takakenさんへ

どこに行ってもナップサックに入れてこれだけは持っていました。
ろくに行かない卒業式も行ってないのに居場所まで届けてくれた卒業アルバム
地図はこれさえあればいつか歩いてでも北海道に帰れると思っていました。
「 道をひらく 」よく行った古本屋南陽堂から新刊で
荒れていた時期で俺が選ぶわけはないので
きっとひどい顔をしていたのだと思うのです。
悩んだ時は見てます。
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最初の決断は留萌から名古屋に行った事で
その時は有楽トンネル界隈で喧嘩ばかりしていてもしょうないし
家族の誰かが抜けなくてはと思った事で
そんな大した決断ではありません
ただ着いた先が運のいい事に伊勢湾台風の渦潮の中心になり犠牲者が一番沢山出た海抜0メートル地帯の元塩町で部屋代が安い為でした。
隣の小さな公園に沢山の靴が渦潮で集まったそうで靴塚が建っていました。
学校はNHKの中学生日記のモデルになった学校で登場者も実際の南光中学の先生と生徒でした。
時は伊勢湾台風の4年後で皆は食うのが忙しく義務教育なのに学校に行かない事なども普通でした。
そんな中での暮らしでしたがあまり悲惨さは記憶にありません
米通帳を持って転々と区を替えても南光中学の在籍を許され
中学だったけど校内に鉄工所並みの設備があり旋盤やヤスリ掛けを教えられました。
先生にも近場の人達にも多くの事を学びました。
東日本大震災の復興が遅いとテレビに出て言う人を見ると違和感を感じるのはこの地域に住んだからかもしれません。

次は仕事でしたが目が異常に良かった為に検査工になれと言われましたが
子供の頃から修理屋になりたかったので
途中で何度か転職も挫折もしましたが絶えず修理屋になりいつか家族全員を集めるとう言う目標があり
さほどの大決心もありません
TAKAKENさんに言われて考えて見るとノラリクラリのその時その時の人生だった思います。
ただ言える事は自分自身は信じてはいません
常にタガをはめていなくてはいけない為に決め事は決めています。
どんなに失敗しても立ち直るO型の図々しさと大変臆病で慎重な
そんな俺がいまこうして居られるのは助けて呉れた多くの人達と
生涯の友と恩人に出会えた事と
26歳くらいまでの経験の遺産で生きて行ってるようなもんだと常々思っています。
後はその時その時の一番いいと思う小さな修正を絶えずして来た事くらいで
一つの事を36年間もやり続けたTAKAKENさんが決断するのは
ゆくも下がるもどっちにせ重みがあると思うのです。

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