人は疑う事にたけた能力を持っているが
その疑う事に使われるエネルギーは相手を狩るまで際限なく続き顔は相となっていく

 
目的地は富士見市と流山市の中間にある北緯35度51分 東経139度44分に向かっている
その場所から真っすぐ南下すると20キロで皇居に着く場所なのに舗装もされていないデープな場所をどんどん進む

周辺の写真を撮る事はトラブルになる可能性があるので殆ど写真はない
そのなかにトルコ系労働者向けに朝食を提供する店があり
着いたが時間が遅くメニューは少ないと言うが作ってくれると彼は言う
その店から6~7メーターほど離れた場所でガタイのいい男たち6人ほどが粗末なテーブルで朝飯を食っている
そのパーソナルスペースに紛れ込んで来た、Tシャツに雪駄の人相風体も怪しい俺に自分達のテーブルに座る様に進められた
座ろうとした椅子が破れて水が沁み込んでいるからと自分の椅子を差し出し座れと言う。

テーブルの中心に自分達の大きなナンがあり千切って間に卵焼きとミニトマトに細く切ったキュウリを挟んで手渡してくれ俺に食えと言う
それは彼たちが今日1日稼ぐ為に食わなければならない物を俺に食えと言う
有難く頂き食ってる間に注文したケバブが出来たと言う
その空間に長居する事は彼達のメシが減る
途中で買った唐辛子を置いて来てケバブを次の目的地の駐車場で食った。
800円で量もありピリ辛で美味いのだ


ハッピーケバブセントラルキッチン

歩いて帰れない海を越えて知らない土地で暮らす事はどれほど大変か
だから言葉の有難さとその言葉によって救われる事を身をもって知っている
年から年中女物の安い下駄で過ごした俺も皆の愛で今度は声を掛けれる立場になった
愛と笑顔が万国共通の言葉なのだ。

16日日光街道から4号線に

  
東北で見る蔵の屋根にさらに屋根が乗っかってる置き屋根と言うらしい
 
目的地まで時間があったので昭和村に行ってみる
ふたつの村が昭和2年に合併したので昭和村となったと掃除をしていたおばさんが教えてくれた
 
ひとの村の事は言えんがホント店も何もないあるのは何処に行っても立派な墓がある
墓の数は歴史の長さでもある

 
日光街道を南下して鬼怒川温泉に出るが閉鎖された温泉ホテルが沢山あった
規模は定山渓温泉と層雲峡温泉を足してもまだ全然足りないほど大きいが歩いてる人を殆ど見かけない
この施設を作った当時はまさかこんな時代が来るとは思っていなかっただろうに
インバウンドに頼っても迎える仲居さんも外国人では洒落にならん
もう打つ手はないのか この時代変化のスピードに対応にするには規模の大きさはかえって邪魔になるのかも知れない


距離と時間の予測を北海道の感覚で予測してしまいすっかり遅くなってしまった
北海道は60キロは1時間だがここは20キロに1時間掛かってる
埼玉には朝5時に着く為に夜道を走る羽目になってしまった。
国道4号線で車の流れに乗る事が出来ずに時間ばかり掛かり回りの職業運転手に迷惑掛けているが
夜道を次から次と走る大型トラックに田舎者にはこれが人間の暮らしなのかと思ってしまった。
ひとりのドライバーが運べる荷物は多くて20トン コンテナの積み降ろしに一日余分にみたら貨物列車で何百トンをひとりの運転手で運べると思うのだがJRは廃線しか頭にない様な気がする
もう俺自身も国内は3日で部品が来ると思ってしまってる
俺の部屋の20メートルほど裏にある線路に列車が走らなくなって9年になる


道の駅 庄和 クレヨンしんちゃんで車中泊 明日はよいよ目的地

 
ここに着く前に「道の駅しもつけ」で「手切りうどん」とかで幅がランダムに広く北海道では見た事がないうどんを車の中で食う
これがやたら美味くてその後見掛けたら買い食った

「しもつけ」で大河ドラマ「鎌村殿の13人」に出て来る上総広常はこの辺りの出なのだろうかと思った
字が書けない上総広常が頼朝に子供の字かと言われながらも字を書く練習をしていたのに
頼朝によって謀殺されてしまう
ドラマは作り物なのに字を書けないのが自分に重ね合わせなんとなく可哀想にと思ってしまった。
明日はよいよ早朝に目的地に入る

15日西会津


信濃川右岸に後進で着岸するのだが狭い処にさらに流れがあるからかタグボートが付き添って
着岸する
それが見てると直接押すわけではなく付き添ってるだけで船の前後に付いてるスラスターでする着岸操船は凄いと毎度感心する
15時30分新潟着なので明るいうちに西会津道の駅に向かうが寄り道につぐ寄り道で暗くなってしまった。

 
何が感心したかと言うと内地の道の駅はゴミ箱が設置してある
北海道の道の駅はゴミ箱が無い為に回収される前の早朝の国道はゴミがアチコチに散乱してる
コンビニもゴミ箱は撤去してるので処分に困ってキャンピングカーや旅行者が捨てるのだと思うが
観光地でゴミ処理は必要経費だと思うゴミ袋を持っては歩けない
有料でもいいからゴミ箱を設置しないと車の場合は人里離れた場所に捨てるのでキタキツネと同様にヒグマも呼ぶ事にもなりそう
俺は80サイズのダンボール箱を持って行き中にゴミを入れて持って帰って来るが
生ものは匂いがするので冷蔵庫に入れて来て帰ってから処分するのだが
今回は折角なので道の駅で捨てさせて貰った。
ここで買ったゴミは隣の道の駅に捨て、隣の道の駅のゴミはまた隣の道の駅に捨てる。
輪廻転生

 
西会津道の駅は町の中にあり歩いて数分の処に食堂や居酒屋が何軒もあり呑む為にここ西会津道の駅に来た。

隣に止まってる軽が北見ナンバーだったので少し話をして呑みに行かないかと誘ったが断わられた。
ブラブラ歩きながら団体で歩いていた人達に聞いて来たのが鳥重さん
西会津で作っているお酒「水の音」を頂く
美味しいお酒で焼き鳥なども美味しく二本も呑んでしまった お代は3800円
店主さんは偶然これから行く今回の目的の埼玉のある街に10年ほど住んでいたとかで色々な話が聞けて良かった。
まったく知らない処で呑むのは自分の器量を試されるのだ

 
夜明けとともに会津若松に向けて走る
 
ころり立木千手観音
これが北海道にはない歴史の凄さで1200年頃に作られたらしい中にデカい観音像が立っている
大概の平野は何処か一方は海に繋がる平坦な道を持っているのだが
会津は広い平野だが四方を超える事が難しい険しい山に囲まれた珍しい地形で閉塞された盆地が出来ていて峠には登れない車があるから注意とアチコチに書いてある。
この地形は会津独特の文化があっただろうがそれは新しい情報も入らない事を意味する
それが明治維新の時に遅れをとった一因と言われているらしい

 
会津の子は背筋が伸びてる
いまでも子供は剣道か弓道を普通にしてるとの事なので女子供だからと言って侮ると痛い目に合いそう

 
鶴ヶ城 城を見る時に土台を見るが作りが凄い
城のすぐ傍にあった支那ソバ屋で支那ソバ800円を食す
昔はラーメンは支那ソバと言ったが現代では中華そばと言うようになった
いまは支那と言う言葉使われる事は少なく支那竹とは言わないでメンマと呼ぶ
日本で言えばジャップに相当する言葉と思うのだが
見た目根性のありそうな店主が一人で作っていてかなりの人数が食べていた
食って店を出る時に美味かったと言うと満面の笑顔だったので会津人の一途さか何かこのひとなりの訳があるのだろうと思う。
俺など根性は無いし嫌だと言うひとが居るならまったく名前にはこだわらない
今まで数軒の店を作って来たがその地その地で名前は違う。

14日苫小牧出航


今回は小樽出港フェリーが満車で乗船出来ず
苫小牧から19時出航なのでゆっくり支笏湖経由で向かう
北海道の道は車も少なくカーラジオも聞かないので考え事をしながら走るのは丁度いい
この広さに日本の4パーセントの人しか住んでいないで2時間も走れば都会に行く事が出来る
高い山々には遅くまで雪が残る為に本州と違い水不足が起きない
何処に行っても水と土があるとても恵まれた大地で
このまま行くと米は北海道が多く作る事になるだろうと思う


物流苫小牧港 北海道では一番大きい港でRORO船やコンテナ船が何隻も泊っている
ここに来る度に思うのはこれだけの荷物が道民500万人の生活の為だけに有るとはとても思えない
世界中から物が来て世界中に物を出してるから荷物があふれてるので
世界の中の一員の北海道なので自国第一主義や排外主義など偏狭な考え方なのだ。

時間もあったので苫小牧はホッキ貝が産地で漢字では北寄貝と書き
時化の時は浜に寄り拾う事が出来る場所に行ってみる
殻は沢山あったが時化でないので身は入っていなかった
ホッキを無性に食いたくなり港の食堂に行ってホッキカレーを食った
1600円は観光客価格と思うが美味かった
この観光客価格に頼る事は早晩自分の首を〆るだろうと思うのだが
理由はいくつかあるし現実にそうなってるだろうと思う場所もある

ラーメン屋で春になったらメニューにホタテカレーを作るかなと思ってシマッタ
なんでもやって見たくなるのは、ここが俺のダメな処で結局は徒労に終わる事が多く銭も無駄にする
ただやってみて難しいと言う事だけが残るだけなのだが・・・・
ラーメンは屋台でも店がボロでも成り立つがカレーは店構いも味の内の様な気がするので
やっぱり俺の店では無理だと・・・・・
それでも自分用に戻ったら作ってみようと思う 出がけに作った塩トンコツラーメンも美味かったのでまた作ろうと材料は買ってある。


夕方7時 津軽海峡を通り秋田新潟に向かって出航
誰だったか津軽海峡を場面にした小説があったが題名も忘れた
が乗客を観察して勝手に推理するのは船旅の面白さでもある。

13日人生最高の記念日

13日に札幌で可愛い可愛いNちゃんの結婚式に出席するのだが
回りから雪駄は履いていくなとかドレスコードやマナーは守れと言われ
お気に入りのダブルの背広を着ようと出してみたら虫食いで穴が開いていたので
他のネービーのツーピースに靴はタッセル付きのローファー
時計はボストークからスイスのナンチャラまで数点あるうちのRナンチャラをしてと用意は万端で早朝ここを出発
マナーとは俺にとっては招待してくれた相手に恥を掻かせない事だと思っているが
俺が身に着けるとすべてが偽物に見えてしまうのだ。

穴の開いた背広は途中で札幌苗穂イオンのかけはぎ屋に修理に出す事にしたのだが
修理代は5ミリ四角が数か所あり合計11万ほど掛かるとの事
勿体ないが予算オーバーで断念して車に戻ろうとしたが
兎に角広い屋内駐車場でさらに上にもあり何処で止めたかわからんなってしまい
ちっちゃな軽を探すのに何十分も掛かってしまい教会には時間ギリギリに着く羽目に

人生初めての教会での結婚式なのだが
来賓者達とは違い人相風体ともに怪しさと場違いを痛切に感じながら緊張してしまった。
祝いの席なので呑まずには帰れないと近くのホテルを探すが無い
あるのは俺の主義とは違うAホテルのみだったので
ヒグマに食われるかも知れんが藻岩山スキー場で車中泊に決定


結婚式場 藻岩山にある教会

「 病める時も健やかなる時も… 」に新郎がハイと答えるのをしっかり聞いた
確かに聞いたぞと
親族の写真を撮って次に俺の名前が数回呼ばれたので財布でも落としたかなと思ったが
新郎新婦の間に入って写真を撮ると言う
何かの間違えかと思ったが理由を言われてグッと来てしまった。
祝宴は入口に高そうなワインやシャンパンらしい瓶が沢山あって
これは日本酒しか呑まない俺は我慢かと思ったが席に着くと
俺宛の二人からの手書きメッセージが置いてあり読んでなんと言う事かと涙が出そうになった。

4人席のうち3人がなぜか日本酒を呑むと言う 酒はスマホで注文するのだが
俺はスマホを車に置いて来て持っていず他のひとが注文し酒を貰う事になった
テーブルにはナイフとフォークとサジがありこれまでの人生で一度も使った事がなく
マナーも使い方も知らんので
右隣に座る三丁目の夕日に出て来る茶川竜之介そっくりオヤジがどう使うか見る事にしたが
ナイフを右手に持ち小指をチョイっと持ち上げるのがマナーらしい うんうん
すると真向かいに座る勉強が出来そうな若者が俺は日本人だからとワリ箸を持った
お~お~よく見ると袋に入ったワリ箸があるではないか
いつもラーメンのワリ箸しか見てないので袋に入ったワリ箸には気づかなかった
俺もワリ箸を手に取って見た事もない料理を摘まむのだが
いかん緊張のあまりワリ箸を持つと右手小指がグッキと上がるのだ。
楽しい祝宴が終り俺は坂を登って車に戻り車中泊をして翌日14日は苫小牧東からフェリーで新潟に
出始めが目出度い結婚式なのでいい旅になる事は間違えない

もし日本に飛行機と新幹線が無かったら自民党は大敗しなかったのでは
選挙区から国会まで列車を乗り継ぎ雑踏の中に庶民の姿と声を聴いただろう
川端康成がトンネルを抜けると雪国だったと言ったのは上越清水トンネルだと言われているが
峠を越えた時にまったく違う景色が表れるのはたった1.2キロしかない中越三国トンネルでも同じで天気も変わる

上越だろうが中越だろうがどっちにせ関東平野と日本海側では生活も規模も大きく変わる
そこに地元代議士が必要とされ
その大先生様がお選びになる、お頭を総理大臣にしようと言うのは当時は自然な流れだったのだろう。

 
上越妙高から群馬に向かう途中の急な坂にある集落

土地への執着がない流れ者が多い北海道では考えられない所にも内地はひとが住んでいる
旅に出るつどに関東平野東京の価値観をベースに考える事に政治家のずれがあるような気がしてならないのだ
商いの鉄則 価値観や格差などの違いに価値があり利に繋がっていく
嫉んだり叩く事だけではメシは食えない
俺の持っていないものを貴方は持っている 貴方の持っていなものを俺は持っている

石破総理戦後80年所感発表

昨夜NHKプラスで石破総理の戦後80年所感と記者質問を最後まで見た
さすが著書を数十冊を書いただけあってこの人らしいなと思ったと同時に自民党は終わったと思った。
自民党の大敗はこのひとが総理をしたからでは無い それ以前から崩壊に向かって行ったのだ
美しい日本を作りましょうなどとスローガンに言いながら実際は森友から始まり桜をと酷いものだった。
3本の矢もナンチャラミックスもスローガン
スローガンに頼るのは自分の不出来を隠す為にあるのだ
峠を越えた処に住むオヤジがここに来ては
「 俺は余計な事は言わない男なのだ 」と言いながら毎度1時間は油を売っていく
聞いていてオイオイそんな事言って大丈夫かと思う不確かな言葉が
余計な事は言わない男の口から次々と出る 田舎でもスローガンなどその程度のものなのだ
言葉はやがて消えていくが文字は残る
人類史でも文字を持たない文明は滅びていっている
20数年雑誌数社に原稿を書いて来て文字を残す事は最大の注意が必要で
大損の元にもなる事を身に染みて知っている
1行の文字に確信や裏を取る為に1時間掛ける事などザラで石破総理はどれほどの時間を割いて来たのか
その為に自分の身の回りなどに割く時間はなかったのだろうと思う
文字を書く人は細心の注意が必要で著作はその人なりを残してゆく
石破二朗の息子、石破茂総理の話は聞いていて安定したいい話だった。

自民党議員も党員も後悔先に立たずと知るだろう。