増毛に移り住んではや20年
毎日毎日、イケイケドンドンと過酷な競争に明け暮れてた頃に崖下村の3分の一ほどが売りに出たのだ。
こんな生活も長くは続かんといつかリタイヤしたら住んでもいいべと買って置いた。
内地ではバブル期が終わり告げていた頃だったが北海道ではまだまだバブルの余韻があって
北海道はどこもかしこも第三セクターのリゾート、リゾートと大騒ぎした頃。
皆は増毛のマリーナーが出来たからここに移って来たと思われてるが実はここに移って来た頃はマリーナーは影も形も無かった。
住民登録しそれから2年後に1市2町のマリーナー誘致合戦が始まってあれよあれよと言う間に崖下村に国と地方の合体公共マリーナーが出来て行政の手法をたっぷりと見せて貰った数年間だった。
選挙が終われば禊は済んだと言う国会議員先生のおっしゃる通り 内容にもよるが罪は償った時点で公共である限り誰であろうが税金を払ってる限りは公平に扱えと言うのが持論だった。
それまで自由勝手に使っていた海や港から、海は官の海なのだと玄関を作り当然のごとくのように
ある人達は選別され数十名の人達は選ばれる事はなく増毛の海から去っていった。
民間もエグイが行政も結構エグイと感じ身体を張って闘った数年だった。
数十年前 重量鉄骨が崩れる音を聞き駆け付けた時はすべてが終わっていた。
足元の鉄骨を見ながら数分の違いで立場が全く違っていたと感じて何がどう違うのか
悩んで悩んで選択したのは河岸を変える事だった、
下一色で世話になったある人達に後足で砂を掛けるようにして
別れの挨拶をして春の伊吹おろしが吹く寒い明け方にコンパーノベルリーナーのカーラジオで聞いた。
本当に行くのかと何かあったらここを頼れとTアボジ宛のメモを渡してくれた人達の顔を今でも この歌を聴くと思い出し今度は俺がメモを渡す番になったと。