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1月17日は上記念にベースキャンプを作り霧平トンネルを作る為の雪崩調査に2日間の予定で山に入り上記念に戻った時に車のラジオで震災を知った。


くつ塚
ここは伊勢湾台風の被害者が一番多く出た海抜ゼロメートル地帯で大江川のすぐそば
ここから歩いて1分程度の元塩町4丁目の二畳半矢作アパートに伊勢湾台風の4年後から一年超えて住んだ
当時はアパートの壁に水害の証明の様にクッキリと跡が残っていて
学校は南光中学でNHK中学生日記の舞台になった学校で先生は実在の先生でホントボロボロの校舎で二階に上がるのも怖かった。
さらに夕方になるとコウモリの大群が学校に戻って来るわで北海道にはいないコウモリを初めて見た俺はいつチ~吸われるかと恐怖のどん底だった。
南光中学の卒業アルバムは何処に行っても顔写真が載った唯一の証明なので今でも持っている。
学校も被災地の中心だった為か生きているかたまに顔出せと言う程度で
辛うじて立っていたアパートには海抜ゼロメートル地帯で家賃が安かったからか様々な人が住んでいて
その日のメシの種に日雇いの仕事を笠寺観音のテキヤの手伝いからネジ切りと学校にも行かんで食う為になんでもやったが
日当は早朝から夜暗くなるまでやって200円が相場だった。
大江川は満潮になると汚い港の水が逆流してくる川ですぐ傍の大きい工場は製鋼所だと思ったがカーバイトなども大量に捨てられていて拾いにいった。
そんな中でも高度成長期だったせいかそんなに皆に悲壮感はなかった様な気がする

俺には共有と言う言葉は無い
それは男なら他の人を引きずり込むなと言う思いもあり どんな境遇でもまずは自分の精一杯の努力の上に共有があると思うのだが
「 ニイチャン頑張れょ 誰が見ていなくてもお天道様は見てるょ 」
とどれほど言われた事か
いまはすっかり変わってしまった名古屋に沢山のものを捨てて来た。
俺の中にもし共有と言うものがあればそれは自分の為なのだ

17日は早朝から年始の挨拶に231を通り札幌に

俺は思うのだがこのクソ寒い中鼻水たらして眼もショボくれた旗振りオヤジに止まらずに右に出る時は必ずウインカーを出してやるべきだし停止線に余裕を持って止まるべきだと思う。
それでないと運転手が自分を確認してるかどうか確認のしようがない

帰りは遠回りして一度行ってみたかった市場に 色々買って来た。

古い市場は自分が立っていた場所の確認なのか懐かしいのだ。

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