階段につぐ階段

ここ十日間はほんと忙しかったし ここに居たら階段などに上る(のぼる)事など数年に一度くらいしかない
なにせ役場にしか階段はないのだ。
それが上がったり下がったりと何段上ったのかと言うほどここ数日で上がり下がり多かった。
階段は上ったら必ず降りなくていけない 下がったら必ず上がるそれが人の道なのだ 
上がりっぱなしの階段は拘置所にしかない

先日ある場所の階段を上っている時に向かいからやたら細身でスタイルのいい一団が幅一杯に広がってドッタラコッタラとしゃべりながら降りて来た。
声を聞いて中国の人と思えた。
俺は絶対に避け(よ)ないと決めて端を上っていった。
最初の数人がぶつかりそうになったが後は一列になって道を開けて呉れた。
俺は自分より年下を先に歩かせる事はしないので
後ろにいた道案内の連れに
「 なんだよ~避けて一列になったべゃ~話と違うべゃ~ 」と半分拍子抜けして言った。
連れは
「 中国は戦争で置いて来た子を我が子として育てて呉れた国です 」
「 日本人にそんな事は出来るんですか 」と
俺は後ろに山崎豊子でも居るのかと思って振り返ったが
そこには人には語れない苦労を乗り越えた まだ若い連れが立っていた。

若い時は白か黒か勝つか負けるしかない生活だった
上には上がいるといつも用心して暮らす生活にふと嫌気がさして河岸を変える決心をしたが
なんか物足りない生活でまた変えるを繰り返し住民票を12回も替えてしまったが
いま若い時の生活態度を振り返るとなんとま~半端な生活だった事かと・・・・・

次は10年振り以上で役場の二階に階段を上ってアッタラコッタラと言って下りる。

翌日は数年振りで Iさんに逢えるとの事でススキノで酒を呑む事に
世話になった本当に世話になったが その席で顔を見かける事はなかった。
数年振りでススキノから宿まで地下鉄に乗ったがなんか色々思いだした
一つにはまだ年端もいかん子が夜のススキノの雑踏で見かけると家に帰れと言いそうになり
そんな上っ面な自分に悲しくなる。
さらに八つ当たりであの地下鉄のしゃべり方が気に入らんのだ。
あのアナウンスは
「 次は天王洲アイル 次は天王洲アイル 降り口は~ 」と聞えこそうだった。
大井で人を探し続けた数十年前を思い出す。結局は生きて再会する事は出来なかった。
奴のどこまで時間を遡ったら その時の分岐点は右だったのか左だったのか 
身を一つかわすだけだったのか数百年前にすでに決まっていたのかと

この同じアナウンスしゃべり方なんとかならんのかと思った。
もう都会で生活は絶対に出来ないだろうと思う
自分が壊れている事にすら気付かんその大変な都会で働いて日本経済を支えてる乗客になんかもっと面白い話でも出来んのかと思ってしまった。

早朝に宿を出て市場に朝メシを食いにゆく 

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