五畿七道

江戸時代と明治時代との大きな違いのひとつに五畿七道と言う区分けが大きく変わった事だ。
江戸時代の五畿七道は関所によって人の往来も制限されおよその区分けは山々の常によって分けられ文化もまったく違う場合もある。
それが明治新政府によってトンネルを掘る 西風に逆らい上る事が出来る蒸気船によって東京にゆく事を主に考えられて道の再編が行われて東京に行く道は上り
遠ざかる道は下りと言われ現在でも成田空港に降りると東京はすぐ行けるがすぐ隣の茨城に行くには簡単には行く事は出来ない
そうして江戸時代後期にも見られる中央集権化を図った結果が今回のガ~スと二階だか三階だか知らんが中央の役所によって地方にまで広げられた人災に繋がってゆく

震災前の岩手県浄土ヶ浜を船上から見る。

山々の常や川が人々の往来を妨げて文化も変わる
それは今回の様な疫病が出た場合の自然の防波堤となってゆく 後半になっても岩手に感染者は出なかったのは地政学的なものが大きかったのではないかと20年ほど東北の隅々まで回って歩いて思う。
三陸リアス海岸を持つ岩手県は各地に車でゆくのも大変な集落や地域が現在でも沢山あり
その交通の不便さが地域内の持続可能な物流と生活圏を作って来た。
じぇじぇの小袖集落はよほど行く気がなければ通り越してしまい行くにしても急で狭い車一台がやっと通る坂道を降りて行かなければならない そんな処が東山道陸奥の圀 現在の岩手には沢山ある。
良くなる時はゆっくりと悪くなる時は加速されるのは世の常
これからさらに強力な疫病が襲って来るだろう そうなった時には船上火災の様に隔壁の閉鎖が必要になってゆく
ここに住んでやや28年ここ崖下村には船の解体船台もある為にニュースにならないだけで船上火災の船を数度見て来た。
なぜ自分は助かったのか隔壁の閉鎖それは誰の犠牲の上に助かったのかと最後まで自問自答し苦しむ姿も見た。
その人達は町の健康診断にもいかん悪くなっても病院にもいかん ただただお迎えの時期をジッと待っている。
そして意識が朦朧として家族に看取られて壮絶な人生の最後を迎える。
2年間人の裏を見た修羅場を一緒に過ごし泣いて笑った。ある船の機関長Kさんは医療を拒否して焼酎を呑んでゆっくりと旅立った。
外を歩く時は糊の効いたシャツをパリッと着て地面を蹴る様にして洋式歩行で歩く姿は忘れる事は出来ない

呑み屋が未来の子供達にツケを回しても休業補償が欲しい足りない
なにを甘い事をと思わずにいられない
もう現在の都市の限界は来たのだ地方だけは残せ 往生際が悪いぞサッサと隔壁は閉じろ
と田舎に住んでいたら思うと同時に五畿七道を思う。

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