西方浄土

昨日のお貰いさん タコ 冷凍して置くので春になったら皆で食おう~

15才と言えば食っていくのに忙しくてそれでも、
たまには勉強もと顔出す南光中学でいっかた喧嘩に遭遇していた時だった。
帰りは確か三階だと思ったが当時は伊勢湾台風からなんとか残ったコウモリの巣だった木造校舎と新しく作られた3階建て校舎があって
その校舎に上がり下を見て校門で待ち構えている学校外のろくでなし連中と遭遇しないように
さ~今日はどっちから帰るべ~と考えていた時期だった。
まった授業中も荒れていて授業中に後ろから椅子で殴られた事があって
相手は3年10組 高遠伸で今でもその顔は覚えている。
困るのは大した弱くもないが強くもないのが根に持ち続け一番困る そんな時代だった。

授業は就職組みと進学組みを分けた時代だったがだからどうだと言う事もなく
就職組は座学は無く技術室には旋盤などの工作機械があって自由に使う事が出来
そこで作った文鎮はなんかの賞を貰い北海道に来ても持っていたが ここ崖下村に来てから無くなっている事に気づいた。
鉄扇代わりに作った長い鉄製の文鎮は役目を終わって静かに去っていったのだ。

おかしくないかたった15才だょ
それで勝ちを取らせに行く それを見ている周辺も狂ってると思う。
さらにたった15才の体に薬まで入れてるのだ 薬までいかんでも食いたい盛りに食いたい物を食わせずに当然歳にあった遊びと困難を経験しなければならない時期に
本人がそれを不自然とも何も感じないほど回りも周辺も煽り洗脳して競技に没頭させて負けが込んだり賞味期限が切れたら多くは荒れ野にポイなのだ。

南光中学の西角にあった米屋に米の配給通帳を持たずに
当時はコメの通帳を持っていない者は警察に捕まると言われていたので
夜に恐ろ恐ろ、たった一袋の米を買いによく行った。
その為に学校帰りには米屋の前を通る時は米屋にキッチリと挨拶して通るのが常だった。
なぜかヤミ米だったのか米が小っせい紙袋に入っていた事を鮮明に覚えている。
3月15日までにはメシ付きの部屋住みを探さなければなく
問題児だったので学校に貼ってある求人票を見ては西側は工場地帯が多く自分で毎日毎日歩いて新幹線ガード下をくぐり道徳本町から内田橋を渡り自分で面接に行った。
拾って貰ったのが西効通りの会社で16才にひと月前だった。

つい最近までオリンピックは新聞配達をしながら競技をしてると思っていたが
もうオリンピックは見るに堪えないのだ せめて年齢制限を設けるべきではないのか

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA