基本と原則

街のクズにダニは言い過ぎたが今度はボウリングの球で車のテストを言いだした。
ある映画で松方弘樹のセリフで「 神輿軽けりゃ担ぐ方は楽だ 」と
劇中では終わりに「 神輿が担ぎ手なしでひとり歩けるなら歩いてみれ 」と突き離す
大国の大統領が膨大な仕事と情報を抱えてる中でボウリング球の情報は誰から何処からの過程を通り得たのか
この異常状態は嫁か家族か取巻きか誰か道化を演じさせる黒幕が居るのではないかと思うのだが

アメリカといいロシアといいイスラエルといい兵庫県知事といい人としての基本に問題があるような人たちが指導者になる異常事態に落ちてる。


映画のロケ地 呉港

目の前の現象の原因と根拠を探し続けるのが修理の仕事
毎年の事だがこの時期は除雪機の集荷と格納
船の使用前点検と下架で寝る間もないほど忙しいが
さすがに寝ないと意識朦朧になるのでしっかり寝るが今年は特に忙しい
修理の経験上難しい中々直らない故障は意外と簡単な原因が多く
それは意外さゆえに基本を飛び越して難しく考えてしまうと言う盲点があり
そんな時ほど基本に戻る事が大事になってゆく
常に基本があってそれから先に独創性など自分自身の考察などがあるのであって
基本がしっかりしていなければ独創性や新しい考え方などないと言うのが俺の考え方なのだが
基本を飛び越してしまい一週間悩んでしまった。


船外機をパソコンで繋ぎ船内からバルブ駆動やプラグを失火させたりと色々遠隔操作をするが異常は見られず今までにないほど奇麗な履歴データー
何が悪いのか一週間毎日船に通って盲点に気づき解決するに至ったが
今回は奇麗すぎるデーターと思い込みと新しい慣れていないパソコンと部品システムと何重にも重なってしまった。
原因を確認する前に安易に部品交換をする事は原因をわかりづらくする為にするべきではないと思う。


古いパソコンを引っ張りだして再度挑戦し確認してから目視や音や振動など体感点検を繰返す
いつもなら綺麗なお姉さんが乗る船はワーニングデーターも綺麗~などとギャグも噛ますのだが
連休までには解決せんならんと今回は追い詰められてそれすら浮かばない

基本があっての修理業と毎度思わせられる
基本を大事にするのは人間生活も同じだと思う
ひとが嫌がる事は言うな、やるなと、

遠くの親戚より近くの他人

昔はどこにでもいた自分から手を出し返り討ちに合うと泣きを入れる
街のクズにダニそう言う連中は取引と言いながら負け惜しみで恫喝をする


USAマークルーザー

アメリカ製がなぜ売れないのかそれは単純に競争相手より品質や使い勝手が悪いからなのだ
問題が起きた時
俺が言うのもなんだが自罰、他罰、無罰、と広く原因を探し見直す努力をした者がその後も進んでいく事が出来るのだ


三菱コルト1000の発展型 コルト1500 ライトが2灯か4灯の違いで外観はほぼ同じ
名古屋大江工場で作られた。

この車の大きさ15センチほどのステアリングギヤボックスキャリアを毎日毎日溶接して作り続けた
出来高払いで一個組み立てると確か数十円だったと思うが当時の平均月収の3倍ほど貰えた
この頃には日本車はすでに輸出を考慮していて注文があればいつでも左ハンドルにする事が出来るように
ダッシュボードなどもすぐ左ハンドルになるように左右対称になってる車が多く
少量注文にもさほどの費用を掛けずに輸出する事が出来た
たまにしか左キャリアは作る事はなかったが手順が違い効率は大幅に落ちた
アメリカで沢山売れ始め1970年代後半には日本車の屋根に上がって大ハンマーを振り下ろすさまが放映されほど売れるようになった。
日本車がなぜに売れるのかを考えなかった事がアメリカの製造業の現在に至ってるのだ。
いまは職人も居ない道具もないだろうと思う

誰しもが収入が安定すると苦労の多い物作りからは遠ざかり利幅の大きい仕事に移ろうとする。
苦労の大きい仕事は後進国に押し付け美味い汁の金融や株などで手数料を吸おうとする
今更苦労の多い仕事に戻る構造にはなっていない
その他国を潰してしまっては自分の首を自分で絞める事になってしまうのだ。
唯々アイツ嫌い、コイツ嫌いと他罰を求めるだけでは先には進めない事を見せつけられているのだ。

怖いのは街のクズにダニと思われる者が選挙で選ばれた事でその国が武器を一番持っている事
今回の件でいい事は遠くの親戚より近くの他人でアジアを大事にする事を知らされた。

あざれあ乗船😿

 
魚大好き男なので必ず寄る寺泊 魚市場 なんか以前より縮小してる感じがするし
角上魚類が一人勝ちの様な印象を持った
なぜに突如としてここに魚市場が出来たのか不思議
わが町は港町なのだが魚専門店が一軒しかない
もったいないと思う狙ってる方向は違うと思うのだが・・・・・・
 
国道402号線 砂丘が続く 太平洋側では砂丘を見た記憶はない

 
関谷分水路 ザップンピュ~と川の水と海の水がぶつかり逆巻く波 川口は潮の満引きや天候で変わる

走行距離 ざっと1200キロ いつもだがスタートは気が走って走行メーターを記録していない

フェリー代       24800円
小樽丸亀うどん       990円
ガソリン石狩 17L   2785円
フェリー ツマミうずら卵  880円
新潟無尽蔵ラーメン     900円
万代島鮮魚センター イカ他 857円
伊藤家博物館        700円
三条ラーメン        1000円
十日町市居酒屋いっぷく   4500円
スナックルーシー      3000円
ラーメン代          850円
佐久ガソリン16.72L   3177円
とよおか道の駅 夜食    1660円
上田市ローソン        381円
コメリ灯油他            832円
ヤマザキマザック入館料    500円
ラーメンショップ          750円
郡上八幡ガソリン17.3L  3160円
郡上八幡ローソン      658円
大野市亀山湯        490円
居酒屋亀平        4645円
日本自動車博物館 入館料 1200円
金沢中華そば        850円
糸魚川ガソリン代 20L   3780円
セブンイレブン 水他    554円
上越きときと回転寿司   3377円
角上魚類         1780円
フェリー代       24800円
フェリー三元豚とんかつ  1300円
合計         95、156円

あざれあ 3月16日昼12時出航
もう一日居たかったが新潟フェリーは月曜日と火曜日が運休で泣く泣く日曜日に乗船
翌朝午前4時半に小樽に着いたら雪が降っていた。

天領の里

もう見たい処は見たし新潟まで海沿いを戻るだけなのだが
新潟小樽航路はドライバー2000円、車22800円で24800円だが月曜日は休みで臨時運休も多いので注意が必要
小松市にはちょっとしたやんちゃな知人が居るが気を遣わせるので後で通った事を知らせる事にして通過
金沢で外まで並んでいる店で昼ラーメン食ったが何処かで食べた感じだがいまだに思い出せない


8号線を北上する何度か通ってる道だが
来る時はあの山の向こうを通って来て そこに人が住んでいるのだと思ったら壁の様に切り立つ北アルプスの山々は凄いなと思った。
この山脈を超えるには糸魚川から姫川を遡上するか上越から妙高を通るかしないと長野には行けない
この山々の何処かに日本版アイスマンはきっといるだろうと思う
この山脈を超える事が出来る様になったのは近代に入ってからで同じ日本でも文化や空気感が違うのは当たりまえなのだ。

地図を見ると糸魚川から148号線は一度も通った事がない何か面白そうだと思ったが断念して今夜の車中泊場所を探して走り上越で夕飯にきときと回転寿司を食った
こっちに来て飲食店や店に入ると北海道とは違うと思う事が多く
はっきり言えば北海道の商いはやはり歴史が浅く粗削りな感じがあり
食うには困らない食料自給率200%でそれだけ恵まれているせいなのか
上越を超えた駐車帯で一泊して翌朝新潟に向けて走る

 

 
北國街道出雲崎 元和二年に幕府直轄領になりそれ以降尼瀬獄門所で数千人が獄門にあったとある
無念仏と思われる小さな石が以前来た時より少ない感じがしたので以前の画像を見るとやはり少なくなっている。
管理をしてる人達の高齢化と勝手に思うのだが
小さな石でも無数にあったと言う事は血縁でないとしても何かしらの縁があったと言う事で
滅多やたらに数千人も獄門にした山々の遥か向こうの幕府はけっこう恨みを買っていたと思うのだが

越後の諸藩は幕末には新政府軍と戦っているので庶民と支配階級は違っていたのだろうと思う
越後諸藩が奥羽越列藩同盟を断っていなければ現代もまた違った展開があったのかも知れないが
それはそれで怖いが悠久の歴史時空をたどると夜空の星を見るような面白さがある

 
出雲崎 妻入り家屋 ここはなんども通っている
旅の一番の贅沢は歩く事で次が二輪車で次が公共交通機関で
車は見過ごすものが多い
若い時は稼がないといけないので時間がない 時間が出来ると足腰が痛い
なんてこった。

日本自動車博物館

 
大野を5時に出発して永平寺に向かい自動車博物館を目指す時間にして1時間ちょっとだが例によってアチコチ寄り道して着いたのは10時だった
 
日本最初の自動車博物館 創業者は前田彰三さんと言うから
加賀百万石前田家と何か関係あるのかと思ったが全然関係ないとの事だった。
莫大な資金が掛かっただろうに北陸の一企業が保持できる事も凄い
 
最初に所有し乗ったスバル初期型 チェンジのH型パターンが運転席側に動かして1速 助手席側に動かして2速と90度横向きだった
右のS4 当時の車はバイクの様にエンジンの上にガソリンタンクがある車が多くオーバーフローをさせると火事になる事もある危ない車が多かった
セルモーターは発電機と兼用でセルダイナモ方式が多く充電性も良くなかった

 
水冷4気筒クロスフローヘッド5べリングと先進的なキャロル 銀行員が集金した銭をシート下のトランクに入れて運んだラビットスクーター当時としては珍しいトルコン仕様
 
T360 軽でありがらDOHCで負圧可変バルブキャブ 右フライングフェザーは走ってる処は見た事はないが
この時代の面白さは定番と言った車はなく各メーカーが好きなように作った時代で面白かった

当時としては珍しい乗用車にディーゼルエンジン いすずベレル
エンジンは組む人によって走りが変わった エンジンを組んだ直後は固くセルで始動させる事は難しく始動に苦労をした
一番の原因はメタルの精度が悪くバックメタルを削って調整したが削り過ぎるとメタル打音などが出た
当時のエンジンは軸受けはボールベアリングよりメタルかブッシュが多く焼付いたり減ったりすると町修理屋でもメタルなど作ったりしたが
手の感覚に頼った職人技が必要で組んだ者の技量が問われる時代だった。
今では電卓で計算してメタル選択をする
 
ダイハツオート三輪 パワステも無くこれを操作する人は凄い腕力だった思う

アホで生意気盛りに事故の借金を返す為に稼ぎのいい会社に移って
毎日毎日同じ物を作り続け朝は手はバンバンに浮腫むほど稼いで借金を返した
後にさらに稼いで21歳頃に所有して乗った三菱デボネア
人生の最大の変り目を経験したがいい車も乗ったので今は動けばなんでもいい
様々な経験をさせて貰った名古屋や愛知県には足を向けては寝られないし
思い出すと恥ずかしい事ばかりで行く事は中々出来ない

亀山湯から居酒屋亀平に

美濃加茂市から郡上白鳥に行って九頭竜湖を通り越前大野を通って日本で最初の自動車博物館に初めて行く事にしたが

郡上白鳥から九頭竜湖までの158号線が冬季通行止めでいったん金沢に出るか敦賀に出て回れとカーナビには出るが1時間で行ける処がそのコースなら4時間掛かる
迂回路が必ずあるはずと探すが無い 九頭竜湖には小さな集落がありそこまで10キロほどの処で行く手段が無いのもおかしい
いったん郡上白鳥の道の駅に戻るがそれにしても山の上から車が下りて来るのはおかしい
また行くとE67号線があるではないか
なんの案内も無いのだがどんどん進む

 
158線E67延長工事中 案内が無いのはこの工事中が・・・ ロックフィル式ダム九頭竜湖
このコースを走ったので夕方には越前大野に着いた
何処かで風呂に入ろうと探した先がここ

明治35年創業で途中で建て替えてるとの事
横に廃材のマキを沢山積んでいた青いトラックで集めるのも苦労だろうに
入浴料大人490円 10円の事なのだが釣銭も用意せんならんのに500円にしたくないと言う強い意志を感じた
子供160円 幼児70円
こう言う主が進める店はきっといい店だろうと
番台の爺様にどこか居酒屋はないかと聞くとしばらくアチコチ探して

亀山湯と居酒屋亀平(きへい)このチラシを持って来た
亀山湯から聞いた言ったら何かサービスしてくれると言う
カーナビがあるなら行けると言ったが心配なのかチラシを持って行けと渡してくれた
まずは寝る処は駅駐車場にして居酒屋まで歩いて行くが
なんと以前越前大野に来た時にそばを食った久ちゃん食堂の隣だった
これも何かの縁と俺には場違いな店構えの居酒屋亀平に入る


入ってびっくり小上がりから椅子席と大人数で満席、中は普通の居酒屋だった
亀山湯から来たと言ったら椅子を用意してくれて座る事が出来た上にいきなりサービスですとズワイガニ半身を出してくれた
 
お勧めの越前の酒を二本呑んでフグ唐揚げやなんやらとたらふく食った。
タコ唐揚げ800円になぜか「たこ八郎」の写真が載っていた
たこ八と言うと太平洋戦争が始まった頃に当時の軍部に退廃と禁止された
高峰三枝子の湖畔の宿を替え歌にした「たこ八」の唄がある

きのう召されたタコ八が 弾丸(タマ)に当たって名誉の戦死
タコの遺骨はいつ還る~ 骨がないから還れない~
タコの母さん悲しかろ

いまのご時世は昔の替え歌と笑ってはいられない
亀山湯とコラボをした50代後半と思われる店主は「たこ八」の替え歌を知っていたのかも、
明治35年創業の亀山湯は日露戦争、日本ドイツ戦争、日中戦争、太平洋戦争と戦地に行く若い人達も湯につかっただろうに
俺が言うのもなんだが次の子供達や孫達に平和を手渡す為にも喧嘩腰にならず我慢辛抱も大事

株と物つくり


俺は株式すべてダメと言っている訳ではない
往々にしていい物を作る人は金儲けが下手でそれは仕方がない事なのだ
何度も何度も試行錯誤をして実験を繰返す それは高価なオシャカの山を作る事になってゆく
オシャカとはお釈迦様から来ていて海外ではスクラップにする事をサンタマリアと言う
どちらも神様仏様に頼む様になったらお終いと言う意味なのだ。

「 ここまでやったら壊れる事がわかった、うんうん 」などと喜んでいるのがいい物を作る人達なのだ
そんな人を理解して銭で応援、支援しようとするのが株の趣旨なのだ
それが現在ではまったく何もわからん奴が売った買ったと金を転がしてハゲタカのように儲けようとするから
長い先を見据えたいい物を作る会社は潰れて行く
その足を引っ張ってる投機連中は株を転売して稼ぐ究極の転売ヤーで株ブローカー
コンサート入場券のダフ屋と株投機と何処が違うのだ チマチマと稼いでいたダフ屋は食い扶持を取られ闇に潜る事に

株を公開していない製造業は沢山ある
ヤンマー、ヤマザキマザック、富士ゼロックス、シチズン時計、サントリー、などなど


物作りの本懐を遂げた山崎製作所創業者どうだこのドヤ顔

「銭は俺に任せてあんたは物を作りなはれ」と本田宗一郎に言った藤沢武夫、
トヨタには大番頭石田泰三と物作りを支える者達がいて初めて事がなっていく
これは国民を守る政治も同じだと思う金儲けがやたら上手で税金を集める自民党、
下々に気配りし税金を使う立憲民主党と
どっちが社長をやったらどっちかが番頭をせんといかんと思うのだが
10万円の商品券の争いに貴重な時間を使い続ける
その真意はやってる感を見せるセコい気持ちはないのか
そんな些末な事は場外乱闘でやってくれと、
そこが立憲が票を取れない原因では
三木武吉は懐にピストルを入れて国会に行ったと言う


国道158号線がなんのコッチャ冬季通行止め 国道だぞ~
新潟小樽航路は休みが多いので銭と時間の都合で日本海に出る事に

ヤマザキマザック工作機械博物館2

アメリカの工作機械メーカーが衰退した原因は大きく二つあり一つは投資家に短期の株価上昇と利払いを要求された事で長い先を見据えた開発と人材育成が出来なくなった事と
その苦しみから逃れる為か
もう一つは流通機構を無視してメーカーが直接販売をした事で売る物が無くなったアメリカの流通機構は
今までのお客さんが必要としてる情報を元に世界のメーカーに機械を作らせアメリカで販売をした事でアメリカのメーカーその物が無くなってしまった。
アメリカの自分ファーストが結局は何もかも失ってしまったのだ
アフターサービスも兼ねた流通機構はクレームのクッション機能も兼ね添えてるので
その地に住んでユーザーと同じメシを食わないメーカーではすべてをカバーする事は出来ないのだ。
これは機械に限らず食品であろうがすべてのメーカーに共通する事なのだ。
次世代に継がせるだけのマージンやシステムを無視したメーカーはいずれ衰退する事をアメリカの機械メーカーは見せ付け
日本でもあのメーカーがと思うような機械メーカーが倒産や撤退をしようとしている
どんないい機械もすべては感情を持った人間が使っている事を忘れたメーカーは衰退する事を
いま現在見せ付けられているのだ。

 
機関車実機もシリンダーは動き運転席に乗る事も出来る T-6実機スケルトン

腹減った~車中泊した道の駅「とよおか」を朝5時に出発してからここまで何も食べていないのだ
少し舐めていて豊田佐吉記念館の様な小さな木造家屋に先代の苦労を語る物がある程度と思って来たのだ
北海道ならどんな田舎でも郵便局と信号機があれば地元資本のセコマがあるが
新潟からここまでの路線はコンビニがないのだ
コンビニが無いのは地元店がやっていけるならそれはそれでいい事だと思うが
何も食べていないで この広い館内を登ったり下りたり何周りもして腹が減った~


ここには送りが10メーター汎用旋盤もあったが画像に入りきらないのでこれを

 
プラット&ホイットニー空冷9気筒 シリンダーやピストン、ホイルなど究極を目指す美しさがあり芸術と言っていい

思うに物を作るにせ、売り子をするにせ、働くと言う事はどんな分野でもそれぞれの分野で究極を追求してるのだと思う
そう思うと殆どすべての人は生きてる事、働く事が芸術家といっていいと思う。

博物館大好き男なので様々な博物館を見て歩いて思うに
展示物も変わり、説明書きも変わり、職員も変わる進歩もあれば後退もあるが博物館は生きている。
だから再度見ても発見があり飽きないで見る事が出来るのだ
その中でも事務所に座ってる人よりは毎日モップを持って裏まで隅々まで知っている人はほんと面白いのだ
モップを持ってる人に声を掛けると博物館が大きく変わる事うけ合いなのだ。
また来たいがもう事故を起こせば名前より先に年齢を言われる年代になったのでこれが最後だろうと
ここから何処に行こうか滋賀に行くか日本海に出るか悩んだが
実は今回だけは旅の行程を詳しく書いたのだが書いたノートを忘れてシマッタのだ。

ヤマザキマザック工作機械博物館

あちこち住まいは点々として来たが勤務先は3回しか変えていない
それも機械関連で本当は何かしら作る仕事をしてみたかったが乱暴な性格から向いてない事がわかって人生の殆どが修理業で
北海道に住んでからは半年も続く冬の端境期に様々な仕事をやって来た
いまでもこれはどうやって作るのだろうと見るもの見るものに思ってしまう
今回の旅行は各地のラーメンを食べる事と岐阜県美濃加茂にある
世界でも珍しいらしいマザーマシンの博物館ヤマザキマザック工作機械博物館博物館を見る事

 
左は足踏み旋盤 右は昭和2年制作ヤマザキ汎用旋盤

 
左はアメリカ製1921年 自動傘歯切り盤  右はベルト掛けフライス盤1927年ドイツ製
動いてる処を見る事が出来る
ここに展示されている機械はマザーマシンなので田舎に行くと今でも使用されている物を見る事がある

 
T型フォード T-6G練習機実機

アメリカには工作機械の父と言われる人が何人もいる
イーライ・ホイットニー、フレデリック・テイラー 、ヘンリー・モーズレイ、
ジョン・ウイルキンソンと

何代もの職人に使われる工作機械は寿命が長く一台買って貰うと次はしばらく無い
それなのに開発や制作には人を育てる莫大な資金を必要とし短期の利益は見込めない業界と言っていい
数秒で株価が変わるせっかちな株式投資と程遠い産業で
アメリカに6大工作機械メーカーがあったが現在は一社も残っていないと言う。
物作りと投機株は相反するましてやニーサだかなんだか知らんが
日銭を自分で汗も掻かず手を油で汚す事もなく
株で儲けようなどと言う浅ましい奴は自分で国を滅ぼしに掛かっているのだ
1988年公開のアメリカ映画タッカーを見るとその辺りがよくわかる


機関車の実物

地下に作られた巨大な博物館で出来たのは6年前と新しい
マザーマシンの精度が悪いと当然製品も悪くなるので温度差の少ない地下に制作工場を作ったのが現在の博物館になっている。
機械を作る機械を見る事が出来てそれはもうワクワクで

国道418号線

日本のマチュピチュらしい佐久は大きな街だった 街飛チュと聞き間違えたのかと思ったが
何も知らない俺には標高700メートルに大都会がある事は驚きで
スノーモービルで冬山資材運搬の仕事を何十年もやったが標高700メーターは酸素が薄い
この場所で車やバイクがEFIになる前に普通に使用出来たと思えないのだが
きっと人は粘り強く忍耐強いだろうと思う

佐久は車も多く通り抜けるだけでも大変で写真を撮ってる暇がなかった
佐久から諏訪に抜けるが標高の標識があちこちにあった。

人が暮らす秘境を探しに千曲川流域から天竜川流域に行く事に
距離にして約40キロこれは凄い事なのだ
信濃川は日本海に流れ込み天竜川は太平洋に流れ込む それは日本海側文化と太平洋側文化がわずか40キロで交差する事になる
この地域には表日本だの裏日本だのと言うのはおかしい両方のいい所どりをしてる旭川や富良野のような地域ではないかと思うのだが
さらに新潟から京都にまっすぐ線を敷いた地域は日本有数の機械工業地帯でもあり有名機械メーカーが点在しながら京都に向かい伸びていっている。


道の駅とよおかで車中泊
車中泊のいい処は夜明け前の一瞬の朝焼けが見る事ができ
町がこれから動き出すその前の瞬間が好きなのだ。

飯田市山本交差点 朝6時半頃 通る車に手を振り続けている
いまの世界の情勢を見ると何かしらせんとイカンとは思うが行動は出来ない
できるこのおじさんは凄いといったん通り過ぎたが戻って手を振り直した。


トンネルだけが立派な国道418号線を通り

トンネルを抜けるとまた道が狭くなる


国道418号線 上矢作 だいたい400番台の国道は全国どこもこんな感じ
ただ厳しい気候だけが理由だとは思えないがで北海道ではこの様な集落には人は住んでいない


国道418号線 モンゴル村 若い時は愛知を中心に工事機械関連修理をしていた時はずっと荒くれ飯場暮らしをして来たが
道路を作る時は先にトンネルを作り出た残土処理を兼ねて道路を作るのだが道が出来て便利になると人はいなくなる
新幹線で言うストロー効果なのだ。
様々な処に住んだが道が出来て便利さ豊かさと幸せはイコールではない