倍尺


大和ミュージアム 9時開館
鉄のくじら館開館まで時間があったので入って見た
俺はこの手の百田 尚樹が好きそうなミュージアムにはあまり興味は無い
戦争は政治の最大の失敗なのだ

昭和30年代に題名ははっきり覚えていないが203高地かなんかだったと思うが戦争映画を何かの集まりでタダで銀映座で見た記憶がある
その頃は食うのと生きるのにやっとでガキのくせして少々ヤサグレていて殴られる痛みも殴る手の痛みも知っていた。
小学生が開館待ちをしている子供達を見た時に大和ミュージアムはこの子達にはどうなんだろうと思った
時間待ちしてる間に何処から来たか聞いてみた呉のすぐ傍の町から来たらしい
逆に何処から来たか質問されて北海道と答えると雪はあるのかどんな処とどんどん質問されて楽しかった。
平和が金で買えるなら買うべきだと思っている
ただ一点はこの子供達を戦争で死なす事だけは避けなくてはいけない
何かを知るそれは未来を予知をする為に大事な事だと思うが
知らないで経験せずにのほほんと一生が終るのもそれはそれで結構な事だと思っている。
いまだに携帯を持たずに暮らしてる人と年に一回逢い呑むが、それで何か不便があるかと言ったら本人いわく何もないらしい
差し迫った危険でもない限りは知りたがって聞かれない限りは教えないと言うのが俺の基本姿勢なのだ。
聞こうとし見ようとした時に初めて聞こえ見える、
それが自分自身にも準備が出来たと言う事なのだ思う。


回天 実艦

これには色々な面でショックを受けた
青図面は回天の物で
地べたに青図を書く意図はなんだったのかそれもどう言う訳か2倍に倍尺されている。
現在はキャドなど使うが製缶ものを作る時は普通は現尺で書くので倍尺はあまりない
わざわざ倍尺で書いてそれを皆に踏ませる意図がわからんキリシタンの踏み絵か
皆が無造作に一番踏む場所はまさしく二十歳前後の若者が100名も死んでいったその顔、身体を入れていた場所なのだ。
この大和ミュージアムを作ったりコンサルした連中の無神経さが知れん
この構図は政治家の無神経や初期の高齢者の落ち葉マークを作った奴の無神経と同じなのだ
立案から制作といってる間に異論はなかったのか
回天を立案し自分では乗る事は無かっただろう青年将校に対する当てつけか
ガイドをしてるネエチャンにこれはひどいと言った、同じ事を言う奴は結構いるとの事だった。
未来は今の延長線上にあり今は過去の延長線上にある
大事なのは今なのだ今の所作がこれではお先が知れる。続く

3月8日 呉


呉駅前通り
呉で呑み歩く為にここのビジネスホテル5500円に泊まって呑んで歩いたが
呉と言えば製缶,造船の街でもあり実在した呉出身が網走刑務所収監中に自身の経験を書いた大量の原稿用紙を飯干晃一がノンフィクションとして書き直したものを題材に深作欣二監督の映画の舞台にもなった地でもある。
造船の街なので赤提灯で多少ヤサグレてデンジャラスな製缶工達に混ざって人生最後に呑んで見たかったがかなり違った。
呉には赤提灯屋台通りがあるのだが観光地化されて、お客さんにはそんなヤサグレた人達は居なくて上品なお方ばかりでした。
他の呑み屋さんではマスターに色々な話を聞けてよかったがショックも大きかった。
何も知らないで呉に来たのかと言われ実際に初めて来るので知らんのだ
人は知らないと言う人に教えたがるのは古来からの人の習性なのだ
無知の知が自分を広げる。

2019年には広島平和記念資料館に行ったが工事中で一部しか見れなかったが工事終了後の姿は見たいとも見るべきでもないと思っている。
俺は博物館は大好きで一度いったら後で不思議が出て再度確認に何度も同じ博物館に通うが
広島平和記念資料館は一度見たら充分で何度も見るものでもないし展示物や写真に慣れてはいけないと思ってる。
そんで今回は呉れから四国に渡ろうと計画したのだが


フェリー乗り場
奥の青い船腹の船がアチコチにあるので何の船かと思ったらコンテナ船のコンテナを降ろした状態があの姿になる事を初めて知った。
ここが凄いのなんのといっかた大小様々なフェリー船が出入りしていて
それも離岸後すぐ全速で走っているで,後ろ向いたら

2004年まで実際に使っていた潜水艦がドデーンと置いてあり中も見学出来るとの事なので10時まで待つ事に
どれくらデカイかと言うと右端の茶色い線が海上自衛隊展示室で3階建てなのだ。
その通りの対岸がこれ

大和ミュージアム このミュージアム自体には興味は大したないが時間も余ってるので入館して見る。
これまた違った見方をしてしまいショックだった

3月7日一路呉に


岡山県


リヤカーか大八車がやっと思う様な道を走る


武蔵の國 作州付近 武蔵がどれほ強かったか知らんが毎度毎度よく対戦相手がいたものだと感心する。
木刀であれ相手は生きてはいないと思う
現代と違い頑健な身体の持主であっても対戦相手もそれを打ち砕く技を持ってるだろうし
武蔵自体は途中でさほど戦いたくはなかった思うが名を上げて知られてしまった時点で
弱気になったらアウトなので引けなくなっていった思うのだが
なんの恨みも無い相手を果し合いで次々と切って行くのは常人で考えられない相当の精神力の持主だったと思う。

よく時代は変わったのじゃ~などと現代も言うが紀元前に古代エジプトとナンチャラ言う国と戦争してから現代まで争い事や戦争が絶えない
人類はバカなのか無能者の集まりなのか加減を知らないのか
経験上酔っ払いと喧嘩大好き野郎とは眼を合わせない事が肝心かなと


今回初めてビジネスホテルを予約してあるのでここから急いで走らなければならない
カーナビをセットして予約時間で走る事にしたが
車旅の面白さ半減


四国に渡るには神戸からと姫路からと尾道から橋を渡る方法とフェリーを使う方法があるが
行った人に聞くと橋は横風がひどく俺の軽ではいけない時もあるらしい事と道が混んでいるのは勘弁なので呉からフェリーで渡る方法を選んだ。

3月7日 是


薬局 宍粟市一宮町福地は揖保川沿いにあり 道中大型店の薬局は見ない
他の商店もこじんまりとした店が多く地域の人に向けて商売をしてる感じがする
店構いより商品の充実が大事だと思うし資本も固定費に掛けるより商品の充実が地域の人も助かる
さらに商売屋は地域のサロン的な役割も果たす事が大事で
何百年と歴史が長い内地はそれだけ家訓や教えもしっかりと伝わって根付いているのだと思う。


山また山


志引峠 三方町からここの峠まですれ違う車は数台しか逢わないがそれでも地蔵さんか墓かわからないが花が差してあり信仰心が厚い事がわかる
山陰は東西に走る道の通行量が少ないが隣町間移動はないのだろうか
商売上は地域内消費が保てるからいいと思うが


山また山また山

宍粟市はかなり広いが林業以外はこれと言った産業は無いように見える
林業も安価な外材に押されて衰退してしまったのか

中々見えずらいが新潟から京都に掛けて直線を引くと日本有数の精密機械の一大集積ベルト地帯があり越後や信州の山また山のベルト地帯にいったいどうなって出来ていったのか面白い
思うに途中で千曲川と名前を変えて流れる日本最大の信濃川が関係してると思うのだが
信州から常を超えて奥美濃には女工さん達によって情報と銭が流れまた一つの流れが出来ていく
ところが山陰には漠然としたその様子が見えないのだ
何故だろうと思う時に日本海側と太平洋側との距離の近さ時間の近さが人の流失を生んでしまったのではないかと想像した。
国是、社是、郡是などとあるらしいが是に生きる
そいで郡是、グンゼ言う会社が綾部が発祥の地でストッキングに特別興味はないがグンゼ記念館に寄って行こうとしたらここも休館日で見ていない
思うに地政学的なものに従いその地の是に生き商売をする事が長く続く秘訣なのだと思う。

3月7日 神子畑銀鉱山


神子畑鋳鉄橋 現存する日本最古の鋳鉄橋 明治16年に作られたが途中で解体復元されている


神子畑選鉱場跡

一円電気機関車 鉱員以外にも周辺の人は昭和62年に鉱山廃坑されるまで一円を払い乗車していた。
銀も石炭も取れなくなったら廃坑も仕方ないのかも知れないが
なにかシックリこない もともとそこで生きていた人達にとっては台風に遭った様な
鉱山で働いた人達は狭い地域で暮らした濃い仲間がバラバラになってゆく
時よ~時節よ~変わろうとままに~かな


銀鉱山跡 右は沈殿槽 銀でも路上に落ちてないか見たが無かった 路銀
不思議なのは北海道と九州は炭鉱は沢山あるが本州には福島だか何処かに一か所あっただけ
石炭は露頭炭があり見つけやすいが銀鉱山がここにあると最初に発見した人が凄い


遥か下に見るつづら折りをやっとこさ登って国道429号線も小型車はこの辺りまででここからはすれ違う事が難しい処が何カ所ある


公儀御用達の林 花粉症の人は絶対来る事は出来ないだろうと思う
俺はあらゆる菌に耐性があるので大丈夫

墓じまいをする人もいるらしいが こうして残る事があってもいいのではないかと思っている
残しておけばなんの縁も無いが見て思いを馳せ拝む人も出てくる。


内地は何処にも人が住んでる
道の駅あさごから三方町およそ30キロ間ですれ違った車は2台くらい
この感じは南にある紀伊半島熊野古道とは全然違いもっと山奥は山陰とはよく言った感じで
同じ空が狭い山間部でもなにか違う
日本海から瀬戸内海まで直線にしてわずか100キロしかないので海産物を流通させる必要もないのか道路も狭い
さらに南北はまだましだが東西に繋がる道は特に走る事すら難しい道があり途中で止まってもサイドブレーキも効かない道が国道でもあった。
百聞は一見に如かずと言うが何の知識も持たず見た瞬間に感じた事はけっこう的を得てるのではないかと思っている。
それも何度も見てる間に見慣れて見失うなう事があると思うので第一印象は大事かなと
俺はいつもズタズタった格好なので気を付けようなどと思ってしまった。

3月7日 国道429号線を西にゆく

山陰但馬道は東西に通る事は古代から想定されていないと想像する。


道の駅 古代あさご
ここは高速道路と一般道と共用の道の駅になっていてやたら静かな道の駅だった
今回の目的地のひとつにさぬきうどんを食う事で四国に渡りたいので開館するまで待つ事は出来ないが周辺を覗き見た。

石棺 実際の大きさかどうかわからんがこの大きな石棺は縄文では見掛けない

目立つ事こそ命の弥生文化の象徴の様な図形


赤レンガ博物館にあった大陸から仏教などが到達した地点の図
やはり能登半島は古代に対馬海流の潮流れと共に日本のひとつの分岐点を作って来た事はほぼ間違えがない
今でも奥地に行くと一定の顔立ちを見る事が出来るがもう人の攪拌が起きてるので今が最後になるだろう
いったい自分の中に先祖伝来の遺伝子の流れや因縁の様なものはどれほど残ってるのか興味がある
自分では気が付かないその流れは極限の時に右を取るか左を取るかと言った時に無意識に自然に出て来るのではないかと思う
これは相当恐い いまアチコチで戦争が起きてるが自分が争いのその場に立ったならどこまで制御出来るのかが恐いが知っておく事は無駄ではないと思う
いままで相当危険な目に遭って来たが概して普段勢いのいい声の大きい者は裏腹に頼りにならん逃げ足の速い者が多かった。
そ奴は自分の知らない気付かない古代からのチ~の流れが~そうさせてるのかも
俺も気を付けようっと!


日本の酷道と言われる429号線をドンドン進む 空が狭い処は農作物の収量は少ない


それでも家は立派で殿様が住む家と言っていいが経済構造はどうなってるのか
瓦だって一枚1000円はするらしいし、この石一個積むにも相当な銭が掛かるだろうに
いまこの経済構造が壊れ始めてると思う
俺の倉庫が今年の暴風雪で屋根が壊れたが後継ぎが居ない為に直す事はしないし
周辺に持ち家がまだ4軒もあるが一軒だけ残しあとは全部壊す予定でいる
その解体費用に壊し捨てる物に数百万も掛かるのだ。
これら豪邸はその地域に代々生きて継いでくれる世代が居るからこそ出来る建造物なのだと思う
新幹線が出来る首都圏に何時間で行けると行った切りになり戻って来なくなる。
山陰の道路の形態が崩壊して地域を壊して行っていると思うのだが
大都会にもそこそこの期間住んだが大都会だけが人間の幸せではない地方には地方の道端の花が咲いた鳥がさえずったと日々の幸せが沢山あるのだ
江部乙出身の岩橋英遠は言った。
「 ふる里とは自分を記憶して呉れる人達の住む処 」と
もうこれ以上早く走り地球を小さくする物は要らないと思う

3月6日 古代あさご


もの凄く気になったのはこの辺りの砂浜の色 北海道では見た事が無い黄色い色をしてる
峰延から三笠に抜ける山道の途中に見掛ける色に似ている様な気がする。


6日は何処も休みで朝から何も食べていない チェーン店は今更なので却下して午後3時頃に舞鶴でやたら書き出しの多い昔のお姉さんがやっている居酒屋風の店
入店お断りの人と書き出しがある
酔っ払い、変なおじさん、うるさいオバサン、言葉悪い人、講釈オジサン
う~んどれも当てはまるぞ~いいのかなと思いながら定食を食う うどん300円と何もかもが安い
きっと趣味でやってるのだろうと思う
公共パブリックサービスは人を誰であろうが選ぶ事は許されないが民間はお客さんを選ぶ事が出来る。
店は来て欲しいお客さんを選ぶ事も大事でその為に店構いに銭も気も遣う
田舎は固定客が多くなるので店構いより商品に銭を投資する方が良く設備固定費が経営を圧迫する例は田舎ではよく見掛ける
食事中は楽しく食事をしてどうしても五老スカイタワーを見て行けと言われ地図まで書いて呉れたので


五老スカイタワー
それにしてもこんな感じの処を軍艦や潜水艦が通って来る事が凄い
自分に都合悪い事は相手にも都合悪いチ~ャンス


175号線を西に向かうとそこら中に白い塀と瓦の家が何百キロと続くのだ
それもセメント瓦などではない高そうな黒い陶器瓦でこの家を相続した者は大変だなと思う
下手な安い瓦に替えようものなら ご先祖様に申し訳ないから始まって世間様が~となるだろう。
いっその事空き家にして寄り付かん方がいいとなるのではないかと要らぬ心配してしまった。


今夜のお宿はここ

食堂はどこも縁がなく スーパーで買った夜食セット

3月6日木曜日


一方通行でない さ~どっち 北海道では見かける事はないが歴史が長い内地は大八車基準の道幅はよくあり
自分が正しいと直感で感じた裏を張り出たとこ勝負の楽しさは一人旅の面白さでもある
カーナビを使うのは道の駅とメシの食う場所検索に使うがそれ以外は無視
車には方角計が付いてあり大体の方角を目指して進むだけ


小雨の中で着いた先が大臣直轄組織の舞鶴海上自衛隊
きっとスパイがそこら中にいっぱい居るのだろうと思うが
スパイが007の様にスパイと一目でわかる事は無いだろうと思うと怪しい奴ばかりで面白い面白過ぎる
ここを犬を散歩させてるオヤジや公園で体操してるオヤジや何か食いながら歩いてる美男美女過ぎるアベックなどもっとも怪しいのである。
俺は若い頃はいっかた職務質問に合う奴だったが和製ケリーグラントかショーンナンチャラに似てたのかも知れない


向かいは海軍基地を再活用した赤レンガ博物館


中はこんな感じ 舞鶴は海軍基地だったせいか水の付く水曜日は何処もかしこも定休日が多くここだけが開いていた。


族滅に遭ったロシア最後の皇帝 ニコライ一家

未来は今の延長線上にあり、今は過去の延長線上にあり未来を予測する為には過去を見る必要があるが
問題は今でたった今はすぐ過去になってゆくほんと今の目の前の事を大事にせんといかんと思う。

3月5日水曜日

翌朝 敦賀フェリー乗り場を出てすぐ正面にある釣り公園 いつもここが定宿だったが
ここを左に曲り突き当たりにも駐車場とトイレがあるのでそちらに移動して車中泊


気になったのは先客の北海道ナンバーのこの車  昨夜から荷物をドッサリ積んで動きが無い
いまは以前と違い何処もフェリー乗り場は時間外は締め出されるのだが周辺には対岸ナンバーの車が長期で止まってる事がよくある。
津軽海峡をショッパイ川と呼ぶ人もいるが
なぜ海でなく川なのか、海は母は成る海と言うくらいで恵みの海でもある実際に一歩海に入れば食糧は沢山あるが
川は中々食糧は確保出来ないし流れがあり渡る事もそう簡単ではない
そう言う意味でショッパイ川と言われたのだと思うが
ここから北海道は1500キロほどあるが34000円あれば一日で着く距離も銭がない為に渡る事が出来ないのか
ショッパイ川は歩いては行く事は出来ないのである
俺はベーシックインカムには反対で欲しい人が貰えばいいと思ってるしタダで貰った銭にまだ魅力は感じない
一応商人(あきんど)の端くれなので銭は自分の手で競争して策を弄して奪い取るのが趣味なのだ。
平和にはなるだろうと思うが
いつか自分が労せずに入って来る銭に慣れて無計画になってしまうのが恐い様な気がする。

家族友人の記憶のある地に戻る計画を立てるその為には戦時中じゃないので入りと出を見ながら辛抱も我慢もせんといかんと思う
それでもどうにもならん時はこの国に生きている者は外国人でも満遍なく消費税を払っているので
この地に生きる者は何国人であろうが 困った時はお上の世話になる事は当然だと思っている
帰りもここから出航したが その時もまだこの車はあった。
大江川沿いを下がって臨港に見える貨物船で密航して留萌港に行きたいと思った事を思い出してしまった。


RORO船着き場の先にある火力発電所ここは何もかもが大きい
海を渡る海を渡ると考えてしまって そうだあそこに初めて行こうと県道141をゆく


なんやら歴史がありそうな 敦賀浜西八幡神社 困った時の神頼みで浜にはやたら神社がある


これもそこら辺にあり赤い字幕が流れていた


ここにもある シーベルト計


原発銀座にある松本零士バス停
いい風に利用されてる自分で始末出来ないモノは作るなとメーテルも泣いてるぜ


狭い海岸を通りの着いた先がなんのコッチャ メシだメシを食いに行こう


なんのコッチャ ここも休み

3月4日出発


出発に際して不安のあるフロントショックを分解して対策をして3月2日出発となったが暴風が続きフェリーが欠航になってしまって
結局は小樽舞鶴間は諦めて3月4日苫小牧東から23時30分発の敦賀行に乗船する事になってしまった。
この予定変更は仕事ではないので全然気にならないし変化を楽しめるが今回は問題が発生したのはガラ携からスマホに変わった事で予約が出来ない!使いこなせないのだ
電話に出る事も掛ける事もまだまだ充分に出来ていない
予約センターの電話は時間外が多すぎて繋がらない もう電話の時代ではないのかも知れんが何か釈然としない
世の中 お客様の便利を考えて紙の請求書もありません集金もありませんとなったが
カーボン紙を挟んで、請求書を書き、切手貼って、ポストに投函して、五、十日(ゴトウビ)には集金に行っていたのが今は一切無いが余ったはずの時間は何処さに消えたのだと?


小樽へ直接電話してやっと予約が出来て苫小牧東に向かい苫小牧で食糧を仕入れて23時まで待機

船内で呑む酒と好物のイカリング揚げとホタルイカ寿司と買ったが
よく考えると何もここ北海道でホタルイカを買う事はないべと思った。
北陸で今が旬のホタルイカを苫小牧まで運んで寿司にして、それを俺が腹に入れてまた北陸に運ぶのだ。
敦賀にいくと毎回アトム回転寿司にいってホタルイカを食うのだがたいして味は変わらん気がするのだ。
今回は食う事と行って見たい処がある それが現地にいって猛烈にショックを受けてしまったが長いので後

欠航した便が苫東に集まり第1甲板にぎゅうぎゅう詰めになって横にしたり縦にしたりと
現場誘導員はいったいどんな頭の構造になってるのか車を見て瞬時に待てとか進めとか横にせとか言っている。
もう職人技と言っていいが毎日夜から働いて他の時間は何してるのか
趣味は囲碁か詰将棋かと思ってしまったが
時間が亥ノ刻からと不規則で大変な仕事だと思うせめて挨拶だけはと


この奥がドライバーズルームなのだが軽や乗用車の何倍も乗船料を払っていっかた乗船してると思うのだが
いったい船室はどんな豪華な構造になってるのか不思議
政治家先生と同じく天井からはミラーボールが下がり酒池肉林の世界がと・・・・・


揺れに揺れて宵五ツ雨の中敦賀に到着
敦賀ラーメン屋台松月で醤油ラーメンを食す美味い
若い店主いわく敦賀はラーメン屋台の発祥の地らしい

食った後はいつものフェリー乗り場の出口にある釣り公園で車中泊なのだが工事中で出来なく
もっと奥の駐車場で寝る事にしたが その光景はフェリー乗り場ではたまに見る光景で
身に詰まされる光景だった。