ラーメン屋今日もお休み

今日で毎朝見て来た朝の連続ドラマ べっぴんさんが終わる。
「飲んで 食って 歌へ」親がいいと子もいいのである大概は
戦後復興期の実在の人物をモデルしてきたのでそれなりに興味深かった。
留萌は今のヤクルトから食道園を繋ぐ道を境に西の金持ちの住む処と東の貧乏人の住む処に綺麗に分かれていた。
東は旧河川があり湿地と谷地になっていて条件が悪く半島出身者や貧乏人が多く住んで居た。
俺の生まれはギリギリの西側で旧東光小学校の正門前に少し大き目の家に住んで居た。
良い処の出らしい、いい振りコキのオヤジはいつも耐水グリスかと思うようなポマードを頭に塗ったくっていて胸ポケットには櫛が刺さっていた。
向かいにある東光小学校では一クラス40人から50人で教室は松竹梅から始まり果ては山菜まであり給食の脱脂粉乳も半端で無いほどあまりいつも余るのでまだ学校にも行ってもいない俺に貰って来るように言って俺はいつも寸胴鍋を抱えて貰いにいった。俺と寸胴鍋は由緒正しい長い長い歴史があるのだ。
オヤジはそれをすぐ傍の湿地帯にあった半島出身の部落にさもさも自分が貰って来たようにして配っていた。
その事はその後長い事半島出身者からは感謝される事になって没落後も半島出身には大変お世話になった。

朝鮮特需の金へん景気でボロ儲けした付け刃焼のいい振りコキで博愛主義者のオヤジは調子こいて夜な夜な遊び歩いたが朝鮮戦争休戦によって没落する事になった。 
元々いい処の出で苦労というものを知らなかったオヤジは今までの良かった事は無かった事に見なかった事には出来なかった。
代わりにこれからの事は無い事に見ない事にしようと何処かに行ってしまい残された家族は東側の原野二線にゆく事になった。
留萌に西と東のいまでも残る痕跡はヤクルトのある交差点を東にゆくと小さな下り坂になっている、そこから先は少し雨が降ると湿地は沼と化す土地で狭い一尺ほどの木の橋が道の代わりだった。
世が世なら木道などと言ってオシャレ~などと言われるがヘビが住むと言う水芭蕉の咲く土地でそれはそれは美しい自然が一杯でメシは食えない土地だった。
鉄屑を入れたミカン箱に紐を付けて引きづり西田ザッピン屋に買って貰ってはメシの種にした。

雪が溶けたら裏の増毛線線路のレールを夜陰に乗じて端から順番に外して留萌のザッピン屋まで引きづって行こうかなどと見るたびに思うのである。

 

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