トヨタ博物館から再び岐阜へ


1886年 世界最初の実用ガソリン式内燃機関自動車ベンツのレプリカ

驚くべきはデファレンシャルギアも付いていて2000年代の車とハンドルが棒で操作するくらいで基本はさほど変わってはいない
旋盤が発明されたのが1780年代で大きな物を加工できる工作機械が世に出て来るのはそれから100年後の1880年代になる
さほどの工作機械が無かった時代に一品づつ手でヤスリ掛けし作った根性に頭が下がる。
機械工になると適正と根性を見る為にヤスリ掛けとドリル研ぎをさせられるが
何が辛いと言って朝から晩まで何日も立ちっぱなし作業が一番辛かった。


丁稚に入った当時故障が多く嫌と言うほど修理をさせられたマツダキャロル
構造が複雑で皆が嫌がるので丁稚でも触る事ができ結果として早く技術習得が出来たと思う。
当時としては画期的な水冷アルミエンジンブロックと現在では普通になってるINとEXマニホールドが左右に分かれていた。
泣き処はマニホールドが左右に離れていた為にエンジンが温まるまで時間が掛かる事と吸気温度が上がらなかった為に加速が滅茶苦茶悪く市内走行では中々三速に入れる事は出来なかった。


これもよく修理した2サイクルエンジン
構造が単純でお客さんを待たせておいてピストン交換をやった。

西郊通り居た時は近くに日比野中央市場があり近隣の蟹江や弥冨からミゼットに野菜を積んで来た。
国道一号線六番町から西に曲がると西郊通りになり日比野の卸市場に野菜などを持って来る野菜農家のミゼットや三菱S4やマツダB4などがガタガタの石畳電車通りに入ると満載の野菜を荷台から落としていった。
住込みや部屋住は早朝通りを竹箒で掃くのが日課でガタイも良かった俺は野菜などが落ちるのを監視していて落ちると
「 待て~待て俺が見つけた~ 」と言って他の丁稚達を押しのけて俺が一番拾った。
野菜はカツれた育ち盛りの丁稚住込み連中の胃袋に入っていった。
当時は隣が材木屋で南隣がタイヤ屋や小さな工場や床屋があって周辺の丁稚達は髪が伸びると仕事が終った床屋に行き住込み見習美容師の練習台になった。
その隣が病院で何かに付けて生傷が絶えず潰して骨の見えた右手を治して貰ったりと
痛いと言ってるうちはクタバランと元軍医殿の凶暴な院長先生にはお世話になった。

元塩町から道徳本町、内田橋、西郊通りと流れて行ったが西郊通り時代も詫びても詫びても足りない時代で
修理工を辞めて西郊通りを去ってからさらにドロップアウトしていき
どうか関わった人達が今は幸せにいて呉れますようにと願っている。
絶対に出逢う事は無いだろうが岐阜に入って何処かで醤油舐め舐めニイチャンに出逢ったなら俺でさえ生きている頑張れと言ってやりたい


トヨタ KC型 トラック
戦中から戦後に作られた全浮動車軸
これも基本は今も何も変わっていない
昔の車を見ると天才的な人が居て現在も中々超える事を出来ないでいる事がわかる。
トヨタ博物館をまだまだ見たかったが展示車を触る事は許されず これ以上見続けていたら車の下に潜って見そうになるのでお別れして


愛知県で片言の日本語を話す台湾人か中国人かわからんが作った念願の台湾ラーメンを食う。
ウェートレスのおばちゃんに岐阜はどっちと聞くが言葉が通じない、片言で
「 ゴメンナサイコトバヨクワカラナイ 」と言う俺の地元でも外国人が労働者として働いてるが
もうこれだけ地球が小さくなったら外国人だの何人だのは無い
そんな了見の狭い事ではこの狭い地球で暮らせない

愛知県は1キロ走るのに平均4分掛かる。
ここから八が30年住んでいた処まで3時間で行けるが様々な思いもありやめて予定通り岐阜を目指す。
ガキの頃から住んだ名古屋市を迂回する様に走るのだが様々な事が脳裏をよぎる。
皆は過去をどう清算してツラこいて生きてるのかと思うが、
「 ツラこいてる 」それは無く皆必死に鴨の水掻きなのだろうと思う。
俺の様にグズグズ言いながら手を油で汚しメシの種の職を持って生きてゆくのもひとつの長生きの選択肢なのかもと思ったり
一日生きたら平均300円を貯めて何処かに寄付する様にしてる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA