不在者投票もやっと済ませました。
と思ったら今度は増毛で町長選挙があるらしい新聞によると崖下村と言うのは勝手に付けた名前なのだが、この崖下村から立候補するとの事
原付バイクで内地を旅行するようになってナンバーに書いてある、増毛をゾウモウと読む人が意外と多い事にビックリだったが
そうなるとどちらが町長なっても4年間の間に種類は問わず毛を増やす事がもしかして大事な仕事になるかも
半端もんの俺が最近は樺戸にはまり、この北海道をまさに命を掛けて切り拓き、礎を築いた人達を自分なりに納得するまでと思って本を買い漁って読んでるが中々読み進まない
どうやったらこんな過酷な労働に耐えて何を支えに日々過ごし生きたのかを知りたい
12月2日に浜益から裏山を超え樺戸に侵入したがこれとて車で行ったので どって事はない
増毛では見る事は珍しい杉の林
よく見ると左下に赤い物が見える。まさか監獄赤どじょうか?
篠津村にあった囚人の墓にお参りをする。
基本的には無宗教で神かまうな仏ほっとけなのだが
頭を垂れる。
寒かったせいもあるが寒気がした。
監獄があった38年間の間に1022人が亡くなって親族に引き取られた人数は24人いた。
今の時代と一概に比較するべきではないがおや少ないと感じた。
当時の東京から見た北海道は今のシベリア並みなのかも知れない そう思うと引取り手が少なくて当然と思うのといわゆる犯罪者を出す家庭の多くが裕福とは思えないので数字的にはそんなものなのか
ただ樺戸郡の人達が北海道を切り拓いた人達をこうして墓を作ったのは
亡くなった人の数や葬った場所さえ分からん利益優先の民間会社のタコ労働者とは明らかに扱いが違う。
民と官の違いを見てなにか救われる感じがしたしミンミンと蝉の持った印籠のように一方的に思うのは間違いと気づく
釧路跡佐登にあった安田財閥経営の硫黄鉱山に貸し出していた囚人は坑道内に便所も無いうえに硫黄ガスというあまりの環境の悪さに契約途中の明治21年7月に全囚人を引揚げさせて
空知幌内煤田にあった炭鉱に貸し出していた囚人は明治27年12月に財閥の反対運動にも負けずに全囚人引揚げに成功してる。時の典獄は大井上典獄と教戒師は原胤昭
朝9時過ぎに集冶監に到着
今日は一日掛けて再度見るぞと思ったが
なんやらカーテンが掛かってる、近づくと12月から3月まで休館と書いてある。
なんてこった俺のやる事はどこかに穴が必ずある。
回りをぐるぐる何回も回ってると火付け盗賊か怪しいと思ったのか
人がでて来た。
見に来た事を告げるとすみませんと言う。
クッソ~前回来た時に探しても見れなかった梅干しで作った数珠の実物をこの目で見たいと言った。
「 ではこちらからどうぞ 」と言って見せてくれた。
極限の中に救いの梅干し数珠を見て感動し涙が出そうになった。
前回なぜ見れなかったと言うと建物の構造で地下連絡通路を通ったからで一度表に出て入り直す入口にあるので見落としてしまった。
説明してくれた役場の方に来年開館になったらまた来るとお礼を言いながら
今度来る時はホタテでも持って来た方がいいかなと思いながら去る。
12月2日の空知地方は青空で凄くいい天気だったが冬の青空は何かあまり好きにはなれない
靴下も手袋も買う事が出来なかった道徳本町の通りを思い出す。
ラジオでは山を越えた留萌増毛地方は大荒れ天気と突然の積雪で交通が乱れてると言っていたが
帰ろうと思った。