琉球与那国泡盛どなん


誰か知らんが琉球与那国泡盛「どなん」が土曜日留守中に玄関先に置いてあった。
メモも何もなしこの宅配ボックスには名前も記載なしで様々な物がドデンと置いてある。
先回はセコマのビールひと箱が炎天下にドデーンと置いて在り暫く預かって置いたが持主はわからず皆で呑んでしまった。
せめて何かしらのメモでもあればと思うのだが どなん


25日には八の納骨も済んで一安心
俺は自分だけの墓ならその辺りの石に名前だけで充分なのだが墓を作ると言い始めてから次から次と自分も入れて欲しいと言って来たのでこんなに立派になってしまった。
墓は一種の広告で
そこそこに雑誌広告原稿を書いて来た経験から広告はこれから買って呉れる人も大事だが自分の店で買った人達に「なんだあんな店で買ったのか」と言われない様にせめて恥を掻かせない事も大事で
佐藤隆太も被害者と言っていいと思うのだが

俺はやりたい事はほぼやったし常に現状を受入れると言うか流されるタイプなので小言は多いが常に満足して暮らしているのでいつでもOKょ~状態なのだ。
ひと安心して隣の墓碑をよくよく見ると陸軍工兵上等兵とまでは読めたのだが
画像に撮って寝倉に戻って画像を見ると旅順203高地明治37年12月8日戦死と書いてあった。
重機も無い設備も無い時代にこのひときわ大きい墓碑を立てるには当時は相当な銭が掛かったろうと寄付などあったのか全額自費で立てたのか
息子が戦死して喜ぶ親がいるとは思えないが軍神の親として悲しむ事も許されなかったのかも知れない
旅順203高地は司馬遼太郎が秋山兄弟の旅順攻略を題材に「坂の上の雲」を書いた。
他には北海道にもなじみがある高田屋 嘉兵衛 を題材にしたのが「菜の花の沖」である。
司馬遼太郎は一時期総理経験者が一番好む愛読書となった時期もありその他の執筆も国の指導的立場の人向けの小説が多く
江戸城は誰が作ったかと問うと司馬遼太郎は徳川家康と言い藤沢周平は農民と答えると言われた。
後に司馬遼太郎は自分の文筆活動に疑問を持ち始め執筆を止め下々の暮らしを見る「街道をゆく」紀行文を書き始める。
もしかして司馬遼太郎はこの墓碑も見たかも知れないが先にこの墓標を見たら司馬遼太郎は「坂の上の雲」は書かなったかも知れんと思った。
隣に自分と回りがチマチマ食って平和にその日が楽しければいいやと言う墓を作ったので
上等兵殿が怒ってこちらに倒れて来ない様に拝んで来た。

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