畜生道を考える

旭川や滝川に積雪があってから一週間後にここが雪が積るのだが同時に降って溶ける気配はない
珍しい事なのだ
以前は9月に除雪機やスノーモービルの一括仕入れをしていたので測候所に行って毎年の積雪予報を聞いて調べていた。
その予測はかなりの確立で当たり1センチ降ると1万円儲かると豪語していた時があった。
雪は降水量1ミリが新雪換算にするとおよそ8~10倍になり一晩の降水量が10ミリなら10センチの積雪になる。
それも朝に戸を開けた時点でムッタシ来る一番心理的な積雪は15センチ超えとなり除雪機販売業としては待ってました状態になり押せ押せとなる。
今の場所に移ってからは業態も変わったが除雪機に食わして貰った事は間違えない

除雪機も後半は耐久消費財ではなくなり消耗品となって各メーカーは使用年数を設定し始めた為に費用対効果を考えると諦めた方がいい場合が多くなってきて修理工としてはサッサと諦めて解体する事が多くなって来た。


畜生道とは輪廻転生の中で何に生まれ変われるかを言う
人間として許しがたい行為や生き方をしする。 これは思い当たる節が多々あるし
人倫上許せないような間がらでの色情。これはないがすぐ人を好きになる惚れっぽい性格なので可能性はある。
よって俺は畜生に生まれ変われる可能性は大なのだが
畜生と言ってもタヌキやクジラなど様々なのだが考えようによっては人間よりいいかもと思える時もある。
この言葉がいつの時代に始まったかは知らんが動物は最悪と考えていたなら現代よりいい時代だったのかも知れない
現代では動物以下の職場や生活と言うのもよく聞くが
「 過ちを見てそれを正そうとしなければ過ちを犯した者と同罪だ。」オマホ族

俺がもっとも生まれ変わりたくない物は除雪機で
秋に物を何処に置いたかも忘れて除雪機でガンガンとぶつけ羽根は曲がる自分の頭がぶつかる夢を見そうになる。
オイルもろくに点検せずに使う、
小型除雪機はオイルポンプが付いていない為にオイルが少ないと傾けて使うと焼付く事はよくあるのだ。
使った後に燃料も入れずに置きタンク内は結露をおこすわで
知る限りでは除雪機ほど過酷な使われ方をする機械は知らない
そんな訳で畜生道より除雪機道に落ちる事だけは避けたいのだがすでに解体しスクラップにした除雪機は数知れずなのだ。

昨シーズンは積雪がありすぎて小型除雪機では対抗出来なかったので今シーズンは2段オーガーでジーゼルエンジン仕様に買い替えた。
中古なので減った羽根には8ミリの鉄筋を等間隔で溶接した自分の機械を直す時はほんと楽しい
一言言われたら10倍にして返し一発は3倍にして返す少々元気過ぎた時も修理工をやっていたから元の道に復帰出来た。
俺などは超幸せな分類に入るだろうと思うが
残りの人生畜生道に落ちいるより除雪機道に落ちんようにせんとイカン
ナン~マイダ~色足是食~ 右の頬を叩かれたら左の頬を、、、、、

畜生道を生きる女

雪が降って来た 例年は旭川や滝川が先に降って積り始めてから日本海側が降るのだが
今年はどうも違う様だ。

この除雪機が販売されたのが1978年で自社製品を作る前はアメリカのTORO製を輸入し販売していた。
俺の知る限りでは除雪機はこのメーカーが耐久性や整備性などの面から見ると
一番で除雪機と言う機械がどんな状況で何処で使われるかを良く知っている。
それは北緯44度10分に常設研究施設を持っているからだと思うし最初に北海道に似た広い土地で作られたTORO製を販売した事で広い国土がゆえに整備は持ち主がする必要があった事も大きく影響してると思う。
その土地にはその土地ならではの理由と機械があり
除雪機を試作品から使用し見続けたが良い物を1台や10台を作るのは割と簡単に出来ると思うが、
良い物はコストが掛かる為にそれを商業ベースに乗せ作り続ける事は難しい
機械メーカーはあんな良い物を作ったのにメーカーが消えてしまうと言う事はよくある話なのだ。

末端の販売店サイドも良い物を作るメーカーは取引条件も厳しくなり資金力や販売力もそこそこに持つ必要が起きて、
たとえ売りたいと思っても売る事が叶わなくなり販売店から脱落する事なども起きてしまい良い物だから売れ続けるとは限らない
その為に「 悪貨は良貨を駆逐する 」事が起きて来る。
これは一番最初に使われたのはイギリスで経済の法則となっていたが現在は経済の法則を超えて使われる事が多い

少数民族や少数者や弱い者をあざ笑い続ける水田水脈がなぜに衆議院議員で居られるかは比例代表制選挙で選んでもいないのに自民党順位が高い位置にあるからでそれは自民党には必要とされるからなのだ。

水田水脈先生は人をあざ笑い続ける事で生計が立ち、立場を維持し続ける事が出来る畜生道を生きる女なのだ。
子供を産む事を生産性で語るのは養豚業のオヤジなら真っ当な意見ではあるが相手は人間なのだ。
この様な悪貨の見本の様な畜生道思想を持つ奴には今もアイヌの人達と一緒に暮らす北海道に足を踏み入れて貰いたくないと思うのだ。

インデアン嘘つかない

「 インデアン嘘つかない 」昔なんのCMか思い出せないがそんな言葉が流行った事がある。
アメリカ大陸におよそ1000万人いたネイティブアメリカンが
西も東もわからんスットコドッコイのコロンブスにインドと間違えて発見されその後50万人まで激減させられる虐殺の歴史でもある。
さらにスットコドッコイにインド人と間違えられインデアンと名付けられてしまう。
思うにインデアンはなぜに嘘付かないと言われるのかは狩猟民族だったネイティブアメリカンは自然が相手だったからだと思う。
自然は人間と違い早々簡単には変わらない、
変わらない相手だからこそ嘘を付く必要が無かったのだ。
その為に白人によって騙し討ちされる事が多かった。
それは同じ狩猟民族のアイヌも同じで嘘を付く騙すなどと言う必要がそもそも無いのだ。
1669年アイヌのシャクシャインの戦いでは疑う事もなく出掛けた手打ちの酒宴の席で松前藩によって謀殺され以後アイヌは和人によって搾取され続ける事になる。
その歴史は大小はあってもネイティブアメリカンとさほど変わらないのではないか
大自然を相手に生きる者は小手先の浅知恵などは通用しない真っすぐにやるべき事をやっていく
現代では考えられないが


現在のウポポイになる前の白老アイヌ民族博物館で手渡しの踊りウポポ

広大な大地に豊富な資源を持った嘘付く事も策を弄する事も必要がない民族は滅びる運命にあるのかも知れない
そう思う時に現代に生きる者はせめてこうありたいと思うのだが、、、、、、、

生きとし生けるものに敬意を示せば、
彼らは敬意を持って答えてくれる。 アラパホ族

これらの言葉はいつの時代に発せられ原文は何語でどう書かれてるのか
コロンブス以降なら大変な苦労の中で正気を保った事になる。

知識は過去、知恵は未来

感染確認から11日が経過しほぼ元の状態に戻ったが、少し動くと息切れがし休憩する。

出歩き禁止期間もお蔭様で何不自由もなく過ごした。
一番酷い2~3日目もなんとか自分で起き上がる事が出来たし頂きものでメシも食う事が出来た。
差し入れと4回撃ったワクチン接種のお蔭だと思う

感謝する理由がわからないのなら、
間違いはきみの中にある。ミンクアス族

ワクチン接種は1人1回あたり7000円ほど掛かるらしいし今回の飲んだ薬も8万ほどするらしいがどんな理由なのかすべて無料なのだ。
ハッキリ言ってコウモリの精霊には捕まっても仕方ないし覚悟もしていたが
400坪ほどある仕事場でたった1人で終日滅多に人に逢う事もなく仕事をしているのとメガネが曇るのでマスクはしない
初期の頃は相対し確認してからマスクをするのは相手をバイ菌扱いをする様で嫌だったし
突然の来客があったとしてもマスクを広い何処に置いたかを探す事が多いのだ。
もはや5人に1人の感染状況ではもう防ぎ様が無いのだが、費用は一体誰が払うのか

ネイティブアメリカンは言った
地球は親から与えられたものではない。
祖先からの授かりものでもない。
子ども達から借りているのだ。と

この言葉を借りると子供達がツケを払う事になるのは間違えない
そうならない為に早く手を打つ必要があるだろうと思う
サラリーマンに課税する事は簡単だが それでは弱い者いじめの様なのだ
最低限食うに困らない程度に国民皆に年金制度を充実させたうえで
企業増税と相続税と累進課税をもっと進める必要があるだろ
食う心配がなければ誰もが早く身体が動くうちに使い切ってジエンドになろうと思うのだが
今一度知恵を

知識は過去だ。
知恵は未来だ。 ラムビー族

 

や~何も出来ない状態で色々考えたが
ネイティブアメリカンと言われる人たちの名言が
一体どこからこの様な名言が生まれ残されていったのか そちらの方が凄いと思うのだ

ネイティブアメリカン達は年に一回、かなやま湖レイクサイドの様な処に集まり
各部族が皆で焚火を囲み強いテキーラなどを呑みながら
名言発表会などをするのではないかと想像したのだが
『 よう~酋長 上手いこと言ったな~座布団一枚~ 』などと
そうでもなければ名言がこうもスッキリ残り言い伝えられるモノなのだろうか
羽根の付いた白い帽子などを被り机に座ってこんなのはどうだろうと発表するとは思えないが

日本で言えば同じ様な狩猟民族がアイヌだが
アイヌにも名言と言うか言い伝えはあるのだが これほど決まり胸に落ちる言葉は少ない
土地の広さか人数の違いなのか
何にでもすぐ影響されハマってしまう性格なのでしばらくインデアンを思考する事になりそうなのだ
思うに様々な民族が集まるアメリカだからこそ残り伝えていったのではないかと
単一民族など偏屈爺になりそうで大した面白いものでもないのだと思うのだが

コウモリの精霊

今年は部屋の中にどれほど居るのだと思うほど部屋の中がカメムシで一杯だった。
先週は朝、眼が覚めると喉が痛い、きっと寝てる間にカメムシが口の中に入ったのだろうと思っていたが
午後になっても喉の痛みは取れず何かおかしい いつも行く病院に電話すると薬局から検査キットを買って検査せと言う
留萌の薬局の駐車場で念の為に二度検査するが結果はコウモリの精霊が俺の体内入ったと出た、
咳もひどくなり声も出なくなり喉の中は


毎日がこんな感じになってしまった。

当日夜遅く電話が鳴り郵便受けに薬を入れたと診療所から連絡があり
翌日からは安否確認と酸素濃度を測る機械が送られてきた。

容態は急変するのか、何かの後遺症が残るのか、
誰かに移していく事の無いように臨時休業の案内を玄関先に書いてぶら下げた。
一人暮らしなので部屋に閉じ籠る事にしたが
それからは一生忘れる事は無いだろうと思うほどの日々を過ごした。
玄関先に次から次と何かしらの物がメモやショートメールを残し毎日誰かが置いていって暮れるのだが
これらの品々は貼紙を見てから4~5キロ先にある店まで買いに戻らないといけない

アラバホ族は言った。
「 真の思いやりがあれば沢山の言葉は要らない 」と
近江三方良しからここに移住して来たパン屋は甘い物や栄養ドリンクやポカリスエットなどの入った袋や
地元でないので滅多に逢う事のない的屋さんが
この数年間はコロナの影響でタカマチが立たずに自分でさえやっと息をしてるのにカルピスやミカンなどが入った袋を玄関先に風で飛ばされない様に袋に石を乗っけて置いていってくれた。
皆のお蔭とワクチンを4回接種していたので少し良くなり始めた時に
セコマの豚丼と卵焼きと山田錦のワンカップ!一式を貰った。
他にも皆から色々貰ってなんと言う事だ 皆はネイティブアメリカンなのかと思った。

チェロキー族は言っている。
生まれた時、
きみは泣き、世界が笑った。
だから死ぬときは、
きみは笑い、
世界が泣く人生を生きなさい。 と

60歳定年は正しい


先週仕事でアチコチ走り回った時に
少し寄り道してこの露天掘りの山の下にあるラーメン店に初めて寄ってみた。
興味を引いたのは営業時間で11時から午後2時まで その前でもスープが無くなったら店は閉めるらしい
その為にわざわざ行ったからと言って食えるとは限らない
この日本で一番人口が少ない市と言われる町で、その営業方針でやっていけるのかが興味あった。
ここの市は人口3200人 飲食店は7軒 457人に1軒

到着は12時半でその後2人入店した時点で閉店 後は肉屋営業のみだが誰も並んで待ってる訳でもなく何十人とこなしてる様には見えなかった。
少々疲れたオヤジがやってるのかと思ったが若い人だった。
ラーメン屋の設備は店の売上や大小にあまり関係なく必要な物は必要でそれならば回転をよくするほど歩留まりもよくイケイケドンドンでいけると思うのだが
何か確固たる信念があり営業してる風だった。
数日忙しく この日も朝からろくに食っていなかったので大盛を食ったが
ラーメンはその店で普通に出てる物を食うのが一番なのだが その日は大盛を食ったので それがこの店の味なのかの判断は難しい

この空知旧産炭地周辺にはえ!ここにラーメン屋がと思う店が数軒あり何か街とは違う営業方針があるのだろうと思う
黄昏た町でもその地域その地域の味と営業方針があり それを一見さんが評価をする事は大きな間違えだと思うのだ。

メンテナスが条件の耐久消費物を売る商売は今年で終了しようと思ってるのにホント何かを始めたら止める事は難しい
ウラジミール、プーチンも今頃は後悔しているだろうけど習近平に見せつける様にプーチンとロシアは叩かれ続けるだろう。

以前は毎年10台前後は組んでいたが数十年ぶりに組立作業をしたがこれを収めたら数十年は使用されるだろうからメンテナスの引継ぎも必要になってゆく
エンジンは4サイクルになりキャブはEFIになり何もかもが新しくなった様だが
そのメーカーの伝統と言うか基本は脈々と受け継がれ流れは早々は変わらないので3日間掛かって組む事が出来た。
何を組んだかは内緒

船は見ただけで自分の手で動かそうとは絶対に思わないがこれ位の物ならもしかしたら動くのではないかと思わせるのが間違えの始まりで諸元表にはなぜか重量記載はなく
手で無理に持ったり移動させようとして身体アチコチ痛く歩くのがやっとの状態になった

よく働けるうちは働いた方がいいと言うが俺はそれは年金を払いたくない国に騙されてると思っている。
同じ物を作っても仕事と趣味では精神的負担は全く違うし若い時の一日と還暦過ぎての一日は全然違う
食い歩くのは楽しいが歳食うとその食い歩きすら出来ない事に気付いた。
大体の店は11時頃から営業するので昼にラーメンを食って3時に天ざる蕎麦食って夜は海鮮丼と一杯とやれたのが一日3食食うのがやっとなので出先に行って食いたい物が腹に入る隙間が無くなっている
さらに味に疎くなって色彩感覚もオカシイので還暦で定年退職と言うのは正しく身体が動くうちに遊び
逃げられない様に奥さん孝行をした方がいいと思うのだが

忍者Ninnjyaとは何者Nannjya

今週は春に頼んでいた物がやっと入って来て中継地点まで取りに行って来たり下準備の為にアチコチ走って550キロほど走った。
時間に縛られ仕事で走るのは辛いので楽しい事を色々と考えて走る。


熱田神宮宝物館 真剣を持つ事が出来る。

真剣は重いと実際に持った事がある数人に聞いていたので、どれほど重いかと思ったら意外にも軽かった。
この宝物館の宝物をカッパワレない様に見張ってるハシビロコウの様なオヤジが居て
そのハシビロコウオヤジに真剣でも軽いですねと言ったら
「 真剣は人を切ると言う心の重さです 」と言われてしまった。

忍者に付いて色々思考するには、
乱世には様々な職業や世襲制の稼業があったと思うが各地の情報を集めに走った隠密や忍者などは
その場その場で自分自身が判断し危険をかいくぐらなければならない
その為には忍者は出先で切られたりと傷ついたからと言って忍ことを職業としてるので赤ひげ先生に治療を頼むわけにもいかないので自分でその辺りの葉っぱや薬草などで治療したり
集めた情報を何が重要かを整理して伝える知性と危険を回避する動物的感の野生も持ち合わせる必要があるのである。
さらに戦う為の武力も持ち合わせると言うスーパースターなのだ。

忍者が野生と知性と言う両極端なものを持ちわせた先にある中間は感性ではないかと思うのだ。
そこから思案するにも松尾芭蕉は忍者であったと言う結論に至り
俳句などを嗜む者はよいよ妖しいのである。

忍者の里、甲賀は製薬会社や化学会社が多く
薬草に通じたり火薬に通じたりした忍者が居た事が現在に到り
母方にくノ一を持ち 父方に忍者ハットリくんを持ち現在は製薬会社会長などがきっと居るだろうと思うのである。 知らんけど!

服装に関しては実際には黒装束などは無かったのではないかと思う。
あの姿で諜報活動をしていては見られたら言い訳のしようがないし、ましてや刀など持っているなど論外ではないかと思う。
一番は越中富山の置き薬売りや物売りの姿と俳諧師の姿が良かったのではないかと思うのだが
Ninnjya とはNannjyaと言われ正体がわからん様になって初めて一人前になったのではないかと思うのだ。

これ見よがしにバッチなど付けてる奴にはろくな奴はいないのである
恐いオジサン連中は襟の裏に止めていたが最近ではそれすらも見なくなった。


月に一回 この乳酸菌をここから140キロも離れた所から売りに来るオジサンがいる金額にして千数百円だが何かしらの手土産を置いて行く
当然仕入れしてるだろうから利ザヤはほんのわずかだと思う。

伯耆国の出の俺の偉大なる母親はどんなに貧乏しても自分の処に来る物売りさんからは僅かでも買ってやりなさいと言った。

ガキの頃は原野2線でその辺のバス停ほどの小屋で電気も水道もない食うや食わずの貧乏なのに定期的に来るのは紙風船を持った置き薬売りさんだった。
今になって思うのはそんな銭など何処を探してあろうはずもないボロ小屋に物を売りに来る人が居る事自体が不思議だったが
売りに来る方もほとんど人助けだったのだろうと思う。

騙されてもいいと、早くに手放した子供達が内地の何処で世話になってるかわからないからと、
年齢だけは母親を超えたがまだまだ母親を超える事が出来ないでいる。

忍者


大和國宇陀
段取りが悪く この秋には津軽海峡を渡る旅行は出来なくなったし船の上架も一週間近く凪待ち状態になっている。
そんな時に俳句の同人誌を編集長自ら頂いた。
俳句と言えば少々元気だった時に教えられた
実るほど頭を垂れる稲穂かな」と柿食えば・・・・・位しか知らん
学校などメシを食うのが先で教養だの教育だのまったく無い俺が
へ~俳句って作った人がその時の説明を付けるのだと貰った同人誌を見て初めて知った。
読み進めるうちに575はこれって写真と同じかも知れんと思った。
人の撮った写真を見る時にその人が撮りたかったものや伝えたかったものを
一枚の
一筆箋や印画紙に残し後はその時の背景や解釈は見る人に読む人に任せる様な部分は同じではないかと感じた。

そう思うと見る者にすぐなんとも味気がない白か黒かの結果を押し付ける動画がやたら流行ってるが
秋の夜長に俳句同人誌を読んでるうちにどうも動画を見続けるとバカになるのではないかと思い始め
せっかちの俺が言うのもなんだが何もかも性急過ぎる事が現代の混沌とした時代を生んでるのではないかと思う。

伊賀上野 松尾芭蕉記念館
昨年春に行った 本当は伊賀忍者の方を見たかったのだがコロナとやらで時間短縮で見る事が出来なかったので
入って見たが
チマチマった商人の俺が思ったのは俳句ひとつで全国にまたぐ旅費を稼ぐ事が出来た事が不思議なのだ。
俳句ってそんなに儲かるのかと思ったが展示品を見てるうちに、もしかしたら芭蕉は隠密ではなかったのかと言う思いに到った。
江戸時代のまだ走りで全国にあやしい大名がゴロゴロいる時代だったろうからまったく無い話ではないと思う。
だいたい戦国時代が終わり徳川の時代が来た時にそれまで暴力と策略、策謀、謀はかりごとこそすべてと言う連中に俳句などを理解出来たのだろうか
「古池や蛙飛びこむ水の音」など忍者そのものではないか、
謀反の情報を575に込めて鳩で送ったのではないか、あやしいのである。
そう思ってモップ持った掃除中のオジサンに聞くと違うと言うが
そこからのモップオジサンの説明が凄く机に座ってる学芸員とは違って楽しく
博物館などは好きでよく入るが誰にでも声を掛け聞きまくる俺にはここに入館して良かったと思った。

オジサンの持ってるモップが仕込みモップに見える前に俳句の一句でも言ってみようと思ったが閉館時間が来たので泣く泣く会話を打ち切り松尾芭蕉記念館を出て俳句は生涯終了した事を思い出した。

俳句をする人を俳諧師と言うらしいが
俺はその俳諧師とそんなに売れるとは思えんのに全国を車でゆっくり回っている竿竹屋は忍者ではないかと今でも思っている。

そう思って見ると同人誌の編集長は上背もあり鍛えられたイギリス忍者007ボンドガールの様な背格好と拷問の様な苦痛にも耐えるらしい、あやしいのである。

食糧安全保障


美味い酒を呑む為にムール貝を食す。

この丁度いい食い頃の海外産ムール貝はキロ1500円程度なのだが
三陸ではキロ1000円程度で普通に木箱で売っているが送料が2000円は掛かる
採ってすぐ食う地元産は美味く絶品でまったく別物と言っていいのだが
沢山あるのに売ってはいないので増毛地元産を食う事は出来ない
知る限りでは函館方面でわずかに流通しているくらいで北海道では何故かしら誰も流通させようとしない
ここの堤防を越えた岩場に行けば簡単に大量に採る事が出来るし駆除しなければロープなどは重みで沈んでしまうのに何故採って売らないのか不思議で仕方ないのだ。
マリーナーには大量にあるのだが何でも食ってしまう俺でもマリーナー産ムール貝はさすがに食わない

他にも未利用魚は結構あるのだが立場が違えば灯台下暗しな事は沢山ある。

裏の廃線になったJR線路の傍に何十年も使われていない道路があり国有地か何か知らんが
勝手に決めた崖下村食糧安全保障計画で今年初めてそこにジャガイモの苗をたった一本植えたが何も手入れしていないのに秋になって周辺の草が枯れた処にこんなにジャガイモが収穫出来た。
カボチャに至っては何処まで伸びるのかと思うほど伸びて9個が収穫出来
他の野菜も食いきれないほどなっていた。
そこそこの修理工兼商人(あきんど)だった!俺が思うには これが一次産業の強みで田舎の1000円と都会の1000円とは全く銭のパワーが違う。
仕入れて売り利ザヤを稼ぐ都会の銭は今持ってる1000円は9割は仕入れ先に払い残りは経費と消えるが
田舎の1000円は経費を引いても元手の何倍にもなって戻って来る。
米などは1粒が秋には600粒になるらしい
田舎は総額は少なくても利ザヤが大きく空き地に何かしら植えて置き魚は岸壁に行けば釣れるし食うに困る事はない
家などは頼むから貰ってくれと言う家も沢山ある。
ほったらかし野菜を作ってこれが田舎の自力なのかとつくづく思う。
国か町か知らんが年貢を払えとか何か言って来るまで空き地に野菜を植えてみようと思う。

南下

南半球でも南下と言うのだろうか

来る途中 留萌マサリベツから道道742号線を通る。
この道道742号線は冬は雪崩の危険があった為に通行止めだったがトンネルを作った事によって年中通行が可能になった。
そのトンネル予算獲得の為の雪崩調査に小平町上川にベースキャンプを作り物資運搬の為にスノーモービルで入って調査が終わりラジオ電波が届く処まで戻ってラジオからのニュースで1995年1月阪神淡路大震災があった事を知った。

雪崩調査方法は雪崩が起きそうな状態を画像に撮る事とそこに白赤ポールを差し込んで積雪量を測るのだが
一番崩れそうな雪庇にスノーモービルで上がれる処まで上がってポールを差し込むのは下請けのさらに臨時雇いのなんの保証もない俺の仕事だったが
う~ん今考えると凄い仕事だったなと思う。
調査開始から4年後の1999年3月にトンネル工事が着工になる
そこで俺が雪崩に巻き込まれたら安全な場所から望遠カメラで撮ってる現場代人は凄い画像が撮れて742号線は早くに完成していたかもなどと感慨にふけり通る。
何かが出来る時にはその様々な見えない面でどうでもいい様な枝葉の末端の人間が大きく関わっている。
それを評価し認める事が無敵の人を無くす方法のひとつなのだと思うのだが

歌登まで走って

ここで晩飯を食う 地元の人でないと何処に入口があるのかと探すが観光客の店は面白くないのでこう言う店は好きだ
車中泊を出来る場所があるとの事で晩酌もする。
車にはFFヒーターが付いているので市街地では無理だが北海道はそこら中が原野なので道路わきに止めて寝る。

翌朝 枝幸西城デパートのすぐ傍にある魚屋瀧源に魚を買いに行く
瀧源は魚大好き男にとっては調理方法も聞けて嬉しいのだ早朝腹減ってる状態で店に入った為にあれもこれもと欲張って買ってしまった。

もしかして開いてるかもと思って行ったが やはり閉まっていた。
ここは何度も来てるが入館料は無料なのだが内容は凄い
俺は思うのだが地元民は無料にして他は幾らかでも貰ったらいいと思うのだが
現在は施設も立派になったが以前の施設は自分なりの解釈や宝探しの様な感じがあり それはそれでよかったと思うのだが
オホーツクには古代に忽然と姿を消したオホーツク人が居た。
俺が想像するにはオホーツクはロシア沿海州や樺太と当然交流はあっただろうから大陸から渡って来たオホーツク人はセコイ弥生文化がチラホラ見え始めた時にムッタシ嫌気がさし大陸に戻ったのではないかと想像するのだが
弥生文化は穀物を貯蔵する事で貸し借りが出来る資本主義の原点になる文化でもあるのだ。

日本民族は単一民族などと言う国会議員連中が居るが、お前どんな親に育てられ字が読めるのかと聞きたい
北海道は米作が出来なかった事で遅くまで縄文人やアイヌ、ニブフなど様々な人種が暮らした土地で現在でもその様子が見れる土地でもあるのでその土地の博物館を見る事は旅の幅を広げる。
今でも半縄文時代の様な生活は出来ると思わせるのも北海道で、もしやったとしたら結構楽しいいい生活が出来るのではないかと思う。


帰りは夏タイヤなので山に雪が降り始めたこの山越えは断念して幌加内を通り沼田に抜ける。