昨日はマリーナーの使用者説明会があって毎年恒例の説明会で皆の顔を見ると春が来たと言う感じになる。
一日一日が身体に刻み込むような日々で今年の冬ほど厳しい冬はなかった
説明会が終わってから数人で鹿を焼いて食っていたら 中歌崖の上に住む大工の春さんが植えたというアイヌネギを持って来てくれた。この人は信砂我路(のぶしゃがろう)の出で この人のなんとはなしに出る話はいつ聞いても感動すると言うか凄い
思うに大工の職人さんは一人の建て主さんと完成まで数か月、その後も永い付き合いをしてきた結果で
まさしく仕事がその人を作るといった事ではないのかと思うのだが
まるで松山善三の「小説厚田村」版、春さんの「小説増毛村」である。
信砂御料は今の稲田線で豪雪地帯だが、我路から上の御料は水が無く空も狭い為に日照時間が短く食うや食わずの大変な苦労をして生きて来た人が多く 平均して背丈は5尺足らずでも皆が指が物凄く太く、その苦労を物語っている。
春さんも御料地の人達も冬は造材山に夏は農作業の合間に十数キロもある浜まで歩いて降りて浜仕事の出面に出てと つい30年から40年前の話なのだが。
いつも人の話を聞くときに「そうだべ~そうだべ~うんだべ~」と相槌が癖の大工の春さんは今は冬の暇な時は椅子やテーブルを作り絵を描いたりといつも黙ってると言う事のない
春さんの話は一篇の増毛抒情詩を聞くように美しく感動し時には涙が出る。
その話の中は全くの無名の人達がほとんどだが、このガンタは玉田鍛冶屋のオヤジが作っていたとか
この籠は買う事が出来なかった人は自分で作ったが、どうやって編んで作り間に桜の皮を挟んでとやって見せる。
土をいじり手を荒らしてきた、五尺三寸の背に合わないその大きな手は春さんの人生そのもだと思う。
今回の話は稲田線チャチャの沢に我路や御料周辺の人々が働く冬の造材飯場があったが
そこに大きな雪崩で飯場が流され25人ほどの人達は亡くなったそうだ。悲劇はその飯場には夫婦で働いている人が多くいて 我路や御料には子供達だけが取り残され福祉など全く行き届かなかった時に残された子供達がどうやって生き延びたかを我路に生まれ住んだ春さんが語った。
春さんの家は代々、増毛郡内を流転した由緒正しい小作人だったが爺さまの代に我路に住んだ、そこに雪崩で取残された10歳前後の子供達4人が小作人のさらに小作地に御料から毎日通って来て二枚の田んぼに自分達が食う分だけのコメを作ったという。
小作人の小作人は借地料は田植えや稲刈りの手伝いをして身体で払い、
それでも下の弟達には10キロ近くも歩いた所にあった学校に通わせた。授業中は疲れてよく寝ていたが先生は起こす事はしなかったそうだ。
稲田線は眼下に海が見えてからまだ数キロも歩かなければ学校には着かない
何を見て何を思って学校に通ったのか
「苦あれば楽ありと言うが、親代わりの一番兄はあれは苦あれば苦ありだったな~」と春さんは語る。
その子供達を最後に見かけたのは今の暑寒歯科近辺の長屋でいまも生きていれば70歳位らしい
多くの子供達を残して無念にも逝った人達の慰霊碑は信砂稲田線の今のゴミ捨て場近くの道路の南側に慰霊碑があるらしいが、いまは縁者もいなくなり花を手向ける人はいないらしい。
はやく桜が咲いてやって欲しいと思うのである。