留萌本線留萌発

月曜日は昼12時18分留萌発 深川行の汽車に小学校もろくにゆかずに母親と一緒にカツギ屋をやって魚を売って歩き家族を育ててくれた 歳の離れた姉を誘って留萌深川間を往復して来た。

姉とは小さいが初めて旅で意外な話を初めて聞く事があり もっと早く一緒に乗るべきだったと思った。
魚をガンガンに入れて運ぶカツギ屋は昭和30年前後に冬の間にやったそうだ。
ガンガンに干し魚を入れて担いで 
ホッケの開き大3枚で米一升と交換が当時のレートだったらしい 当時はコメの価格は今より良かったと思うが今のレートでは開きホッケ一枚 150円程度になる2倍としても一枚300円 留萌の南岸にゆくとホッケやサメやカレイ、タラなどは野積みであったので安かったとは思うが干して運んでと大変な苦労があっただろう事はわかる。
ガンガン売りも条件のいい地域や時期はすでに縄張りが決まっていて そこに踏み込むと怒鳴られたり脅されたりと酷い目にあったらしい
農家回りのカツギ屋は行も帰りも荷は軽くなる事はなかった。 

昭和30年頃に商売が没落した当家の主はプチ失踪し残った母親は後発組で農村地帯でも条件の悪い所と悪い時期しかゆく事は出来なかったそうだ。
姉は小学校5年生頃から始めたが深川から妹背牛に向かって農家を一軒づつ回って歩き
妹背牛周辺がシノギの場だったらしい
当時の深川駅周辺は大変な賑わいで冬道を少しでも荷を軽くしたい姉達は深川駅を降りた右側に子熊を飼っていた店があったそうだ
その店の側でこっそりガンガンの蓋をあけて置き
それを見た駅の乗降客が姉さん幾らと買って呉れる事があったそうだが
そこで商売をしてる事が地回りにバレたら酷い怒られたそうだ。
小さな子がいるとよく売れるらしく小さな子を連れて歩く物売りや棒手振りは何人か居たらしい 
戦後10年前後の大変な時代だったろうが人情、情というものが残っていたのだろう。

姉は字もロクに書けん勉強大嫌いな俺とは違い頭も良く字も綺麗で学校こそ行かなかったが何時も勉強していた。
その姉は今でもどこかに劣等感を持っている。
それも男のくせにプチ失踪を繰り返す良い処の出と称する辛抱我慢の足りないオヤジのせいなのだ。
 
その姉が留萌駅で列車から御用カゴをガタイのいい男に何かを言われてホームに降ろされた事があったらしい 
それは60年たった今でも恨んで覚えていたのだろう。
だが
その男はきっと戦争で辛い事を一杯経験しただろうし息子か娘を失っているかもしれん
カツギ屋をやってるくらいだからいい暮らしをしてるとは思えん
その時に年端もいかん息子娘に近い子供が真冬の原野に向かうとしてたなら
真冬の原野には行くなと御用カゴを降ろしたかもしれん
当時の汽車は雪でよく止まったのは峠下の急な坂道に二か所あるトンネル付近ではなく碧水や北秩父別付近の吹さらしの平原が多かったそうだ。
その男は真冬の平地平原の恐さを知っていたのだろう。

苦労の連続だった姉に今の俺がもしその列車に乗っていたとしたなら俺も行くなと言ったかも知れん
と言ってみた。

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