連日28度と言うあまりにも暑い日が続く
ここは小樽のフェリーが5時着なので朝8時頃にここ崖下村の道路を稚内に向かいバイクの一団が通り過ぎてゆく
あ~あ~年金を全額掛けていなかったので貰えないが食えるなら仕事を辞めて一緒にかたってオホーツクにゆきたいと何時も思っている。
せめてどこかにゆきたいと思っていたら。
出ました地方のお仕事が滝川に白老に浜頓別にとお仕事が
空知からの帰りはいつもここの木の木陰で寝る。
この木の下で寝てるといつも雨の降る音がする。
ポプラの木の下は雨の音がする。
雨の音はニコヨンをしていた母親が雨で仕事が出来ずに家に居る音なのだ。
沢山の子供を母親一人で食わす為に
冬はガンガンを担ぎ留萌駅から北空知に魚とコメを交換に出掛け、吹雪で汽車が止まり戻って来る事も出来ない事も何回もあった。
そんな時は留萌駅にゆき轟々と燃える石炭ストーブの前に座り、雪でクタッバテルのでないか駅にはたどり着けたのだろうかとたまらなく押し寄せる不安を隠し夜通し帰りを待ち続けた。
暖かい駅にはルンペンも居たり同じく母親の帰りを待つ同級生も居た。
こんなに母親が苦労するのはオヤジがだらしないからだと強く思っていた。
良い所の出らしいパッと働かないオヤジはいつも身なりはシャキッとしていたが口ばかりで嫌っていた。
その反動か身なりはいまだに年から年中、雪駄にTシャツ一枚と腹巻に作業ズボンかツナギだけである。
金を稼がない奴は男でないと強く思って当時から空き瓶や鉄屑を拾っては西田雑品屋に売りに行って
帰りにお世話になった布施板金と加地外科の横にあった闇米屋から僅かばかりのコメを袋に入れて貰って帰る。
母親はどんなに喜ぶだろうと思って原野二線まで足早に戻るが
喜んでくれる事はとうとう無かった。
バカな俺は量が少ないんだべか と思って次はもっと沢山買えるといいなと思った。
次はもっと大物を狙い線路を歩き人造石油跡地や旧大和田炭鉱跡地のポロユードロに行き閉山し貧乏のどん底にいる地頭のクソガキどもをケリ飛ばしても一杯拾って背負ってこようと
母親の苦労を思うと何も大した事ではないと何度も行ったが
金になる砲金のアカ金(アカガネ、銅)はすでに無く重たいばかりの鉄クズしか残っていなかった。
当時も今もなんの因果か線路伝いに住んで踏切の音を時計替りに暮らしている。
もうすぐこの時計替りの音も消える。