プライド

生きる為に食う、ま~それはそれで大変そうだがナース帽のお姉さんが
『 元気になる為に頑張って食べて~ 』とかなんとか言われて食う
食う為に生きる、こちらも中々大変で餓鬼の様でもある。

俺はプライドなんかでメシが食えるかといつも思っている。
プライドをグーグル先生で調べると誇り、自尊心、自慢、満足、と出る
そんなもんでメシが食えるならそんな楽なことはない
銭がないからこそ我慢も覚え自分の手を使い工夫もする。
俺は何処で生まれたかは未だに知らないが物心が付いたのは原野二線でそこは貧乏人が集まる川沿いの湿地帯でアイヌ語でいう潮水の入る葦の生える処、ルルモッペと呼ばれた地帯だった。
そこから東に3~4百メーターほどの処に国策の留萌人造石油があって今はない
現在は留萌駐屯地やホーマックや市立病院がある場所で当時から水道も電気もある広大な社宅や施設があった場所で今でも掘ったら何かしらの物が出てくると思う。
さらに東に7~8百メーターいくと昭和34年に倒産した大和田炭鉱があった。
当時は国の産業統制による黒手帳と言われるものはなく末端の枝葉の者達は辛苦を舐めた者も多くいて同じ学区だった事もあり辛苦を身近で見て来た。
作物もろくに出来ない湿地帯の貧乏人も冬が来る前に大和田炭鉱のボタ山から石炭屑を拾い、
人石からはコークス殻や鉄屑を拾い食う為に街に行って売って歩くをした。
鉄屑にはテツとアカカネ、ニュームとあり赤金は銅など非鉄金属を指しいい金になった。
売る為に持てるだけ手に持ち背中にしょって湿地帯の外の街に行った俺は暴力や力を見せつけられた。
食う為に生きるをほんの僅かだが経験した俺に自分との約束だけは守れと母親に教えられてきた。
それはやがて矜持となり何をするかより何だけは絶対にしないと誓ってきたが
昭和38年10月に冬が来る前に故郷を捨てる決意をしてひとり駅に立った。

そんな俺が現在(いま)あるのはニッサン舟艇部門のI部長やI課長のお陰なのだ。
ニッサン本社もプライドなどで食っていけるかと
どんな事をしても末端の枝葉の為にも生き残って欲しいと願わずにはいられない

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