第十話 文ちゃんと大盛りラーメン

ある日突然、旭川のN病院から呼ばれた。
そこでは俺の名を呼んでいる人が居るとの事。 
まったく知らない人ではなかったので駆けつけた。

そこの三階の集中治療室で見たものは・・・
真っ暗な部屋で、頭から体から管を繋いだプレデターかエイリアンかと思うほどの人だった。
俺は気を失いかけたのをかろうじて踏ん張った。
病院は大の苦手で、どれくらい苦手かと言うと、注射をされるくらいなら車で跳ね飛ばされたほうがよいと今でも真剣に思うほどである。

なぜこんなに注射や病院が怖くなったのかと言うと、ひとえに親の育て方がまずかった。 
それにはまず、生い立ちから話さねばならない。

俺は木の股から生まれ、家のすぐそばの、留萌市五十嵐町から神居岩へ行く橋の下で拾われたらしい。 
そのまま一度は通り過ぎたのだが、あまりにも不憫なので拾ってきたと、毎度大層大げさに、お袋は恩を着せるのだった。 
その時お袋は、ヤマサ醤油の前掛けで涙を拭くのを忘れなかった。
それにしては兄貴と俺は顔がソックリだが。 

貧乏暮らしだったので、娯楽と言ったらお袋の怖い昔話だった。
メシをあまり食べない嫁さんだから経済的ともらったら、本当は蜘蛛で、最後は亭主が食われる話は圧巻だったな。
怖え~ぞ~。

愛知県の小牧に田県神社があるが、その神社を初めて見たときは合点した。
そこの神社は子宝神社として有名で、神社のそこかしこの木の股に子宝祈願のお守りが置いてある。 それも丸いのが二つとデカイのがで~ん、とあちこちに置いてある。
う~ん。
お賽銭箱は石で出来ていて、小銭を入れるとチーンと言うのである。
嘘だとお思いの方は、確か春先に子宝祭りがあるのでどうぞご覧あれ。 
どおりで俺の本籍は生まれる前から愛知県だと、ここから俺は生まれたのかと一人納得したのだった。
この神社にお参りはしたが、賽銭が少なかったせいか実子はいないが、実子以上の子らに囲まれて幸せです。

木の股から生まれ、橋の下から拾われ、当時留萌に毎年来ていたキグレサーカスに売りとばすと言われ、酢を飲まして見せ物小屋でろくろ首にするぞと言われ、それら親から受ける様々な危険を回避しても、最後は病院に連れて行って馬用の痛い~注射!を打ってもらうぞと毎度脅された。
 
昭和の35年頃、いまの高砂町や五十嵐町がまだ原野二線と言っていたその辺りは、今の農協があるそばに農家や馬喰(ばくろう)の家が点在しており、馬が沢山いた。
そこではたまに馬に注射をしていた。
一本がビールの350ミリリットル缶を縦につないだ位の注射をしているのを目撃してからは、なんぼ悪ガキでも一発でおとなしくなると言うもんだった。 
あまい蜂蜜をなめたくて原野二線にあったハチの巣箱をかっぱらい、ハチに刺されてひどい目にあった事もある。

毎度毎度、木の股から生まれ、橋の下から拾われ、キグレサーカスに売り飛ばすと言われ、酢を飲ましてろくろ首にしてやると言われ、馬に打つ注射を打って貰うと言われ、耳にタコが出来るほど聞かせられて育ったら、注射恐怖症になっても、なんも不思議はないと思う。

それだけ嫌いな病院なので、暗闇の管を見たら気を失ってもこれもまたなんら不思議ではない。
そのN病院の集中治療室で、昏睡状態なのに勝手に人の名前を呼んでいるお姉さんがいた。 
俺にとっては凄い迷惑で、病室の前で気を失いかけた。

無理矢理意識を取り戻し回れ右して帰ろうとすると、病室の外にはそのお姉さんのご主人がいた。
今も誓って言うがなんの関係もないのである。
手を握った事も無い。
何を言っているかハッキリしない昏睡状態の時、たまたま似たような名前の俺が呼ばれただけだと考えている。
そのお姉さんには、まだ小さなお子さんと、大学に行っているお子さんと合わせ子供さんが三人もいた。
そしてご主人のKさんに、そばに行って見守ってくれと頼まれた。

いままで色々な人生を経験したが、気持ちが震える様な男には会った事がない。
任侠映画の世界では、義理だの人情だの男の中の男、男同士の友情みたいなことを言うが、そんな男はまったく居ないのである。 いなくて珍しいから話になり映画にもなる。 もしもそこら中にいたら、話にもなんにもならない。 いたとしても、相手の心を自分の器で斟酌出来るだろうか。
砂に落ちた針を探すのに等しく、宝くじに当たるより少ないと思う。
ついでに言うが義理と人情は相反するのである。 
そんな今どきの世界でもKさんは男に感じられた。
普通なら、どこの馬の骨かもわからない男に自分の嫁さんに声をかけてくれとは、はたして言えるだろうか。
だがKさんには、どんな事をしても自分の嫁さんを今の状況から連れ戻すのだという強い意志がありありと感じられ、これが「本当の男の姿」とその時強烈に感じ、その後の生き方を教えて頂いたのだった。
どんな気持ちで、今、俺に頼んでいるのかと思った。 生きてこその嫁さん、その為にはどんな事でもするという強い信念がビシビシと伝わってくるのである。

根性無しの俺には絶対に出来ない事なので、回れ右して帰りかけたが、Kさんは桜のマークと飛び道具を持っているので、回れ右も許されない。 ただただ集中治療室の入り口で回復を願ったのである。
お姉さんはご主人の看病の甲斐あって元気になられたから良かったが、もしもの事があったなら、先に行って露払いせいと言われるのでは無いかと考えて、眠れぬ日がその後一週間続いた。 
その昏睡状態から一週間後に意識を取りもどし、俺の命も繋がったとほっと安堵した。
今持って人違いだと思うのだが・・・。

Kさんとはその後転勤まで5年間、何度も逢うことがあったが、会話らしい会話は無くただ黙ってメンチを交わすだけです。 
現場第一主義を貫き、第一線で制服を着て今も勤務している。 静かな闘志と、当然飛び道具を持って。
燃える様な情熱は、大概の場合は辺りに一方的な思いこみによる多大な迷惑を振りまき、大事になると当の本人は居なくなるのであるが、毎日繰り返される普段通りの市井の生活の中に、これほどの静かな闘志をみたのは初めてだった。 
その二年後、偉大な父親を持った次男坊「文チャン」は、就職を探している時に某なんとかの出先が募集している所の面接に行き、即その場で内定を貰い、内定祝いとその日のうちに会社で焼き肉をゴチになり、皆な義理と人情を大事にするいい人ばかりだと感激して帰ってきたのでした。

当然のごとくにオヤジKさんにケリを入れられ、反抗している最中に修行の為に増毛に来ることに。
増毛でホタテ漁師の出面(でめん)さんの仕事をすることになる。
「だけどな~文ちゃん、普通な~、真っ昼間の仕事中に、田舎ならいざ知らず都会で就職内定祝いに会社で焼き肉やらないしょ」。
文ちゃんは、偉大な父と某有名進学校にご在籍の兄君と弟君に囲まれた一家の中では、一途でチョッピリ不良でおバカな子でした。
大概の場合は、出来のよろしい兄弟とか堅い仕事を持っている親御さんがいると、次男坊は割を食うのである。

増毛のホタテ漁は、稚貝出しと言って、ホタテの子供を大きさ2センチ位まで育ててから北海道裏側のオホーツクの流氷が去った海にまく。 オホーツクの海で取れる地撒きホタテは、殆どがこの辺りで取れたホタテ稚貝だ。
春の一ヶ月半だけ海がナギれば、ホタテの稚貝を海から上げて大型トラックに乗せオホーツクの海に運ぶのである。 

ここからオホーツクまで約6時間、カゴに入れた稚貝を待ちかまえた漁船に乗せ一時も早く海に戻さねば稚貝は死ぬので、回帰率は時間が勝負。
浜を走っているトラックは、こういったトラックが多いのです。
現実は、遅い車は回帰率が悪いと判断され、イコール失業です。
荷台に海水抜きのホースを垂らしたトラックが後から迫ってきたら、左にウインカーを出し道を譲ってやってくれませんか。
二車線は、法規にも書いてある通り遅い車は左寄りを走りなさいと書いてあります。
海がナギさえすれば、毎日、増毛だけで大型11トン保冷トラックが12台一斉に走り始めるのである。 これが一回の作業行程で一回戦と言い、多い日は二回戦有り、一回戦は朝3時半から始まり、朝8時まで続くのです。
このホタテ出面は増毛の浜の皆さんの出勤前の大事な臨時収入です。 
浜の出面さんは、約30キロあるホタテ稚貝の入ったカゴをトラックの荷台に順次積んでいくのですが、最初は楽ですが段々と高くなるので辛さが増してきます。 最後は自分の背丈より高くなります。 若い人でも初めての人は朝来て昼に逃げ出すのはごく普通のことです。それくらい厳しい仕事なのです。

さて都会のうらなり瓢箪の文ちゃんに、ホタテの出面さんが勤まりますか。 
結論から言うと、最後まで立派にやり通したのである。
一ヶ月半二畳半で暮らし、自分で洗濯などをして。
文ちゃんはうちのラーメンが大好きで、毎日大盛りラーメンとドンブリメシをバクバク食い、一ヶ月半で筋肉も付きたくましくなって仕事で精神も体も鍛えられました。 考えるのが面倒臭かったらこの仕事も立派な仕事で、なんでも体を動かして稼いでいさえすれば先が見えてきますよ。
もうすこしです、文ちゃんがお父さんの事が理解できるのも。 でも文ちゃん、本当はお父さんと同じ仕事をしたかったのでしたが・・・・・。
文ちゃんは、浜での一ヶ月半の辛く厳しい出面さんの仕事が終わり、 たくましくなって家族の元に彼なりの勲章と
家族へのおみやげを持って帰って行きました。 

このホタテ稚貝出しが終わると増毛は遅咲きの桜が満開になります