新説 尾白利加字国領

色々な事がうっすらと記憶にあるからなのかも知れないがなぜこんなに国領に引かれるのかと思う。

信砂我路は我路橋をお上が付けて呉れるまで周辺の家々など何処にゆくにも川に降りて川に入り渡りゆく為に自然と出来た道があり
それを我が路と呼んで我路となったそうだ。
我路で生まれた俺よりは遥かに山に詳しい春さんと国領から増毛山越えコースを検討したが春さんが言うには国領から恵岱別ではなく竜西に流れる小さな川沿いを下り竜西小学校があった場所に出て そこから留萌市幌糠側に向かいすぐ左に曲がり山越えをすると御料小学校あった処、今の携帯電話電波塔の付近に出るのが一番可能性があるのではないかと言う。
そうなると恵岱別周辺に7戸から9戸居たと言う人達との交流は無かったのかも知れない
それか恵岱別周辺の人達は増毛に来るより竜西が近かったので竜西で交流が有ったのかも知れない

竜西小中学校跡

増毛町は明治10年9月6日に黒田清隆によって天塩国増毛郡に弁天町や野塚町など七町が町名を許可をされている。現在は増毛郡増毛町野塚町何丁目と町が二つ重なる。
それは昭和36年に町制になった雨竜町よりは大正10年から昭和初期頃は増毛は遥かに栄えていたいう事なのだと思う。
戸の代わりにムシロを下げた住いなど困窮した国領の民はただ単に距離や山越えの困難さより商いのより可能性のある方向へ向かって来たのだろうと思う。
およそ3日行程の増毛山越えは背に何を背負って来たのか 帰り荷は満足のゆく商いだったのか帰りは生きて帰ったのか その姿はアイスマンに重なる。

北竜橋には忘れられない特別な思いがあるが橋梁の上にハエが一匹止まっても何も起こらないだろう。
では1000匹なら500000匹ならハエの糞でそこから錆びたりと何かが起きて影響があると思う。
北海道開拓はハエの一匹程度の足跡から始まってるのか知れんが
そう思う時にこの北海道は先人達の途轍もない苦労をした上に現在があるのだとしみじみ思うのだ。

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