カッパの三太郎

佐川の配達人が荷物を投げた。

小学生の頃から始まった。
今の留萌中学の処に当時は留萌高校があった 当時は留萌高校しかなかった、その高校の右から山に入り今の緑ケ丘小学校と今の千望高校の間にあった山道を通り南町が見える丘まで真っ暗な山道を歩いた。
山道を越えると丘の下に南町が突然に現れる南町は人造石油の官舎だった所で裕福な人が多く電気が灯っていた。
歩きは毎日開運町から始まり配達は五十嵐町から千鳥町、南町と配達した。
給料が入った日は配達所の二軒隣にあったヤミ米屋から米を買って帰り母親の顔を見るのが楽しみだった。
俺はある日、下に明かりが灯る南町に向かって小脇に抱えた新聞の束を丘からバラ撒いた。
 
翌日 当時若く19歳位だった布施のオヤジは何も言わずに新聞を拾い集めて一緒に謝りながら新聞を配ってくれた、
その事は布施のオヤジから生涯一言もいわれる事は無かった。

冬の山超えは厳しくもあったが春はその埋め合わせをするかのように青い芽が芽吹き山には青笹が雪庇の下に見え始める。
もうそろそろ川の向うにある大二の山に冬焚く木を切りに行かなければないという時に新天地に向かって留萌駅から汽車に乗った。
街の電柱のスピーカーから裕次郎の赤いハンカチが流れていた。
 

ここにたまに交代で来る佐川のニイチャンが擦り切れ穴が開いたボロボロった靴を履いて来る。
「 お前宅急便は靴は基本だべ靴買え 」と言った。
「 嫁が子供生まれるんで、、、、、 」
聞かんばよかったと思ったが後の祭り
ナイキのナンチャラいう靴を箱にリボンを付けてやってシマッタ
腰からジャラジャラった鎖を付けた財布を持ち頭に皿を乗せたらカッパの三太郎風のニイチャンは一度だけ履いた。

吹雪だろうが大雨だろうが集荷にここから70キロ先の深川から来て、ここからまだ20キロ先の雄冬まで配達があるのに時間指定など出来る道理はない 
佐川は毎回毎回下車する度に前輪に車の輪留めをする、それを狭い車がすれ違う一般道で流れに背中を向けてする事がどれほど危険な事か考えなくともわかる。
やい! 重箱の隅をつつく会社や取締り官庁の上司と中枢でマネジメントしてる若造 自分で輪ッパを握って車転がしてみろ
サイドブレーキはなんの為にある日本では5パーセント勾配で止まれない車など走ってはいない
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門前仲町で登別を捨てたと言う女将の居酒屋で酔っぱらって歩いて帰る時に お寺だか神社に佐川が寄贈した神輿を見っけた大層な高い物らしい
受ける方も出す方もいまや宅急便なしで成り立つ会社など日本には一社も無い

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