鴨の水掻き


本業以外でやたら忙しいのと熱い日が続きバテてる日々を過ごしていた。
そんな中で後期高齢者保険書が来たが裏に臓器提供の確認書が付いている
後期高齢者の臓器でも役に立つならと思わんでもないが
散々怪我はしたが産まれてこの方たった一度しか点滴をした事が無い超が付くほど臆病で病院や注射が嫌いで
何の臓器を提供するかと書いてあるのを読むとどうやって摘出するのか
俺が眼を落す瞬間を待ち研いだメスを持った野郎どもがカーテンの陰からこちらを伺って居るのかもと想像してしまい
もうダメで気を失いそうになり未だにサインはしていない
俺の左目は角膜移植すると治るらしいが自分の臓器は人にはやらんが人の物は欲しいと言うのはおかしいと思うので20年ほどこのまま左目は放置しているのだ。
それにしても後期高齢者の臓器など役に立つのだろうか

用事があって何度か旭川に行ってるのだが今回は帰るのも面倒なので泊まって来た

話題の36に行きナンチャラ言う居酒屋で呑んでみた
旭川は日本海側とオホーツク海側に挟まれて両方の幸を楽しめる街なのだ

地方で泊まる時は居酒屋で呑むのだが36は若い子が多く働いてる印象を持った。
若い成長期に酔っ払いを多く見る職業は勘違いをしてしまう一因になるのではないかと思ってしまった。
ボート販売を生業(なりわい)にして来たがカレイが釣れただの釣れんだのと
買って食った方が安いのに言ってる人達だが
ボートを持つ人にはその陰で鴨の水掻きの様に大変な努力をして来た結果で
それを理解出来ないで勘違いしてしまう周辺者が多いのも事実なのだ。

翌朝は前回午後に行った時にスープが切れたと言って食い損ねた緑橋ビルにあるラーメン店に行った
9時に行ってもすでに外に数人並んでいて順番は14人目との事だった
その店のシステムが凄いのだ90歳と言う爺様が先に注文と何処から来たと聞くのだが
一人者には醤油ラーメンを食いなさいと言って進めるが
男女二人連れには男性は醤油ラーメンを勧め女性にはここまで来た意味がないと塩ラーメンを勧めるのだ
全国的な有名店で二人連れが多いので爺様が醤油と塩ラーメンのどちらかが売れ残る事の無いように案分してるのだと思うが
醤油ラーメンと味噌ラーメンはスープを共有出来るが塩ラーメンは別途スープを作る必要がある場合が多いのだ
ラーメン好きは両方食って見たいと思うのは自然な事だと思うので二人連れの場合はシェアして食うのにもいいシステムと思う
何処から来たと伝票に書くのだが え~とそこにはえ~となんだが有ったと言うが
それが中々言葉に出て来ないのでシビレを切らし此方で言ってしまうのだが他の並んでいるお客さんにも同じく言っている
土日だけだがラーメンを作る俺も何処から来たかは聞き参考にするので色々勉強になった
この店の創業者の爺様は北京で生まれ終戦後日本に引き揚げて来たと言った
爺様は誰にでも声を掛け続ける
その声を掛ける事の重要性を苦労の中で得た信念を持っている様に感じた
今年春に舞鶴引揚記念館に行ったので聞いて見たかった事があったが忙しいので止めた。

昨今の商売は儲からなければ地域の将来など構うものかと廃線や廃店にしてしまえと言う乱暴な経営者が多いが
商いを通し働く姿を見せて若い子達とも色々話をかわす事が効率は悪いだろうが儲ける事ばかりでなく商人の務めでもある様な気がしてならないのだ。

隙間

日本の大部分を引っ張る東京都ではないと思うが
都知事選は将来の日本を見る様で面白かった
俺が勝手に思うのは二位と三位に付いた二人に共通するのは隙間の無さだと思う
二人共攻撃は最大の防御とばかり攻撃する事が得意そうでその姿は見た目にも表れている
その攻撃性は己の何を守る為の防御なのかわからないが
その隙間の無さは自分自身の成長を妨げるものにはなってる事に気付いていないのだろうと思う
平たく言えば二人共なんの用事やメリットも無ければ近寄りたくないタイプで
そうなると自分一人で学び気付き学習するしかないが一人の人間の思考回路ではおのずと流れが出来て限界が見えてくる
隙間のない人間はその優秀さによって成長が止まってしまう見本なのである

その自分自身の限界や弱さを隠す為にさらに攻撃性が増してるのだと思う
少し恐いなと思うのは二人合わせて293万、42パーセントの票を取った事で
如何に首都圏の人は土と水の恩恵を受けて生きる田舎から見たら乖離してるのかとこれにはびっくりした
土も水も思う様に手を加えて征服してる様に見える街の攻撃性を象徴してる様な選挙結果でなければいいなと思うのだが


新潟県十日市博物館 土と水でこねくり回して作った土器


ある地方の博物館 う~んチョット違うのではないかと思うのだが
今もこのままなのだろうか

文明も商いも隙間に水が流れ染み込む様にして育って進んでいく

ホタテラーメン再会

海水温が上がりホタテの自主規制になりホタテラーメンが出来ない状態になってしまった。
生貝を水槽に生かしておいてそれを食う直前にさばき貝ダシを取りながらラーメンに使うのだが
他の二枚貝ではラーメンに使う事は素人には難しい シジミラーメンやカキラーメンなどは天塩や釧路ではあるが
カキは食べれない人が結構いる事と熱の通し方で身がこれでもかと言うほど小さくなり
その様はビビった男の様に小さくなり価格の割に見た目がショボくなるのだ
ひる貝も同様で価格の割にショボくなるので色々試したが素人が使うのはホタテしかない
皆んなは二枚貝は痛風の元になるプリン体が多く悪いと言うがホタテは魚介類の中でもプリン体が少なめな食材なのです。

当初から浜なのでと生貝を使った事で今更に冷凍ホタテは使えないので
自分で自分の首を絞める状態を作ってしまった
この間に道内外アチコチからラーメンの価格に見合った二枚貝を取り寄せて試食を繰り返したが
素人が扱い易い貝で誰でも食えるのはホタテと何度も再認識するに至った
漁師さんの努力で生育タナを深い処に移動するなどして昨日から自主規制解除になって今日からやっとホタテラーメンに再会できる様になったが
試行錯誤でラーメンの少ない利益が吹っ飛んでしまった。


ホタテラーメンは成貝二個入りで800円だがお客さんでお釣りは要らんと言う人が結構いるので
世界には食えない子や親から離れて暮らす小さな子が沢山いるので募金箱でも置くかなと思っている

海に来る人

ここの海には様々な人が来る

この子は6年間一度も休まず旭川の小学校を卒業したばかりだったが
皆勤賞を貰えると思ったのが貰えずにガッカリしていた
もう一度ここに来る様に言って賞状用紙を買って俺は字が書けないので達筆なK女史に書いて貰い手渡したが
拍手する面々がいかつい吞兵衛オヤジ連中だったからいい迷惑だとは思ったが皆で表彰式をやった
学校も紙代などセコイ事するなケチるなと

納豆の水戸から来た少年 バイクが壊れ頑張ったがダメで俺のバイクを貸してそのまま水戸まで乗って行き翌年戻しに来た お土産は納豆 元気か修理で悩んだらまた来て

元気か強さを持った優しい男になれ待っとる

サハリン残留帰国2世3世の人達 釣りが上手で酒がやたら強いまたいつか一杯

徒歩で日本一周中寄った青年

旧産炭地の子供達元気良過ぎ

ヒッチハイク途中の少年、東京に着いたか

道内各地のバイク少年達事故るな

去っていく人いま頃どこで何をやってるのか

怪しい少女 誰だったか忘れた
 
記憶に残る若者はまだまだ沢山いる。

「 粗にして野だが卑ではないつもり 」と言ったのは石田禮助
なんでもいいから北海道の厳しい自然に負けない強い優しさを持って元気でやっておくれ

手数を重ねる

月曜日は久しぶり旭川に行って来た
旭川は所々に古い建物が残る街で内地やアチコチ行って感じるのはこの古い建物が残る街は
それは永く維持し続ける為に後継ぎなど人的資源も要る新しくするより大変な事なのだ
古くは北方の守りの為に明治の第七師団から始まり経済と結びつきその名残が永山などの地名や建物に多く残っている
北緯43度46分標高120メートルの盆地にあり氷点下41度を記録している

旭川だけでなく北海道全体に言える事は生きようとしないと生きてはいけない地なのだ
半年雪に閉じ込められなんぼ歳食っていても雪を除けなければお陀仏になり春になった時点で休む間もなくやがて来る冬の為にアリの様に準備をしなければならない
それが内地に行くと北海道の人はよく働くと言われる由縁なのだ
北の大地は生きる為の力が必要になっていく
その力は暖かいノンビリした地に住む人から見たら粗暴粗野に見えるのかも知れない
いま旭川は叩かれ一纏めにして云々と言う人達はその地に立って空気を吸ってから
物事を考えるのがいいと思うのだ
それでなければただのゲスの極みだと

時間も余ったので予てから食べたかった昭和22年創業の青葉のラーメンを食いに行ったが
残念スープが切れて食えなかった
一度思い込んだらラーメン食わずに帰られようかと昭和24年創業の蜂屋に行く事にしたが近くに大好きなトライアルがあるらしいので腹減っているのに先に行ってシマッタ
ニュージーランドから生のまま運ばれるらしい生ジンギスカンは特に好きで食い切れるのかと言うほど買ってしまった
腹減って食品スーパーに行ってはいけないのだ。
蜂屋のラーメンは2度目だが見た目に圧倒されるが実は手の込んだスープで結構癖になる
どうやって作っているのか気になって仕方ないのだ
俺が言いうのもおこがましいが永い事続いて行くにはそれなりの訳があり言葉では伝え切れないまさに手数を重ねて来たラーメンと言っていい

俺は犯罪を防ぐ為に誰でも出来る事は「 ありがとう 」と言う言葉ではないかと思っている
その言葉はここから200キロ北に離れた厳しい自然の中で電柱に登る電気工事屋さんの自然に出る
「 ありがとう 」と言われた時に
なぜかしらその言葉を聞いた時によく言葉では説明出来ないが嬉しかった。

とん寝る

今から25年ほど前の国道231号線は千代志別から雄冬間は夜間通行止めになり
時間に間に合わなければ一度浜益まで戻り国道451線を走り滝川経由で来なければならなかった。
その時に15歳の男の子をトラックの助手席に乗せて石狩からここに戻る最中だった
閉鎖時間には間に合わないのかも知れないので石狩から当別を走った方がいいのだが
目的があって231号線を千代志別に向かい走った

ある地方の都会でどうやって生きて来たのかと言う生活をして来た子は突っ張って突っ張って暴力と非行で生きて来た
その子と夜のトンネルを歩いて見たかった。
当時は厚田から増毛100キロ間は20カ所ほどのトンネルがあり途中のトンネルに女の幽霊が出ると言う噂があった
若い頃に東名高速道路三ケ日から新城間のトンネル建設機械の整備工をやっていたのでトンネルはどんな物かはおおよそは知っていた。

千代志別トンネルに着いた時点で時間切れでゲートは封鎖されていた当時は雄冬まで総延長5キロ間に4本ほどのトンネルがあったが現在は浜益トンネルとタンパケトンネルと名称が変わり途中はカルバートで繋がれほぼ一本のトンネルと言っていい
千代志別ゲートに車を乗り捨て会社の若い子に雄冬まで向かいに来いと言い
幽霊や死後の世界などまったく信じていない俺は怯えるその子と1本目の千代志別トンネルから二人で歩き始めた
一本が1キロほどありトンネルとトンネルとの間に満点の星空と暗い海に操業してる漁船の漁火が見えていた

自分を大きく見せる事でしか生きて来れなかった小さな子の話を沢山聞いて星の話や海の話など沢山話をした
最後の雄冬トンネルで俺のお願いを言った
これからの人生何があっても自分より弱い者には手を掛けないで欲しいとお願いをした
雄冬トンネルを抜けるとナンチャラ組をすでに卒業した若い子がゲートで待っていた
帰りのブルーバードの中で
眠そうな半眼の太った女が立っていたと言い怯えさせた
眠そな太ったトン児はトン寝る
いまは何処に居るかわからないがテレビにも新聞にもその名を見る事はない

一期一会

留萌と旭川
お互いに不幸な出遭いをしてしまった事を考え続け燃え尽き症候群状態になってしまっていた
どちらかにでも先に出逢って見たかったと今でも思っている
自分だったらもしかした避けられたかも知れないと思うのは大きな勘違いだとは思うが
その勘違いをしたままこれからの人生も進んでいきたい

 

5月から再開した土日ラーメン屋がなぜかやたら忙しく素人の俺では店を一人で回す事が難しくなり
折角来てくれた人に丁寧?に接する事が難しくなりグーグル地図から削除したが
なんてコッタお客さんが数人になって
土日しか営業しない店は食材を投げる事態が続く事になってしまった。
筋金入りの貧乏人の俺は食える物を投げる事はひどい苦痛を感じてしまうので
土日で30人分のみ仕込む事にしたが それでも余る日が続いた
しかたね~やとグーグル地図表示を29日から戻した
29日は来客予約があった事もあり食材を3割増しで仕入れたがラーメンの食材は日曜日午後1時の時点で食材がすべて売れてしまいさらに6人の人が食えない状態になって
今年になってスマホなどと言う物を使い始めたがその影響力をハッキリと知った。

ここの辺鄙な場所にあってさらに怪しい外観なのに利益がわずかでも出ると言うのもスマホなどの影響かと思うとなんとなく釈然としないのだが
商いは等価交換が基本なので出した銭に見合ったものを出す事が出来れば現在では場所は何処でもいいと言う事になる。
ラーメンは庶民の食い物なので安ければ安いに越した事はないと考えている
やっとたどり着いた現在は水1リッターに対してハッピーフーズの鶏ガラと丸骨1本 日高根昆布1 シイタケ1 あまった野菜などを使用してるのだが
鳥インフルエンザの影響らしくハッピーフーズの鶏ガラが入手困難になって手持ちの在庫では10月まで営業出来るかどうかわからないが
それはそれで仕方のない事だし本来の目的は達しつつあるので諦めようと思う。


商いは食えるうちは変えるなと教わった俺は思うのだが
何かの事情で食えなくなったら一家で海になどと考えないでラーメン屋をやったらいいと思う。
もうひとつは相手よりいい店構え(かまえ)にはするなと教わった。

インペラ交換

東京湾横断道路建設をしてる時期に千歳一番の飛行機に乗って日比谷に行きその日の最後の飛行機で日帰りで戻るを何度か繰り返した。
帰りの飛行機の窓から見えるいまは風の塔になってる人口島が工事中でぽっかりと口を開けていた丸い鋼鉄ケーソンの中から煌々と灯りが見えた。
日比谷と言えば公園が有名だがその横には東京地方裁判所があり傍聴などと言ったノンビリしたものではなく通った。

日本は法治国家であり多少の誤差はあっても誰であっても法によって守られ法を守る義務がある
何があってもどんな事があっても裁判が始まるまでは被疑者であり既決囚ではない
それをあたかも被告人のように扱に酷いものは人民裁判の様に刑期にまで言及する
それは大きな間違えでその結果は重大な副産物を生んでしまう事に気付かないと大小はあっても犯罪と言っていい
暴風雪で有名になった留萌 数年間の間に事件が続いた地と結び付けてネットなどで報じる人達は
その土地に住むだけで何かしらの因果を探そうとするその様は
必ず副産物を生みその責任を果たそうとはしない
被疑者にも家族が居て その家族が息をする事すら難しくさせ社会から離脱をしていかざる得なくさせる。
その居場所をそれを容認して呉れる反社や組織に寄っていく事でしか生きていけなくし
その結果はやはり血筋だの遺伝だのとさらに追い駆け回す。
自分には一切の実害もないのにネットやユーチューブで曝す事は犯罪に等しいが現在に置いてはその行為が金を得る手段となっている


毎日が忙しく DF225のクッソ重たいギヤケースを外しインペラを点検した。


使用しない時間が多く予想通り圧縮側の曲がりがあり交換しかない
機械も頭も使わないとそれだけでダメになっていく

義務教育もたまにしかにいっていない俺には社会に出てからの方が教えられる事が多く
そんな俺が考える学校とは
小学校や中学や高校は知識の吸収と学び方を学ぶ場で社会に出てからは自分で問題に気付き原因を探し同じ事が起きない様に対処方法を考える場ではないかと思っている
その様はまさしく大きく学ぶ 大学ではないかと
社会に居る者は生涯授業中で大学生でありマイケル・サンデルの言うすべての人はプロフェッサーであり教授であり師の職人なのだ。
反面か正面かはあってもなのだ

作ってやろうじゃないか


上藻別鴻之舞資料館 薪を切る為の直径1メートルほどの刃

平成天皇の結婚パレードがあった年あたりにオヤジは何を思ったのか貧乏のどん底にあった時に
この刃の付いた機械を何処から持って来てリヤカーに乗せて薪切り屋を始めると言い出した。
北海道では冬の暖房の為に金持ちの家では自分で薪を切る事はなくこの薪切り機械で切らせていた。
そこら中が坂の街の中を学校にも行かずに一軒一軒金持ちの家を回る為にオヤジのリヤカーを押して歩いた。
まったなぜか知らん金持ちの家は宮園町など坂の上にあったのだ
どん底の貧乏人の親子が金持ちの家に木を切りに行くのである
羽後本荘の没落名家の出らしいオヤジは長続きせずに止めてしまい機械の借金だけが残り
すべてはこのオヤジが貧乏を持ち込んでいるのだと悟った。
俺は物心付いた時から没落していたので食う事など出来ない菓子を貰えるので結構満足していたが
ケッに当て布したズボンを履いて同級生の深窓の令嬢の家に行くのは嫌だった。


この発動機に平ベルトを掛けて刃を回す
俺は小学校低学年でま~ま~ここまでやったので由緒正しい筋金入りの貧乏人なのだ。

ニュースを見ていて21歳の被疑者が顔を隠し下見て歩いた姿にまだまだ子供だなと思った。
世間に顔向け出来ない罪の大きさや恥を知っているのだ
自分より年下を連れて虚勢を張る事しか出来ない そこにしか自分のアイデンティティを見い出す事が出来ない
その為に集団になると凶行に走ってしまうこれに近い事件は過去に何度もあった
またこれからも起きて来るだろう防ぐ手立ては起きてしまってから罰だけでは防ぐ事は出来ない
未然に防ぐ為には野に放たれてしまう前の義務教育期間に如何に相対するかに掛かっていて
起きてしまってから提灯を付けてネットやユーチューブなどで袋叩きにする事ではない
そうなる前に声を掛ける事が出来る者は声を掛け続けるしかないのだ

朝から晩まで切った薪を金持ちの家のマキ小屋に運んでバス停より少し大きい家に戻ると
家族がいて
原野二線の川を越えた野原には春になると一面に黄色い花が咲く場所があった
野に咲く花は黄色が圧倒的多く
貧乏で食う物も無く母乳が出なかった言う母親は俺を必死に育ててくれた
その母親は黄色は幸せを運ぶ色と言った。
道を逸れそうになったら楽しかった思い出がどれだけあるかだと思うのだが
無いなら作ってやろうじゃないか

みやがわ橋


各種鉱物の見本が多数ある

入館料は無料だがここを見学する時の注意事項は入館すると右手に来場者が記帳したノートが沢山あり読むと面白いがイケイケオヤジがまずこちらにと何処から来たかと書く記帳台がありその横にある募金箱に幾らか入れてくれと言う
屋根が剥がれて直す銭が無いのだろうと思い小銭を財布から出そうとすると出来れば札をとおっしゃるので野口英世を入れた。
そこから見学にあたってと予備知識をと説明が延々とある
五月蠅いくらい付いて来るが博物館大好き男の俺が見てもオイオイ大丈夫かと言う貴重品が多数あった
中でも圧巻なのは・・・・・安全上書かないが


ナンタラ神社の出先らしい賽銭箱に300円を入れると砂金が入ったお守りが頂ける
銭は出してもお守りは買うのではなくあくまでも頂けるのである
イケイケオヤジは身体を張った職業人の傾向で仕来たりにやたら厳しい
オヤジは住友鉱山関係者で
住友と言えば赤平炭鉱である赤平からこちらに移動になって来たらしい
俺はこの赤平と聞くと二日酔いが思い出すほど鬼門なのである
ここで300円を入れようと思ったが最初に野口英世をやってしまい小銭が100円と10円が数枚であとは福沢諭吉のみでさすがに諭吉は手放せないと泣く泣く諦めた
砂金袋を未練タラタラで見てると見かねたオヤジは財布の小銭を全部賽銭箱に入れたら砂金入りのお守りを呉れると言うので頂いた
ここは入館料は無料だが銭の配分を気を付けないといかん


頂いたお守り パンフレット 黒曜石
黒曜石は玄関を出ようとすると持って行けと手渡してくれた
黒曜石はこの辺りでよく出るらしい石器時代に矢じりや包丁代わりに使われていてこの周辺の物はいい物らしいが現在は採掘禁止されている。


みやがわ橋
宮川泰は留萌で生まれ幼い時に冬は寒さも厳しいだろう北海道東部の鴻之舞鉱山に移り住んでこの道を歩いた。
鴻之舞鉱山 銀1243トン 金73トンを産出して1973年に幕を閉じる


俺には経験上の勝手な思い込みだが幼いカラーギャング達も27歳まで失敗や過ちもありながらも弱い者に手を掛けないでなんとかと過ごしたら
守るべき者も出来て分別や我慢も覚えて来ると言う思いがある