等価交換

早めの盆休み2日間が終わった。
お盆中は部品は入って来ないので故障してもどうしょうもないので気楽に過ごす
その間は懐かしい人達が来て只々気楽にクッチャベッテ過ごすのだがこれも商いのうちなのだ。

春に暑寒岳を元箸別パイロット牧場側から見るこの裏側が尾白利加字国領

何かしらの銭を稼ぐ人は勤め人も含めてほとんどが商売人(あきんど)と思って間違えない
商いは多少の大小はあっても等価交換が原則で
給料は自分の時間か技術を売る事によって貰えるが
器用な人は不器用な人より給料はよく 力持ちは力の無い人よりは給料は沢山貰う
その為に普段から勉強をしメシを沢山食って身体も頭も鍛えるそれは自分えの投資になる。
投資してやった仕事に見合った銭を等価交換で貰う事は商いと同じ事になる。
もし同じ仕事をしてそれに見合った銭が貰えないと言う事であればそれはもう商売人ではない
その会社は人を家畜犬畜生並み扱いの会社と言う事になる。

そこから自分の売った時間と野菜や魚と交換する。
その時に交換した物が自分の時間を売った価値と見合ってるかどうかが重要でこれが等価交換になっていない場合はボッタクリであり詐欺である。
1代目や2代目は凌いでも3代目でアウトになるのは世の常だが
自分になんの投資もせずにボロ儲けをした場合は早晩にブッ潰れるのが商人の道なのだ。
現在においては等価交換が大きく崩れて資本主義の限界を迎えつつある。

内地の奥地も結構見て来た気はするのだが国領に行ってその厳しさを見てから2日間の休みは北竜や雨竜界隈を徘徊していたが 
点と線がくっついたり離れたりとすっかり頭の中が混乱している。

1点は野菜も果物も豊富な増毛に魚と交換にわざわざ熊も出る 道も獣道しかなかった様な山越えをして増毛に出て来る事
実際に登った経験や航空写真から判断するにはどう考えても昭和初期にもっとも可能性のあったコースは国領から北に小さな川が航空写真で見える それを遡り6キロほどゆくと恵岱別川に取り付く事が出来るが地層からして200パーセント勾配に近い崖だと思われる。
崖の部分を抜いて薮道は時速2キロとしておよそ3時間は掛かるそこから恵岱別から道があった御料を下り舎熊浜まで18キロ早歩き時速6キロで3時間 休憩を挟んだら国領から片道1日は掛かる。
作物の豊富な増毛に空の狭い国領の作物と労力も含めた何を持って来たら
魚か米か知らんが等価交換が出来たのか
米ならば雨竜に下るのが早いと思うのだが当時の尾白利加川は夏場は人を寄せ付けなかったと言うが
不思議で仕方ないのである。

当時は尾白利加字国領と言うのが一般的な地名だった冬期間は熊猟や出稼ぎで凌いだらしいが
熊などは増毛にも沢山いて熊の胃や毛皮で満足のいく量の魚と交換が出来たのか疑問なのだ。
魚は当然持ち帰る重量からして干し魚と思われるが それとも米だったのだろうか
どちらにせ往復2日間掛かったと思われる労力プラス品物と米か魚わからんが等価交換が出来たとは思えないのだ。
わずか数十年前の事だが何か大切な現代人の忘れてしまった何かがなければ商いは成立しないと思うのだ。

お盆が終わったら常を超えた50分も掛からん雨竜の町に商いの原点を探しに行ってみようと思う。

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