ノスタルジックイン留萌

港で待ち合わせをした。
待っていた相手はここでしか生きてゆけないと思わせる相手で親方から離れたら生きていけないだろうと思わせる連中だった。
親方は明るい元町でガキの頃から知ってる若い親方だが
仕事帰りの一杯か大きな鞄を小脇に抱えて夜の街を歩く姿に
頼って来る奴らの為にもいつまでも元気でいて呉れょと思った。


一面が真っ白な雪で覆われる冬が過ぎて春が来るとアチコチからゴミの山が出て来る
そのゴミの下には港湾荷役に使われた線路の一部がある
それももうすぐ雑草で覆われて見えなくなってしまう。

どんな人間にも心の何処かにゴミを抱えていて何処かに仕舞っていてふっとした時に出て来るのを押さえながら生きているような気がしてならない。
地域性がありそこから出なければ普通の事として過ごして居られるものを外に出たばっかりに
上を見てしまったばっかりに元に戻る事すら出来ない
それでも足掻いて足掻いて日々を暮らす人達の中に安らぎを覚える時がある。


大和路地トンネルビルが解体された。
 
この狭い場所に何人も何十人もの雑多な悲喜こもごもが詰っていたのに
こんな狭い場所だったのかと驚いた。

ここには昭和35年当時は路地トンネルがざっと4本ほどあって中でさらに路地に繋がっていて今でも二本が残っていて通り抜けるにはチョット心構えが要りそうな雰囲気がある。

35年当時は右側の階段を上るとさらに路地があった。


通りを挟んだ別のシマ
この界隈を離れて東に渡り北海タイムスと加地外科の間にあった闇米屋でたった一合の米を買う為に走り回った子供達がいた。
どんな奴でも食って生きてゆく権利はある、だが同じくどんな相手にも生きてゆく権利はある。

2 thoughts on “ノスタルジックイン留萌

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA