今日一日で一年の区切りが終る。
たんなる区切りとは思うのだがこの年末になると
何処かに不義理はしてないかやり残した事はないかと歩くのもおぼつかないほど疲れる。
本当は機械物を作る仕事をしたくて一時期やった事があるが
乱暴で整理整頓が出来ない俺には無理と諦め
人様の作り組立てた機械を分解して元通りにする修理工になった。
それでも失敗を沢山して来たが助けて貰ったりお目こぼしで半世紀以上を好きな機械を触って来られたが
趣味なのか仕事なのか今になっても人の仕事を見ると勝てね~なと思う。
滅多に行かない銀行に行くとネエチャンにニーサーとやらをしないかと進められる。
西効通り7丁目6番地で修理工の丁稚に入ったが周辺の町工場の戦後日本の物つくりを支えて来た、オヤジや大将が
夕方になると今日はあ~だった、こ~だったとアチコチの町工場から通りに出て夕涼みがてら路上にチョークで説明書きをしていた。
皆は「 そりゃ~こうすりゃ~いいだに~ 」と異業種炉端会議が始まる
その姿がいい物を生み出し作り続けて来たのだ。
町工場の創業者だから銭金を超え時間が掛かっても採算度外視していい物を作る、いい仕事をすると夢に向かって進んで行く事が出来たのではないだろうか
最近は3輪と言えばトライクが流行ってるが先駆けも先駆けの
大正から昭和初期に作られた画期的な水冷前輪駆動 ミズノオート三輪
いい物を作るには時間が掛かり現在の様に日々の株価で会社の価値を見る状態では
長い目で見る必要があり、いい物を作る挑戦は中々難しい
そんな訳でネエチャンの誘惑に負けずに株やニーサなど不労所得には一切手を出さないでメシが食えて年末を迎えた事は良かった。
実弟の八がコロナの合併症とかで午前中は何でもなかったが今月14日
その日のうちにあっと言う間にジ、エンドになってしまった。
思えば兄貴兄貴と良くも悪くもいつも言って来た一番仲のいい八だったが
40数年振りに内地から北海道に戻って来た浦島太郎は3年前にここ崖下村に居を構えたが
田舎者は都会に行ってもなんとかなるが都会者は田舎で暮らす事は難しいと思った。
まず風で飛んだらいかん物を縛る紐を扱える 物に適した釘を真っすぐ打つ そんな簡単な事すら銭さえ出せばやって呉れる都会とは違い田舎はすべて自分の手と身体を使う事が出来ないとない
そんな浦島太郎を温かく向かい入れて呉れた
この北海道でもうすら寂れた西海岸の寒村と言っていいここの崖下村や町に感謝感謝しかない
俺もここに来て30年になったが田舎で快適に住むには
そこに住んだら自分にとって何があるかと考える前に、
その地域に何をお返し出来るかを考えるのが先に来ないと快適な田舎生活は出来ない
爺婆の毎度同じ話を聞いてやるだけでも充分で
大工っけの有る者は戸板を直し修理屋は戸車に油を差し
手間返しをし続け
「 すまんな~ 」
「 なんもだ~ 」
これで田舎の普通の年の瀬が一年が過ぎてゆき
普通である事がありがたいと思う一年だった。