メシ食った。

免許更新用の眼鏡を作ったり眼にいいナンチャラ言うサプリを呑んだりした。
更新は出来たが左眼角膜が切れて視野が極端に狭く条件付でなんとかなったがそれより
よく録音した自分の声を聞くとあれ~こんな声なのかと思うが
初めてサツドラの駐車場にある証明写真の箱に入って写真を撮った。
そこから出て来た写真を見た時に
誰だこのロクデナシ風の顔はと普段鏡で見る顔とは全然違うのだ。
なんでだろう脳が勝手に自分の顔を作るのだろうか
最近は目元が綺麗なお姉さんがやたら多いが疑り深い俺はマスク以外で見える処だけ入念に化粧をしてるのでは思ったりしてるのだが


南海道の川はどこもこんな感じの色が多く熊野古道博物館で有機質が少なくドッタラコッタラと書いてあったが本当にそれだけなのだろうか海の青さとは全然違うので疑ってシマッタ
水清ければ魚は極端に少ない

2200年前に徐福が始皇帝の命で船で出発するがここ波田須に流れ着き永住する。
秦の時代の半両銭も沢山見つかっていると書いてある。
南海トラフ地震は100~200年毎に起きるらしいが2200年も前の物が出土するのは地形がどっち向いてるかで津波の被害が違うのだろうか

崖の上にある徐福茶屋

熊野古道博物館 熊野古道ほんの少し歩いたが楽な道なら修行にはならんわい
俺は修験者ではないので熊野古道は数十メートルで断念引き返す瀬棚の太田神社の比ではない

なるべく人に逢わん様にして歩き主に自炊したが昔はよくあった定食屋に入って今回一番の贅沢メシ
愛知県は色々思う処があって鳥羽からフェリーで伊良湖に渡り浜松に行ってS社の博物館を見学予定だったがコロナで予約がドッタラで人数がコッタラで空いてる時は結局は無いとの事だった。
だったらネットに出すなと思ったがネエチャンに言ってもどうもならんのですぐ傍のヤマハ博物館に変更
コロナ対策で携帯番号だけを教えて中に入る。

ヤマハは先進的な事に関しては進んでいて臆さないボートやスノーモービルやジェットスキーとH社もS社も二輪車以外はヤマハの後を追いおこぼれを貰っていると言っていい
たった一人でもミニホッパーを使い無料のヨット教室をやって海への道を開いた。
30年ほど前にはヤマハ以外にボートメーカーは無いと思っていた人が大半だったのだ。


昔乗っていたシフト機構が独特な YDS1 煙がやたら出た。


ヤマハが最初に作った除雪機 1978年 YT665 7F7
原型は栗山で作っていたヤナセスノースワローに近いが振動防止や自動調心ベアリングなど渾身の力作だったが
故障の連続で寒い中で泣かされた。
だがヤマハはクレーム処理に関しては3社ある内でも一番対応が良く この7F7は数時間でフリクションデスクが摩耗して動かなくなる代物だったが対策部品が出来るまでデスクを段ボール箱でどさっと送って来て一枚替える事に僅かではあるが工賃が支払われた。
一度掛かると途中で諦める事の無いメーカーと言っていい


1965年 それがトヨタ2000GTを生んだ。
ヤマハが作ったエンジンと言っていいトヨタ2000GT当時これは衝撃だった
それまでロータスツインカムがドッタラでアルファロメオがコッタラ言っていたのを一気にひっくり返した今でも世界に誇る不動の名作
ヤマハにはこれからも頑張ってやっていって欲しいと強く願う。
ライバルがいない業界は政治と同じでロクな事にならん

うだうだと

紀伊半島の道の駅は駐車場は東北や北海道のチョットした商店の駐車場程度しかない処が多く ここで車中泊は迷惑だろうなと思う処が多く泊まる処をアチコチ探した。
俺の車はFFヒーターが付いていて一晩で2リッター程度の灯油を消費する、北海道は雪が吸収するのかあまり音は気にしていなかったが
FFヒーターは早い話がジェットエンジンと大した変わらん構造で点火してしばらくはアフターバーナー状態でジェット機が離陸する時の音になり
車外に出てるマフラーの騒音は結構なものでトラックが泊まっている処か道端でなければ車中泊は出来ない。

名阪国道と国道369号線が交差する ‎奈良市針町 にある道の駅 針テラス
左端が俺の軽トラ 止める場所もトラック並みに煩いのでトラックから離さんといかん
半グレみたいに斜め駐車になってるがここに小さなマスが斜めにあるのだょ!

ここは大きく様々な店や飲食店があり北海道の郊外型ショッピングセンターに近い
日本の大型トラックは可哀想だといつも思う。荷物の都合で何処に行くかわからんし帰りも空で走らせて貰えるほど甘くはなく帰りの都合で自分の住んでる町を通り越すなど普通にあるだろう。
そんな時に着の身着のままで寝ると疲れが取れない
だがベットの上に最低でも1メータ以上のクリアランスがないと着替えは出来ないうえに寝返りも満足に出来ないスペースしかない
さらに暖房はジーゼルノックが打つエンジンを始動した状態でしか出来ない
なぜせめて冷蔵庫とFFヒーターを付けてやらないのか
鮮魚トラックに乗った経験から日本のトラックメーカーや運送会社はいつまでこんな事を続けるのかと思う。
せめて出来る事は先に行かせてやり余裕が出来た時間に仮眠させてやる事しかない
JRがもう少し賢ければ鉄道路線を残して日をまたぐ荷物は鉄道コンテナで運び駅を中心にした日帰り路線を小型トラックで運ぶ事を考えていたなら
運転手の負担はかなり減らす事が出来る。
ここ増毛には宅急便は70キロ先の深川から集配に来るが留萌のホームセンター駐車場で荷物の積み替えを手作業でやっているがハブの深川で鉄道に乗せて増毛まで運んであとは地元の軽トラが集配したらいいと思う。
昔のチッキの大型版になると思うのだが
コストカッターJR北海道の社長は人相が貧相だから無理か!
と人相で差別する。


道の駅 トイレ
わざわざ書いてあると言う事は相当あるんだろうなと思う。
銭があっても地位があってもさらに上を見て進む
それは自分の立ち位置を守る為や失った時の恐怖心など差別する側の弱さから来て差別が完全になくなる事はないだろうと思う。
対策は圧倒的な心の強さと立ち位置が必要で世界で一番の金持ちか何も失う物のない徹底した貧乏人かで どっちにせ差別は半端モノのやる事だと思うが
俺自身も男女差別から始め何かと俺とは違うと差を探そうとし
それに気づく事がありまだまだ心の弱さと修行が足りないと思う。
その強さを持ってる人は二人しか知らないが二人も知ってるだけでもまだ恵まれているか~

びっくり 原木栽培シイタケが1パック200円から250円
つくし1パック250円 ふきのとう1パック250円 え~え~
ここは都会ではない宇陀の山中 北海道は改めて恵まれている。

伊勢路旧街道宇陀宿場 右側の壁の下に

ここにも画像左下にある半丸斜めに簀の子がある犬返しと言うらしい
これがあちこちにある何の為にここに色々と不思議
先に進む

南海道十津川村

身体を張った揉め事は負けた時の恐怖心は実体の何倍にも想像を膨らませる。
それをいい風に指導者が利用し身内に銃を向けさせたのがカンボジア、ポル・ポトで現代のミャンマー国軍であり北朝鮮や習近平とプーチンといい
そったら狂った指導者のもんは出来るだけ買わん様にする為に
値札の生産国をしっかり確認せんといかん 商人(あきんど)的にはおよそ2割以上売上が落ちたら
その国の物をわざわざ輸入してまで商売するメリットはない


道の脇に余裕があるとドラム缶がアチコチに置いてある。

丸太株これもアチコチに置いてあるが
理由は後で知る事になる。

水タンクと岩陰の丸太株のセット

今迄考えた事も無かったが電気は上には簡単に上がるが水は上に上げる事は難しい為に水道は無く澤水をタンクに貯めて山の上の民家が使っている。

商店前の軽がやっと通れる狭い道を鉄の柱を使い道を拡幅してる。
その下にも人家らしきものが建っている。

紀伊半島の川は独特のエメラルドグリーンの色がしていて北海道やその他の地方では見る事は珍しい色をしてるが魚の影は見る事は無かった。
水清ければ魚棲まずは本当の話でいてもヤマメかイワナだと思うが
皆食ってしまったのか紀伊半島の山に野生動物は全く見なかった。
動物性蛋白質はどうしてるのか

この古い橋がアチコチに掛かってるが橋が無い時代はどうしてたのか
そう思う時に橋も無く川を越える事が出来ずに雨竜町に出ずに暑寒岳を越え増毛に来たと言う国領の話を思い出す。

宇陀市から吉野町を通り下北山村から十津川村に向かう。

安い輸入材で林業はまったくダメと言うのにどういう経済構造なのか結構立派な家が多い

十津川村は江戸時代に作物は取れない為に年貢が免除されていたが
武士と同格の郷士と言われ幕末期には京都にわざわざ駆け付けて揉めている。
古い家の表札には武士と書いてあるらしく現在でもこの山々で鍛えた足腰もあってか剣道はやたら強いと道端で作業してた若い衆が言っていた。
もう十津川村民は日本の山岳民族と言っていいと思う。

南海道紀伊国石を積む


伊賀上野城壁の石を積む

川の中の石の上に家を建てる。

畑に石を積む

南海道紀伊国
ここで暮らすには気の遠くなる様な石を積む事から始まる。
ここでは田畑の土が流されない様に石を積むのです。
ここでは子供が一人増えたら住む処を作る為に食べさせる為に石を積むのです。
と加賀美幸子のナレーションが聞こえる気がした。

川の中に鉄の杭を打ち川にはみ出し家を建るなど普通に見られるが
軽がやっと通れる道に他所者がノンビリ車を止めて写真など撮る事など許される事ではない
ましてやギリギリの生活を画像で切り取る事も躊躇してしまうのだ。

今迄コロナで職を失って住む家も失ってホームレスになってもなぜ生まれた処に帰らないのか
帰ればふる里が温かく迎えて呉れるだろうくらいに思っていた。
南海道紀伊国には次男坊や三男坊がその土地に残る事など許されなく一ミリの隙間もない事が容易に想像出来た。
各地を転々として歩いた、お気楽な俺は行った先々でここに定住するにはどうやって生計を立てるかを常に考えるが
修理工か畑作なのか狩猟なのか、
ここ南海道紀伊国には何も思い浮かばないのである。
義務教育が終われば行った先の土になれともう戻る事すら拒んで様に見えるのだ。
吉野では大雨でいつ流されるかわからん川の上で捨てるしかない様な丸太の皮の次にわずかに残る厚さ2~3センチ程度の半丸の端材を集めて小さな機械で割り箸を作っていた。
割って割って割り捨てる事で誰かがやっと生きて行けるのだと
北海道はいかに恵まれているかを思い知った南海道紀伊国

辛子大根うどん

16日琵琶湖

これが最後の内地車中泊旅なるだろうと思う瀬戸内島々巡りは諦めよう
と紀伊半島南下旅を選んだが
いまだに自分の人生をどう終わればいいかが分からない
まだまだ儲ける事は大好きだしやりたい事は沢山ある。
儲ける事は大好きだがそれはただ単に数字でしかないだから貯蓄の二文字はない生れ付いての気性と遺伝子なのだと思う。
その年に食うだけ稼ぎその年暮らしが希望で楽しく終わりたいだが方法がわからん
そのヒントは奥地の田舎暮らしにあるような気がしてたのだが!

琵琶湖に象が居た時代があった。

16日10時リニューアルした琵琶湖博物館見物を予約していたので熱検知を通り入館する。
今回は各地の博物館は予約制が多くなり見れない処も何ヵ所かあった。
淡水魚飼育が趣味なのでここはこれで3度目になる。

この人はニューアル前からここに立っていた。
足元には堅田のシジミがびっしり敷かさっている その大きさは現在の物より遥かに大きく天塩川の物や網走湖でも大きいシジミの分類に入る。
シジミと言えば落語にもある病気の姉を持つ子供のシジミ売りだが江戸時代で一升桝で十文くらいで現代の価格で160円ほどだったらしい
現代の価格に比べて安いジャンと思うが当時は誰でもシジミは簡単に採れたらしい
この肩に棒を担いで野菜から一心太助の魚などなんでも売って歩く棒手振りには幕府からの鑑札を買わなくてはならずそれを仕切る元締めがいた。
ざっと考えるには棒手振りが読み書き算盤が達者とは思えない それでも商いを続けるには計算をする事の無いように兎に角仕入れた金額の倍で売る事が基本だったろうと思う。
その手法は昭和の戦後まで棒手振りは存在してやはり倍で売る事が多かったらしく
売値が10文なら仕入れは5文になるが一日売って歩き全部売れるとは限らんし 少し知恵がある子は後半は値引きなど行っていったろうと思う。
しかしシジミを収穫する側は直接売ったら倍の値段で売る事が出来るのにしなかった。
そこにはシジミ採りにはシジミ採りの矜持と定め掟があったと思われる。


水辺の掟

その時代時代で定と掟があった。
それは地政学的な位置は変える事は出来ない集落の生活を守る為にあり
年貢は現代の様に個人に課せられる事はなく村事に課せられる為に病気で稼ぎがない村民や田畑の不出来などから村民が村民を守る事にも繋がっていった。
現代の移住田舎暮らしをする為には過去を充分に知る必要がある。
書き物を読んでいて水生植物園を見る時間が無くなってしまった。

俺は日本列島は縄文だったが大陸から渡来人によって東西に分かれ
その一番最初は現在の対馬海流潮流れが巻き込む若狭湾周辺から始まり山々のなだらかな部分を伝い歩きし南下をしていったと思っている。
思込みかも知れんがこのラインの女の人は顔が弥生顔が多い特に岐阜県南部や滋賀県は多い様な気がしてる。

17日はよいよ奈良県に入るが今迄の考え方が間違えてるかも知れんと思い始める。

16日朝集福寺

16日夜明けと共に敦賀釣公園を近江八幡に向けて出発


福井県と言えば原発と言う位あるのでこれも原発かと思ってしまったが石炭火力だった。
石炭を運ぶベルトコンベヤーが凄く大きく3隻の石炭船の中にハングル船名の船が1隻港側にあるデリックブームを使い石炭を荷揚げしていたが全部終わるのはいつの話と思ったら帰りもまだ荷揚げ作業をしていた。

俺の大恩人でもあり足元どころか足の爪の先にも及ばん森本正義さんは
常に商人は政治の世界には近づくなと言っていた。
この毎日韓国がドッタラコッタラ言ってる時にハングル船名の石炭運搬船が入港しているが
なんだこの政治のマッチポンプはいまや政治は何を目指してるのか信じるに値はするのかと思う。
相手が誰であろうが無駄を省き利益と将来を見越して商いをするのが商人(あきんど)。

明治に出来た北陸本線沿いに看板めっけ
何か線路の向こうが明治から分断され凍結保存がされて居そうで気になるので戻ってガード下をくぐる。

出ました内地の雪国特有の二重屋根に土壁
土壁は北海道でもペーパンなどに行けば見られるがこの二重屋根は内地の雪国特有の物だと思う。

さらに進むとこの藁葺屋根に瓦風トタンだと思うが屋根を載せた構造の家々があちこちに沢山ある。
北海道の屋根は単純に雪が良く落ちる事がメインで屋根に対して特別な思い入れはないと思うが
内地の奥地にゆくと屋根に何か特別の思い入れがある様に感じる。
この丸に違い鷹の羽は全国アチコチにあるがここは集福寺で北近江になる。
北近江と言えば浅井長政で浅井家の家紋もこの丸に違い鷹の羽
お~お~浅井家の子孫だろうかこれが北海道には無い内地旅の醍醐味なのだ。
住民の話を聴きたくしばらく付近を不審者風にウロウロしていたが朝早く人を見掛ける事がなかったので断念し先に進む

他所から来て言うのもなんだが折角集福寺があって北近江にこの建物 景観もヘッタくりもない
だいたい都会のコンサル会社が自治体の酋長に
「 旦那~こんな現代風の箱物どないでっしゃろう~おおきに~ 」
と揉み手で提案するのだろうと思うが
未来は過去の延長線上にありバイクも自転車も急激にハンドルを切ると倒れ車道側に倒れると車に引かれ即ナンマンダブ~になる。

丸子船発見

北前船から小浜に降ろしたコンブやシメカスや棒タラなどの荷物はこの丸子船を使い琵琶湖を横断し京や大阪に運ばれ
北海道では今や相当古い場末のキャバレーに行っても棒ダラを食う習慣は無くなったが京の棒ダラ料理は残った。

前回沖島に行った時に地元の古老に聞いた処によると途中で荷物を横取りしたのが堅田の湖族らしい。
内地はこの山の常を越えると隣村をクソ味噌に言う傾向がありその辺りは北海道とは違う北海道は歴史が無いぶん領土意識はない
ま~よそ者にとってはそれも面白く
「 わたしの耳はロバさんょ~人の不幸は蜜の味 」状態なのである。
腰の曲がった爺ちゃんや婆ちゃんが言う分には大した事はないが現代の顔を見た事もない弱い相手に言うのは気狂いにスマホ状態なのだと思う。

俺は毎日顔を見た事もない相手とメールのやり取りをしてると顔が見えないぶん過剰に反応してしまうが
揉め事は直接電話で話をする様にしているが意外といい奴が多く
チマチマとセコイ奴はたまに居るが本当に此奴は悪い奴と思う相手には遭った覚えがない。

15日敦賀港

すずらん17000トン 速度27.5ノットの昼食 いい加減に食った後の鯛とうどん
注文はタブレットだと思うがこの画面で注文がある度に背後で
ペロン~ペロン~と地震注意のチャイムがなる。
気が小さいのでいったん気にし出すとメチャクチャ気になる。
なんか他にメシにあう音があるべや~箸をブン投げてカウンターの下に潜りたくなるべ~とデリカシーに欠けるなと食堂のネエチャンに申し付ける。

万華鏡状態になってる船内で自画像を撮る。
この船に乗る時に検温をしたと言う事は帰りにもし熱が出た場合は
飛行機はダメだろうし新幹線も危ない北海道に戻るすべがない
方法は車は諦めて密航か大間から漁船でもかっぱらって戻るか
海を越えると言う事はそういう事なのだ。
こいつは少々ヤバイ事になるかも知れんと思い始めた。
もし免許点数が残っていない場合は捕まりそうになったら どっちにせ免許が無くなるなら一応逃げる努力が頭に浮かぶと思うが
その無法状態で逃げて二次災害を起こす事はよくある事なのだ。
これからは海を越えて日本に働きに来る子達には手厚い保障と保護がないと少々危ない事になるのではないかと思った。


窓の外が大きなターンテーブルになってるがこれでトレーラーを旋回させるのだろうか

敦賀に15日20:30分に着 すぐそばにある釣り公園で一泊するが
その前に市内巡回に出掛ける。

コロナなのでオープンテラスでラーメンを食う。
ツナギの作業服ととても愛想のいい顔とは言えないが
こういう場所ではいつもなぜか話掛けられる。 今回はマスクもせん酔っ払いの訳あり風のニイチャンがわざわざ近寄って来て地元か何処から来たとかと色々と話掛けられて散々聞かれた。
普段ならどって事はないがこのご時世なのと海を越えて来てるので
適当に話を返し北海道に来る事があったら寄ってくれと話を打ち切った。
思えば愛知県に居た時はあちこちに散々世話になって育てて貰ったが福井県とここまで近くに来ても不義理粗相の連続と半世紀近くも前で
代替わりもしているだろうし看板も変わってるかもしれんと顔を出せる処は無いし恩返しも恩送りもしていない
せめて旅先で出逢った人にはこれも何かの縁だろうと思うので北海道に来たら寄ってくれと言い続けている。
この後は愛知県に居た時の本当にすまない事をしてしまった夢をリアルに戻るまで見続ける事になってシマッタ

14日出航

この怪しげな顔は俺だが熱測定カメラを通り越さないと乗船切符は買う事は出来ない
無事通り越し苫小牧東から敦賀に向けて出発なのだが
敦賀からのフェリーが苫東に着岸したのが14日20:30分
それからすぐ乗用車やトレーラー車両を降ろし 今度は積込みが始まり終了と同時に出航したのが23:50分
乗用車は20台ほどであとはトレーラー箱が150台ほどと大型車が数台

トレーラー箱に荷物は全部入ってるのかと出港して安定航路に入った時点でフロントに聞きに行った。
答えはこの季節に意外な事に苫東から出る箱には殆どが荷物は入っていて
敦賀からは船の甲板が空いた時に空の箱を運んで来る事が多いとの事だった。
新日本海フェリーは小樽は土日は出航するフェリーは無いが苫東は毎日出航している。
これは道東方面が荷物が多い事なのだと思うし北海道はこのフェリーだけを言えば内地に向けて輸出の方が多い事になる。
積荷が農産物や水産物だとすると何がなんでも北海道ブランドは守る必要があり
それは寿都や神恵内などの一町村の問題ではない

入れ替えに3時間ほど掛かっているが
船内甲板でどんな作業をしているかわからないがおよそ150台を降ろし150台を積む作業を180分×60秒 一台あたり36秒で出し入れをする事になる。
若かりし頃は数センチ刻みでトレーラーを動かした俺でもトレーラーはバックも難しいが前に進む事は内輪差が大きくバックよりかなり難しいのだ。
苫東の枯れすすき原の何もない誰も見ていない深夜に何処からか集まって来るトレーラーヘッドの運転手さんと甲板作業員の作業を待機ヤードで見ていてその早業に感動すら覚える。
感動して見ていて船が動き初めて
これはかなりヤバイ事だと気付いたがすでに出航している・・・・・次回に

経済が~〇~

浜に春らしい季節がやって来て久しぶりに桁船船団が出漁して戻って来た。

ナメタとソウハチを大量に貰った。
木箱には三寸と三寸五分がありこの辺りは三寸五分が多く
カレイは箱の中に綺麗に納まる為に三寸五分にこれだけあると20キロ以上あり一人では食い切れない
ご近所様に分けるのだが一隻だけが大当たりはあまりなく均等にあがる為にここの町は魚が余り
喜んで貰ってもらうには中々難しい
その為に近隣市町まで配りにいくが結果は秋に野菜だの米だのと大きくなって戻って来る。
お返しに返すものは手に職がある者は手間仕事でとこれが田舎暮らしの面白さでもある。

申告が終わったので五畿七道山越えの旅に出ようと思う。
昨年の売上高は過去最低の散々な結果に終わったが売上嵩(カサ)と利益やキャッシュフローは連動はしていない
その為に忙しかった割に決算は良くないと言う事は往々にしてよくある事なのだ。
世界で何番目と言うほど頭が良ければ別だが自由競争社会で売上を上げる為には利益は下げる必要があり その為に売上と利益は連動はしていない
さらに売上が少ないと小さな店は小さいなりと一時的な資金の逆起現象が起きて来る。
これが実体経済とはまったく違う金融経済の株価上昇を招くが
それは本来の商売のあり方ではなくただの虚業でしかない
国内の企業には460兆円と言う内部留保がありながら
今迄企業を支え育てた従業員が社員であろうが非正規雇用であろうがこれだけ追い込まれても助ける事すら出来ない
それは儲けた金を投資という博打につぎ込んで資産としてはあるが使う事が出来ない紙に替えたからなのだ。
今でこそ株券は電子化されてるがペーパーマネーは本当に困った時には紙は食べる事は出来ない
それは船で漂流した時に精々染み出て来る隙間に詰め込む程度の物なのだ。

漁業であれ農業であれ商業であれ工業であれ業とは生業であり生を保つ為に業があるのだと思う。
売上が落ちた時にこそ次に備え資金を今まで以上に有効利用する事が大事になってゆく
それはシケが続いた漁師の様に
漁船員の生活確保の為に出戻り三分と言って出港出来なくてもディーゼルエンジンを始動させるだけの為に船に集合して給料の基本給を払い生活の保障をする仕組みがあり
ほんとに小さな集合体のド田舎でさえも生き活をする為の仕組みが出来ている。

いまメデアがマスゴミだとかこれ程叩かれるのかと言うと
経済をなんとかせんとイカンと言う顔ばかり画面に出し
センセーショナルばかり狙い実体経済や庶民感覚をまったくわかっていないのだと思うしその責任は大きい
あと数年もすると普通にテレビを見る様にユーチューブ画面を見る時代が来るだろう。
その時に生き残る事が出来るメデアは切ったらチ~が出る様なまた見たいと思う無垢の番組を作った者しか生き残る事は出来ないだろうと思う。
たった今起きてる事もすぐ過去になって今起きてる事を記憶や画像に残し次に繋げてゆく事が出来る業界だけが生き残っていけると思うのだが

経済を回さんとイカン~経済が~
いま都会は経済と田舎は業とまったく違う処を歩んでいる。

今回はあれっと思う運転をする様になったので内地車中泊旅も今回が最後になるだろうと思うので五畿七道は北陸道から南海道を横断してみようと思う。

自助・共助・公助

戦争は政治の最大の失敗であり政治家の犯罪でもある。
下々もすべての犯罪には時効はないと覚悟する事が必要なのだ。
中々出来ないがどこかで埋め合わせをする事と二度と同じ事はしないと誓い続ける事が必要なのだと思う。

震災から10年たったとニュースで流れるが当時は個人としてはやれるだけの事はやり切ったとの思いがあるが
逆に商人として学んだ事もある。
最初は自衛隊の車両が優先で一般車両がフェリーで東北に行ける様になって暫く立ってから物資運搬に行ったが何処も道が瓦礫をただ脇に避けた状態でパンクするから路肩には寄るなと言われた。
そんな中で小さなプレハブでローソンが営業をしていて灯りを求めて人が集まっていた。
商いとは通りに灯りを点け続ける事なのだと知った。


寒さ凌ぎになればと思ったが服は葬儀用の服が必要と言われ防寒着などはすでにあると言われた。
震災からたった数日で大型トラックが来て着る物や食料は貰ったとアチコチから聞いた。
そのトラックで駆け付けた人達は阪神大震災を経験したナンチャラ組や全国の関係者達で
親分の命令には四の五の言えない統率力が素早い行動になった。
その行動は自分への何処かで世間様への穴埋めにと頑張った者や免罪符になった者も居ただろうし
自分の人生で他人様に喜んで貰える喜びを知った者も違う道への切っ掛けになった者もいたろう。
真っ当なシノギの世界に移った者も多く居たろう。

2011年秋、震災の年に暴対法5年しばりが出来た。
これは人として生きる事を拒否されたと言っていい地方条例で組を離脱しても5年間は口座を持つ事も家を借りる事も出来ない
いまや仕事に欠かせない携帯を持つ事も出来ない
宅急便を受け取る事すら出来ない
これでは菅内閣総理大臣様の言う
「自助・共助・公助」で立ち直りをせと言うのは出来る訳がなく
公助が一番最後に来るならなんの為に国にミジカメ料を払って
なんの為に乞食官僚を囲ってるのだと思わさるのだ。

これなら以前の仲間に共助を求めるのは当然の事で
震災の年に出来た5年縛りは人生で初めて折角芽生えた他人様に喜んで貰うと言う喜びの芽を摘んだのは確かなのだ。