臆病であれ臆病者には油断は無い

月曜日は札幌に行って来て何処も寄らずに一目散に戻って来た。
今日はまた札幌に行って手稲前田の住宅街でクレーン作業 電話線や光回線をぶった切らない様に細心の注意が必要 下見を先月済ませたがなんか恐いぞ~光回線一本切ったら3000万らしい

津軽高野山 つがる市木造吹原屏風山
手の結び方で宝処菩薩、宝印手菩薩などとそれぞれ呼び方が違う。

ド田舎の商人の俺は思うのだが商人(あきんど)は自分の意思を伝える言葉が大事でムッツリダンマリスケベみたい奴は商人にはなれない
その言葉を誰に伝えるか 伝えたいかを絶えず模索し続ける。
ボートを買おうなどと言う大金持ちはそれぞれに一家言がありハイそうですかなどと素直な性格はしていない
ではどうするか
ボートを下見に来る時には大概は複数で来るので説明や接待をする相手はボートを買う本人ではなく一緒に付いて来る人にも説明をわかる様に丁重にする事が大事なのだ。
それが相手が子供であっても会社の社員であっても同じで
銭は持っている欲しくて欲しくて仕方ない相手に説明や接待をしても頭を冷やさす為にも 後になって後悔させない為にも時間が必要になって来る。
初対面から決まるまで3年などは普通にある。
永い付き合いになるその為にその場で決める事はさせない
その際は自宅に戻ってもっとも大きな援軍になって呉れるのは一緒に来て呉れた人なのだ。
一緒に来て呉れたお客さんやお子さんには大変申し訳ないが
「 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ 」
貴方は馬なのだ 馬殿、誠に愛すまん

コロナになってから初めて聞く言葉が多すぎる。
ソーシャルナンチャラから始まり横文字使えば学があると思ってるのかバカの極み
あげくには人流である。
なぜに人の流れと言えないのか
人と言って一区切りする時に初めて人が浮き上がる様な気がしてならないのだ。

いまの状況は映画を鵜呑みにする訳にもいかんが八甲田山死の行軍と同じでバカな指導者に付いて行った者はクタバッてもう一方の指導者に付いて行った者は無事に目的地に着いた。
「 天は我を見放した 」
と言ったセリフがあるが最初から無謀な計画には天は見方はしていない

冬山や海と危険な現場が多かったので多少は人様よりは多く生死の境を見て来たが
後になって気付く事はその状況に至る何日も前から下手すりゃ何ケ月も前から伏線があったりする
生と死の境目はほんのコンマ何秒と言う判断の間違いがあったりと
あの時にこうすれば良かった あれはやってはいけなかったと後悔をし続ける事が多い
どうしてか助かる分岐点は何度もあったのにその隙間を縫うようにしてスルリスルリと通り抜けて命の危険に近づいてゆく
遺族に許されるなら数例の実例を一部始終を書いて公開したいくらいなのだが
どんな事をしても戻って来る事はないし俺の筆には限界がある。
言える事は日々一生懸命生きて
その後何があっても誰のせいでも後悔をしない事ではないのか

人間界で危険を避けるのはお互いの意思の疎通が大事で
その意思の疎通は言葉で行われる。
ガスーよあんた達の言葉にはなんの意思も責任も感じないのだよ

臆病であれ臆病者には油断は無い

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