北前船

久し振りに沖から歩古丹などを見た。
5月の海況は漁師でさえ予測が付かない事があるほど30分単位で目まぐるしく変わる。

20日の午前中の海況が嘘のように穏やかになって往復約2時間30分でゆく時にやや70~80リッターの燃料を使ったが帰りの北上は春の潮と風に乗り40リッター程度で戻る。
この日本海側の風と潮が北前船航路発展の大きな要因になった。


瀬棚

日本海側海岸を見るに付け北前船の通った後はペンペン草も生えない事がわかる。
関西商人などが瀬戸内海を回り境、新潟と北海道に入り北海道と交易をしたが
アイヌとの交易などほぼ搾取に近い交易でその後はニシンをカスと呼び綿花の肥料にする為に大阪や四国などに運んで来る時は古着や綿を積んで来たのが北前船の役目だったが 
それはとても対等な取引と呼べるものではなかった。
なぜかアイヌ語地名は多くあるがコタン集落は西海岸側には残っていない

その後は内地の大手漁業が出張って来て利益と才のある者も内地に持って行き残されたものはザップンピュ~の黄昏た廃番屋だけになった。
これが北海道内でもたった山一つ越えたら経済が全く違う元になった北前船のほぼ実態なのだ。
西日本から見る北前船と北海道から見る北前船の立つ位置により全然違う光と影になる。
政治家がよく読むのは明治維新など時代の指導的人物をよく書いていた司馬遼太郎が多いらしいが
のちに司馬遼太郎は方針転換を図り街道をゆくなどを現地の商人や庶民目線から執筆してるが少々遅く途中でアウトに

物の公平な対価かどうかはその時その時で変わるのは仕方のない事だが
内地資本が北海道に支配人を置き経営をして引揚げる時に人財までを連れ戻る人の移動は後々にまでザップンピュ~の黄昏た大きな原因なったのでないだろうか
北前船景気に躍らせられる事の無かった東海岸や内陸と現在の西海岸との格差はその土地にしがみつくしかない者や百姓などの知恵と辛抱粘り勝ちと言う事なのだろう。  


ここに残る者は宝だと、

まだ崖の下に残る歩古丹学校跡を久し振りに見てそんな事を思ってシマッタ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA