20年前の1月17日は
達布川上から苫前霧立峠に抜ける冬期間閉鎖道路を迂回してトンネルを作る事前調査の雪崩と積雪調査で雪山に入り三日間の調査が終わり ベースキャンプに戻ったところ何かとんでもない大地震があったらしい知った。
あれから20年早かったような遅かったような
その2年前の丁度7月17日増毛祭りの酒を飲んでる最中に何か大きな地震があったらしいと言い
港の漁船が夜の海に津波を避ける為に一斉に沖に出ていった。
奥尻では30メーターを超える波を観測して当時増毛港も数隻の船が壊れるなどしたが
ここ崖下村は日方岬からの潮が巻く為に奥尻からの漂流物が溜まり人を探す人達も来ていた。
なぜあの時に
原発関係者は当時の教訓を学んでいないばかりか
三猿野郎は目をつぶろうとしたのではないのかと思うのだが
自分を安全圏に置いてものを言うあざとい人達による原発事故は人災なのだょ。
やはり電気を沢山使う人の所に議事堂の地下にでも原発でも何でも作るべきだと思う。
それが嫌な奴は田舎に逃げればいいので一番の地方再生になるだろう。
俺自身の20年はそれまでの人生の中でも2番目に濃過ぎて、トマトジュースにカボチャジュースを混ぜ、そこに好物の鯖味噌をブチ込んだようなどんでん返しに挑戦し
力づくで物も環境も手当たり次第に壊れてゆき、自分自身を試され多くの教訓を学び
生涯の友が出来 数人の永遠の別れとを煮詰めた20年だった。