頭を右に振ると白い物が見える 元々左目の角膜は駄目なので その日によっては全く見えない日もあり定期的に眼医者に行くのをサボっていたので木曜日に滝川の眼医者に行って来ました。
昨年の恐山のすぐそばを通ったのでア~霊でも背負って来たかと思ったけど
先生はやおらゲゲゲの鬼太郎の様な輪切りを持ち出し、これがアンデ何がどうしてアッタラコッタラと説明するにはたまに自分の目ん玉の中が見える事が有るとの事だった。
それで趣味は少し休んで夜NHKを見ていたら子供6人に一人がメシを食っていないらしい
中の一人の話はあれ~これは昔あったなと懐かしく思い出した。
昭和35年頃と思うが東光小学校の前の西田雑品屋の隣に小さなパン屋があった。
そこでピーナツバターかなんかを挟んだパンをガキ達が並んで買っていた。
どんな味がするのか食ってみたいと思ったが貧乏のどん底の我が家にはガキ達誰が食っていようが
食う事などはどんな事しても出来る訳が無かった。
ランドセルも持ていない俺は30年代当時 空から飛行機がバラ撒いて降ってくるビラを沢山拾って それに穴開けて紐で綴じて作ったノートと貰った教科書を風呂敷に包んでたまに学校に通った。
飛行機の爆音が聞こえる日は学校に行く為の教材集めの日で学校など行ってられるかと言う大事な日だった。
や~走った走った。
当時は両面印刷などはなく
もしかして俺の為に片面は残してくれたのではないかと今でも思っている。
留萌川の河川敷に勝手に作った畑に ジャガイモの芽を残すようにして四つに切った種イモを灰汁と一緒に植えて
収穫時期が来たら10円玉くらいの小さなイモはタライに入れて洗濯板でゴシゴシと回し皮を剥いて食って
大きなイモは来年の為に取って置いて
何か旗日が来る前は川を越えて線路に行って熊笹を取って川で洗って
留萌駅前の沢山あったお菓子屋に売りに行った。
いまのトヨタがある所が国道で冬は加工場に魚を運ぶ馬ソリから揺れる度に、こぼれる魚を拾い家に持ち帰らなければならなかった。
沢山拾った日は忙しくてチマチマとお絵描きに学校など行ってられるかと言う日々だったが
おかげで兄弟の中でも一番身体がデカくなった。
今どきは道路には魚は落ちていないだろうし線路の笹を買ってくれる人もいないだろうが
どんなに腹が減っても希望をだけは無くさないで欲しい
先に希望を持ってさえいればどんな貧乏にも耐えられると思っている。
その頃の俺の夢と希望は米びつ一杯のコメと味噌がいつもある家を夢見ていた。
道路に魚も落ちていないし空からノートも降って来ない時代なら学校給食くらいタダで食わせ
それをする金が無いならそこら中が公園のような北海道は公園は潰せ
住民はガキじゃない側溝の蓋が外れたくらいで役所を呼ぶな
堤防にヒビが入ったくらいで役所呼ぶな どうせ直さないのだから
地主がエラそうに空き地で遊ぶなとわざわざ書くなバカ野郎
元戦闘機乗りだったかもしれない飛行機乗りは
購買力ゼロの俺たち貧乏人しか住まん原野二線にビラをわざわざ巻いてくれたのかもしれない
馬喰朗のオヤジはわざわざ馬ソリを轍に入れ魚を振り落としてくれたのかもしれない
どんな困った時でも希望だけは失わないで欲しいと
希望さえ持ってればなんとかなると頑張れと俺が言っている。
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