あと一日


弥生の里 熊野の山々
毎年この年末になると歩くのもやっと言うほど疲れる。
区切りとしてやっておく事や思い出すのもムッタシくる事やあれやこれやと今年は多すぎたなんでだろうと考えてしまうのだ。

人類の歴史は500万年あるらしいが
俺自身は石器時代か縄文時代あたりに生まれていたらきっと今よりはマシかと思う時がある。
こまごました事大嫌い片付けも整理整頓も出来ない
一つの事を考えたら他の事は一切出来ない性格なので
住んでる傍に穴でも掘って魚や鹿でも捉まえて焼いて食ってそこに骨でもなんでも掘り込んで一杯になったら家族を連れて魚や鹿の居る処に移動
上司も会社も客もヘッタくりもない家族が食っていくだけの生活
それって毎日が釣りと狩猟のレジャーで毎日がキャンプ生活
なんか考えると結構面白いかもと思ってる。

う~ん着てる物が違うだけでこんな感じのオヤジは沢山いるぞ~
釣針がドッタラコッタラ 潮流れがドッタラコッタラともう目が祖先帰りしてる。

縄文時代と弥生時代を考えると
どうも俺の回りは縄文系が多いなと思いながら今日から年賀状を書こうと思う。
本年は真にありがとうやんした~

闇金方式複利成長戦略の限界


ヤマハOEMの除雪機をベルト交換した けっこう面倒
家庭用除雪機は栗山にあった石狩造機が最初に作り始めて次はヤマハがアメリカからTOROを輸入して販売を始めた。
TOROは日本では考えられない作りでモンキーとハンマーがあれば殆ど直るのではないかと言う作りでビックリした。
それは国土の広いアメリカでは修理は基本自分でやる事を想定した事を思えば理にかなっていた。

その後ヤマハは自社で作る事になり雪国の二輪販売店の冬の裏作として資金繰りに貢献したが
ホンダも加わり一大市場と成長するが
何を思ったのか二輪ルート以外の量販店にも各メーカーが卸す様になり現在に至る。
俺は思うがヤマハの中古部品はあまり売れない 売れないと言う事は壊れないのだ。
ヤマハの技術なら量販店で売らないでも充分売れると思うのだが
ホームセンターで売る事は資金力や訴求効果でドンドン売れるが
その代わりに二輪販売店は売上は落ちて冬の仕事を奪い後継者を奪い
全体的には二輪販売店は減少の一途を辿るに至り
現在は石狩から稚内までおよそ300キロ間に自転車がパンクしたら直す処は数軒しかない
だが除雪機は壊れても誰も命の危険などないから自分で治す者が現れるのは必然なのだ。
まった規格部品の集合体の除雪機はどうにかなって動いてしまうのだ。

生産終了して35年ほどなり部品が無いので他のキャブを付けるがいたって快調

量販店に降ろす事で田舎の二輪販売店が息子に次がせる事も出来ずに閉店終業してしまうが
メーカーが今までメーカーを育てた販売店を守る気構えがあるなら
多少の総台数は減ったかも知れんが夏冬通しでメーカーの為に稼ぐ販売店がこれほど減る事はなかったろうと思う。

「 クッソ~なんであのガキより俺が後ろなのだ~」と販売店同士を競わせる為に
年に一回北海道中から傘下の販売店を200社ほど集め売上順から前列右に並ばせた。
それは前年対比何パーセントの成長をする設定で
その差はアデ~レでさえ驚く複利で毎年毎年成長する事を求められる。
いま販売台数が100台を2パーセントの毎年成長するなら
翌年は102台5年後には111台を売る事になるが
そんな事は絶対出来ないなぜなら平均20パーセントのロストユーザーが居るからなのだ。
それでもバカの一つ覚えの様に成長率をいい 結果は量販店に頼み
既存販売店を殲滅してゆく
販売店は販売店で なら売ってもろくに儲けが無いなら修理で稼ぐのが当たり前で
歳食ったユーザーが居たら
「 旦那~今更買換えても使い方が慣れる前にアッタラコッタラ~ 」
と修理売上に走り買換えを進める事はなくなってしまった。
まったく卵が先かニワトリが先か状態になるが
メーカー自身が生んだ卵を卵焼きにして喰ってしまったのだ。

冬は解体中古部品業となってるが機械は余程の使い方をしない限り壊れる処はほぼ決まっている。
なので部品取りに持っていても残骸はほぼ同じ物が次々と残ってしまう。
これらはまとめてスクラップにするのだが
個々に外し売りに出す事は他者がやっている中古部品価格の暴落を招いてしまうのと外す手間と発送手間代にもならないのだ。
自分では業者間の付合いはマメにやって来たと思うので
閉店する店から次から次へと持ち込まれるのだ。
まった雪国の二輪販売店の苦しさもよくわかるので言い値で買い取る事が多く決算をするとナンノコッチャとなってしまう事が多いのだ。

メーカーは成長成長と言って卵を産みだしても卵焼きにして喰ってしまっては成長などありません
闇金の様に複利で成長重視する消費文明は無理があり終わったのだ船と違い壊れても陸地の除雪機は今ある物を大事にする事も大事と思う。
健康でありさせすればどうなっても生き残るれるのも末端枝葉の強みなのだ。

枯れ葉にチョロッと緑を混ぜて

新規のお客さんの修理は断り続けてるのには除雪機の整備や配達で毎度忙しい
24日は小樽まで配達に

9時に出る時はこんな天気で  これから120キロ先にトンネルやカルバートを16から18ほど通り小樽に
途中浜益から望来まで猛吹雪で先が見えなく
着いたのは1時で4時間掛かった。

お決まりの南小樽市場に寄って色々買う


帰りも吹雪にあう

25日は大荒れでほぼ視界ゼロ状態に
俺の家の前の道路は一台止まると対向車はやっとすれ違う
そんな中でも宅急便の集荷は毎日来るが
そんな状況でも宅急便のドライバーさんは恐ろしい事に右前輪に輪留めをする。

この吹雪の中でも道路中央側にしゃがみ込む輪留めをする行為はいつか事故になるだろうと思う。
そうなった時は第一当事者も第二もお互いに不幸になるだけだと思うのだが
さらに24日と25日はクリスマスプレゼントの配達で深夜になろうが配達が終わるまで帰る事は出来ないでいた。
吹雪で何処走ってるかわからん中で雪囲いで表札もろくに見えない個人の家を探して配達をする。
北海道の田舎では道路から家まで数十メートルなど常識!当たり前で
その間を雪を漕いで家まで歩く
靴はと言えば会社がどっかに大量発注した安手の靴で
車と言えばアイドリングストップで車内は冷え切っている。
やめた方がいいと思うので会社に意見はするが戻って来る事はない

日本列島は3000キロはゆうに超えると思うが雪など見た事もない所から半年雪降る処まで一律に決められ
それを上層部が言うなら逆らわないと固く守らせる構造は巨大になるとよくある話なのだ。

もすぐ車に落ち葉マークを付ける事になるが
その枯れ葉デザインを黄昏た年寄りに付けさせる事を考えた奴の頭の中身や何も言わんで製品になるまで従う構造は
アベノマスクも同じなのだ廃棄にも俺達から取り上げたミカジメ料が使われるらしいが
そんなバカなとアベノバカマスクとパワーアップさせつつある。

枯れ葉マークも多少デザインを変えてチョロット緑など混ぜた位にしても枯葉は残し
最初に考えた奴に気を使うデザインどれほど腐った落ち葉なのだと思う。

それでも先に希望は必ずある。
物事は一方だけに揺れる事はない右に揺れたら左にと
今迄は東京で決められた事が地方に流れて行く
それはテレビでも同じで東京目線で作られたモノが一方的に流されるがこれからはそうはならない
地方が独自に早く安価に発信する事が出来る様になったのだ。

北海道中の淡水魚を集めて飼育してるが
近くの川や沼でもよく見ると不思議が一杯で尽きる事はない


5センチほどの川カレイを採取して3年掛けて18センチほどに大きくしたが やはり淡水だけでは無理があって現在は飼育を止めた。
カレイとハナカジカは人を認識してると思う時がある。

八分に感謝

相談と雑談の違いは相談は結果を求めるが雑談はどうでもいい話で結果は求めない
中にはそれでどうなのよと詰将棋の様な会話や揚げ足取りの会話になる奴もいるが殆どは押し付けられる事もなくどうでもいい話で
その人の姿もセットになり
そうかだから今この人はこうしてるんかと気付きもある。
これが本で学んでもダメとは言わんが本でもドラマでも後から上手くマトメてる場合が多いので実際とはかなり違うと言う事が多いのであまり信じてしまうのも考え物な場合もある。

相談事は結構されると言うか修理業は壊れてどうしたらいいべ~と相談されるのがメシの種なのだ。
全然商売に関係ない相談事の多くは胸に結果を持って来る。
その自分の考えてる事に対して同意をして欲しい場合が多くたとえ正論であっても
その誰でもわかる正論を自身が実行に移せる能力と環境下にあるのかが問題で、
それが出来ないから現状があり やはり自分自身が答えを探す旅に出るしかないのだ。
賭け事ではないが勝負ごとを色々やったが先に行けば行くほどほんの僅かが達成出来ない
それは目標をほんの僅かを下げると数倍の余裕を持てると言う事になる。
現状は維持したいが苦しむの嫌と言うのは中々ない
苦しんでいるならやはり今の場を少し下げて立ち止まる事も必要で
750ccのバイクを買ってローンに苦しいいのなら125でも充分だべやと場を下げる事も大事なのだ。
様々なバイクを乗ったが大したかわらんのだ。
八分の生活も中々快適なのだ。

俺の回りはロクデナシやヤサグレたオヤジやお姉様が多いが見てる限りでは小ズルい奴やセコイ奴は居るがコイツ本当に悪い奴だと思う奴にあった事がない
人生もここまで来て腹をすかしメシもろくに食えない事も経験したし冬は山で仕事をしたので一応遭難もした冬の川に転落もした
借金もそこそこに抱えたが
それほど悪い人生ではなかった。
経験では悪い事より圧倒的にいい事が多いがそれは自分自身の物事の捉え方の問題で
精神科や診療内科では悩みや苦しみの90パーセントは自分自身が作り出した妄想と考える先生もいて
それはタダタダ話を聴いてやるしかないと言う先生もいて
その為に先生自身が病んでしまう人もいる。

誰かが言った死ぬこと以外はかすり傷と
まったくそうだと思う生きていさいすればそこそこにいい人生が待っているのだ。
経験上どにもならん事は笑って誤魔化せ 時が一番の妙薬になる事は多く
自分が生きる、それは誰もの生きる権利を認めて奪う事は決してやってはいけないと言う事なのだ。

雑談

昔若い十代の子を預かった事があって少々凶暴で自傷行為が激しかった。
その子の生立ちと態度に自分の若い頃を見てしまった。
それから平岸の心療内科がいいと聞けば連れて行き旭川市立がいいと聞けば連れて行き曙がいいと聞けば連れて行きと一年ほどやった。
その時の俺の認識では心療内科は精神科の一歩手前の科と言う認識だった。
やがて自傷行為は無くなったがその後も次々と問題も起き
なんどアンカーを抱かせて海にと思った事やら
カンが異常にいい奴で俺がムカついてる時は船には中々一緒に乗らん奴だった。

大阪の心療内科の問題は建物が消防法適合とか合法とか言う問題ではなくガソリンに火を付ける奴がいると言う問題なのだ。
ガソリン販売を厳しくしてみても自分の車か除雪機から抜けばいいので防ぐ事は出来ない
これが列車内やホームセンターなども防ぎようがないのだ。

自分はこんなに一生懸命やってるのに他の者に対比させて今の状態はどうなんだと言う怒り
その気持ちが熟成され社会に向いた結果が見ず知らずの一般を巻き込み電車を襲ったりする。
解決する為の方法は沢山ある。
落ちこぼれた者にとって再起を夢見る事が出来ない状況や社会の不公平感が絶望にと追いやる。
その怒りを持った者をそれを個人の努力の問題と片付けるのは簡単だが、
さらに弱い見ず知らずの者に向かう事は性善説にたった人間社会では防ぎようがないのだ。
防ぐ手立ては準備段階で思い留まって貰うしかない
それには脳裏に少しでもいい思い出が必要で
その思い出を与えてやる事が出来るかどうかに掛かっている様な気がしてならない
それは地域であり職場であり趣味の仲間なのかも知れない
隣町が小平だがある日止められた。
たまたま車検書が積んで無かったが警察官は「 あ~たまたまだね 」と
今度来る時あったら車検書を見せて下さいと言われ放免になった。
スピード狂いの俺でもそれ以後小平市街地は徹底してスピードは出す事はない

狂った奴でも脳にほんの少しのいい思い出を残せるかどうかに掛かっている様な気がしてならないのだ。
ほんの少しの小さないい思い出を少しづつ無理なく積み重ねていく
それは行政の問題ではなく地域に住む者がお互いに手を取り合っていくしかないのだ。
どう見てもヤサぐれてる奴には元ヤサぐれてるオヤジが頭の良さそうな奴には元頭の良かった奴と得手不得手はあるが
無理せずま~ま~こんなものかと言う程度で持続させて行く事が大事な様な気がしてならない
阻害からは何も生まないでさらに危険を招く

不公平感を持つ時にそれが納得のいくものでなければならない
アイツは頭がいいから仕方ね~やとか親が金持ちだから仕方ね~やと
そう思う時になんだアイツはと一番に思うのは政治家の姿勢が大きい
たった一日で100万だとか皆が困っているのに銀座三兄弟とかま~恥ずかしくもなく続きそれは怒りの対象になっていく
清貧であって欲しいがせめて皆の稼ぎのピンハネで食っている事は頭に置いて行動して欲しいと思うのだが

日々どうでもいい様な事 雑談が地域を相手を救うかも知れん
そんな訳で年明けは欲の塊となって皆で白やら黒のマスクして宝引きだ~

犬も歩けば

春に熊野古道の看板を見ただけで今更修験者になる訳でもないしと入口でバックして来て帰り道は愛知県が近づくと色々思うと事があって鳥羽からフェリーで伊良湖岬と名古屋をワープし静岡から岐阜敦賀と戻ったが
名古屋で流行っているらしい台湾ラーメンを食ってこなかった事はずっと心残りだった。

それがこないだ札幌に行った時に厚別北海楼で台湾ラーメンを食って来た。
中国訛りの日本語と言うのかオネエチャンの言葉がやたら愛想がいく聞こえる。

本場名古屋でも台湾ラーメンはこの愛想で食えるのだろうか
と思うほど北海楼は愛想がいい、声のトーンが愛想が良く聞こえるのだろうか
名古屋に結構長い事住んだが名古屋人に愛想を求めてはイケないのだ。
名古屋は大きくわけて東の良い処と言われる出と西の工場や港湾関係の出とにわかれ西にはドンコ競馬や中村競輪などがあり
パチンコなどは名古屋が発祥の地と言われているが
俺は賭け事は一切しない それは賭け事を裏から見た経験があり
半世紀以上前のある日 手配師のアニーに大門の傍にある競輪場に連れていかれアルバイトをした事がある。
耳に赤鉛筆を差しミカン箱に立ったオヤジに言われた数字を書いて紙を三角に折るバイトだった。
競輪は競馬と違い馬の機嫌や場場の状態など条件が少なく
一定の条件の元でやる為に配当が少ないが予想がしやすいらしく結構な人数のミカン箱オヤジが居た。
一レースが終わるとサクラのアニーがオ~オヤジ~当たった~と大げさに車券を振り回しこれで一杯呑んでくれ~と百円札を振って向かって来るのだ。
ミカン箱オヤジはオヤジで、ありがと~な~も~う、などと語尾を遠くまで聞こえる様にやたら伸ばすのだ。
これはボートを売る様になった時におおいに役立った。
ボートを買う人は漂流を考えて進水式でご祝儀を呉れる事がよくあった。
そんな時は集まってる皆の衆の前で蟻が十匹ありが~とう~ございます~と
最高金額は一月食えるだけ貰ってシマッタ事が二回あった。
そんな人に限って漂流はしない

競輪場の常連はまたやってると思うが知らん者はそれで結構買うのだ。
俺はと言うとここまで来て小学もまともに行っていないので字が早く書けんし字によっては鏡文字を書くので
クビになって現地解放になったが
電車賃もないので歩いて東に向かい出来たばかりの新幹線線路沿いを南に歩き続け元塩町まで戻る道中何時間も歩いて二畳半には食う物はないしと歩きながら色々いっぱい考えた。
こまったら外に出る陽にあたる歩くは今でも心してる。

千原町 ここのひだり側をゆっくり歩くとメシ食ったかと声を掛けられた。

いまも賭け事はしない

小っせい奴が

小っせい奴が小っせいキャリートラックで恒例の年末札幌詣でに二日間いっていた。

機械でも物が壊れる時は加速していく人類が石を道具として使い始めてから土器を作るまで10万年掛かっているが1903年の師走にライト兄弟がせわしく空を飛んでからわずか66年後
間寛平が生まれてから丁度20年後にアヘアヘ、ア〜メマ~と月に人が行っている。
こないだはどっかの成金が宇宙に行ったらしいが外国にも行った事がない上に船酔いする俺には
100億も掛けて、なんか他にする事はなかったのかと可哀想にみえてしまった。

人類が月に行ったからと言ってウサギから餡ころ餅でも土産に貰って来たのか
俺を始めどうでもいい雑学は増えたが庶民に何かいい事でもその後あったのか
歴史年表を見る度に俺にはなんか誰かにダマされて
現代は自分の幸せではなく満足が誰かの不幸の上に成り立っている様な気がしてならないのだ。
そう思う時に食って行くだけの俺は
なんかこの「 小っせい 」と言うフレーズがいたく気に入ってしまったのだ。


網走北方民族博物館
この時代は皆が芸術家で上手い事、焼けたとか網目が上手く出たとかで
そんな事で幸せを感じメシがいつもより美味く食えた時代だったと思う。
土と水があるだけでもう充分の小っせい幸せでいいではないのかと


望来から崖下村方向を見る。
海沿いを北上しトンネルを幾つも越えて崖下村に戻るがこの時期にこの坂を下り思うのは
現在は満足はしてるが幸せとはほど遠い俺には
冬の西日はターニングポイントは幾つもあった事を思い出させる。

ヂャイアントコニーと花嫁行列

朝に矢作アパート前に着いたコニーからホッカイドーと出身地で呼ばれ
車に乗り込む
お坊さんが使う経本のようなパタパタと開く六曜開運暦 を出し
知った被りのアニーは鼻の穴をひろげて今日は嫁入りに最高の母倉日ナンチャラ言う日だからと他にも車に乗れるだけ乗せて出発する。

名古屋には当時から喫茶店はそこら中にあり
零細の枝葉末端の町工場は事務机を置く場所があるなら旋盤や出来上がった製品の一台も置いた方がいいと言い帳面や接客などは喫茶店でやっていた。
当時から朝はパン一切れか卵が付いていて
回数券があり10枚買うと1枚余分に付いて来たがとても自分では買える物ではなかったが可愛がって貰い連れていかれた。
そこには町工場の大将など様々な人が集まり何処そこの娘は嫁入りするなどや中京競馬や競輪のノミ屋などや日雇いの情報交換の場となっていた。


港区浜
嫁入りは二階から菓子の袋をばら撒いたり嫁入り家具の見本市状態になり娘が三人居たら身上を潰すと当時から言われていた。

事前に喫茶店で得た情報を元に路地に名古屋名物の嫁入り行列が居る時間帯を見計らって360が一台やっと通れる細い路地をコニーで無理くり侵入すると
もうすれ違う事は出来ない どちらかがバックするしかないが
嫁入り行列は決してバック後戻りは出来ないのである。
かくして嫁入り行列の世話人はバタバタのアニーにご祝儀を渡しバックして貰うのだ。
その時に一台に大勢乗ってるとご祝儀も多くなると言う三段で青ッ鼻たらしていようが人数さえ多ければいいのだ。
ご祝儀を目当てに次から次と路地に入って来る車があると戻すのは
先頭の車がご祝儀を束で受け取り後の連中を表の道路まで戻すのだが
中に貫録負けをするとアニーでは無理があり時には大貫禄のロクデナシの狂ったオジサンに仕切られてトンビに油揚げ状態なったりとチョットした華を付ける賑わいが起きて来る。

鼻タレ坊主はせいぜい何十円程度のお小遣いが渡されるだけだったが
それでも廉売マーケットの製麺屋で作る
ただ汁を掛けただけの支那ソバが食えた。
北海道のラーメンが食いたい、帰りたい、と思っても帰っても食い扶持が増える事は守る事が出来なかった妹はすでに亡くなっていたが弟達のメシが減る事は目に見えていた。

ヂャイアントコニー

ヂャイアントコニーを書いてみようと思ったが
記憶を辿ってゆくうちにどれも北海道の田舎から出て行った者には何もかも強烈な出来事ばかりで端折る事は難しく別枠でと思ったりしてる。
北海道原野二線の川の傍から昭和38年に流れ行き付いた先が元塩町のアパート
二階の中加減あたりに茶色の線が付いていて伊勢湾台風でそこまで水に浸かったと言う二畳半の矢作アパートだった。
すぐ横の地面より高い処にコンクリート堤防で守られたでなんでも浮いている大江川があり大江川は名古屋港に繋がっていて海抜0メートル地帯の為に水が流れる事もなく満潮干潮でゴミは行ったり来たりするだけのドブ川だった。
そんな場所だから部屋代も格安だったが幾らだったのか思い出せない
すぐ横に荒れに荒れた南光中学がありその一角に

伊勢湾台風の渦が巻いて水が引いた跡に大量の靴が溜まった事で靴塚と名付けられたが当然靴だけではなかったはずだろうが靴塚慰霊碑があった。
住んで居た当時の周辺は急ごしらえの文化住宅が多かった。
そこから北に数百メートル行くと北頭電停がありそれに乗って行くと鶴舞公園に出てそのすぐ傍が有名な吹上
それから市内を転々として転居を繰返したが
いまのここ崖下村での生活にはとても満足している。
それは見えるとこ見えないとこで大勢の人からの到底返す事など出来ない恩を受けたりお世話になったり不義理をしたりと思い出すだけでどれも端折ってはいけない これからも刻んでいかないと思う。
そんな訳でヂャイアントコニーと狂ったオジサン達の事を中々書く事は出来ない

ヂャイアントコニーは水平対向エンジンで確か運転席の下にエンジンがあったと思うのだが画像を検索し見るとボンネットがある記憶違いなのだろうか


愛知県長久手トヨタ自動車博物館に行った時に撮った一枚なのだが
これだと思ったが違うかもスズキスズライトの様な気もする。

コニーはエンジンはトヨタパブリカUP10のエンジンとそっくりで水平対向エンジン特有の吹かすとエンジンが本当にバタバタと言うエンジンだった。
サイドガラス窓は普通のガラスで勢いよく閉めると割れどんなに急いでもゆっくり閉めないとガラスが凶器となって自分に飛んで来るのだった。
それに手配師のアニーが乗って来て人を集めに来る。
いく場所は少々危ない処からキツイ処と何処に連れていかれるかはその日次第だった。

あ~あ~俺も文句ばかり

10万円は子供がいないので俺には一切関係ないが なぜにこんなにゴタゴタするかと言うと
物事が決まって行く時は様々な案があちこちから出されて
それを案から実際に実行する事は出来るのかと消去法で一つづつ消して残った物を首相に進言するのだと思うが
優秀なはずの官僚機構は安倍晋三がボロボロにしてしまい。
その思い付きのたんなる案を実行に移す事が出来る優秀な人材がいないのだと思う。
なぜそうなったかは長い安倍政権がイエスマンを官僚に据えた結果が有能な人材を死に追いやったり佐川ナンチャラみたいに言われた事は法に触れようがなんでもやってしまう人間が頭に立てばそりゃ~何も出来ない組織になるのは目に見えてる。

官僚機構から安倍政権の残党を追い出すまでは岸田政権のゴタゴタが続いて行くのだろう。
ただ単に叩くだけでなくここはしばらく様子見る事も大事だとおもうのだが
選挙では俺は立憲民主党に清き一票かどうか知らんが一票を入れた。
立憲民主党が落ち目になるのは蓮舫議員の様に出てシマッタ事案を青筋立ててガナリ続ける様が受け入れられないのだと思う。
かなり昔になるが宣伝と広告を深く~深く~考察し実際に三誌に原稿を書き続けた事があった。
案で上がって来た物をチェックし修正するのは誰でも出来るが
まったくの白い紙に最初の一筆を入れる事は中々出来ない
その広告の最初の一筆に様々な事が有るとは思うが一番にはすでに買った頂いた方に思いを馳せる事が大事で
その人を元気だろうか無事に使って呉れてるだろうかと思い馳せる。
あ~ここで買って良かったと、ここで買ったのだと言える買って貰った人に恥を搔かせない広告が大事で
読んで呉れた人が買わなくても一つでもいい思いをする徳をする何か知恵が付く
それが広告の大事な役割なのだ。
難しく道半ばで今は終活をしてるが広告をしない事も大事で、いまの目の前を大事にする事も大事と思っている。

大恩人の森本正義さんがいつも言った事は宣伝より顔を覚えて貰いなさいと言った。
それは自分の姿を見せる見せるに耐えられる自分になりなさいと言う事なのだと最近になってやっと思う。
出来てないが!

話はブットンだが政治家は白い紙に自分の最初の一筆を入れそれを広げ青い空なのか曇った空なのか明日への希望を夢を見させるのが稼業だと思う。
晴れた日と曇った日では同じ24時間でも明らかに気分も違い作業もはかどるではないか
人の案に青筋立ててアッタラコッタラとチェックするだけなら誰でも出来る。
立憲民主党も早く気付いて欲しいと思う。
出来ないならいっその事自民党を自由党と民主党に再度分裂させてはと思う。

次記事はもう時効だと思うのでお口直しにジャイアント、コニーと狂ったオジサンに付いて