262の法則 独解

戦争は恐いウクライナがモスクワにドローンを打ち込んだのは
ハッキリと見える形でロシア国民に戦争をしてる事を見せつけてしまった。
もうこうなれば善悪や事の端緒はどうであれ負ける事は奴隷にされると思わせてしまったのだ
国民に負ける訳にはいかないと思わせる事は銃後の守り体制を作ってしまい国民総動員体制になってより長引く事になって行くだろう。
こうなれば攻めても守ってもろくな事にはならないで命も物も無駄に失いながら消耗戦になりどちらかが力尽きるまで進んでいくのだろうと思う。

これは小さな夫婦喧嘩でもストリートでも起きうる事でことの発端は本当に些細な事で離婚まで進んでしまったり傷害事件にまでになったりと
後で喧嘩の発端はなんだったべ~と思い越すと返事しないとかガンを付けたとかでその後に大きな禍根を残す事になってしまう。
これを防ぐには自分自身の中にも2割の真剣と6割の適当と2割の不真面目さが必要かと

この会社経営でよく言われる262の法則は誰が言いだしたか知らないがパレートの法則とも似てるが
10匹のアリの中に働きアリが2匹で6匹は適当に働き2匹はサボってるらしい
一所懸命働くアリ2匹を排除すると6匹の中からではなくサボってるアリが働きアリに代わるらしい

一人の人間でも思考全体があまりにもひとつの事柄に真剣になってしまうと少しでも自分の思ってる状態から外れると対処や制御が出来なくなってしまい思わぬ方向に行ってしまう事は良くある事なのだ。
自分自身でも若い時は自分の思っていた事と少しでも違う事が起きるとすぐムッと顔に出たりして相手に嫌な思いをさせた事が沢山あった申し訳ない 懺悔

これは何事にも真剣に一生懸命頑張る人ですよ、などと評価される人が突然キレたり新興宗教などにどっぷりハマってしまい行き付く処まで行ってしまう人が多い様に思うのだが
プーチンは遅くはないすぐにでも止めるべきでそれで大勢の命が救われる。
過ちては改むるにはばかることなかれなのだ。


上野国立科学博物館 縄文か弥生か食い物が無いと父ちゃんが母ちゃんから攻められるの図

この時代なら食い物さえ獲ってくればほぼ百点だったろうが
この情報過多の時代には世の中を適度に渡り歩く術(すべ)を身に付けなければならない
それがこの歳になって2割の真剣と6割の適当(適して当たっている)と2割の不真面目さだと思う様になった。
俺は遅いけど


可愛いネエチャンからお手紙付き手作り弁当を貰ってしまった。
目の前の港で可愛いネエチャンが自分で釣って作った小鯵フライとイワシの煮付け
人生は銭金ではないと思いながら食って特別美味かった。

 

無能の人


広島平和記念資料館 とばっちりを食うのは末端の市井の人達

4年前に現在の状況はなんとなく想像出来てもう長距離運転は出来なくなり内地に行く事はないべと思ったので
人として最後に広島平和記念資料館を見ておきたいと思って舞鶴から広島に行って来た。
常に出たとこ勝負の人生だったので下調べはしない
2019年に広島平和記念資料館行ったら工事で一部のみを見る事が出来たが
俺の無能さと無知はなんとなく自分でも知っているが無能と無知は全然違う。


俺も大やけどを経験してるので火傷の苦しさは少しだけわかる。

広島平和記念資料館を見てから人間ってあまり頭のいい動物ではないと思った。
結果を考えない傍若無人な行動は便利になると人間は退化する事を証明しているのにそれを自覚していない事に問題がある。
この21世紀にロシアのたった一人のバカ野郎の為に現在も人が毎日消滅していっている。
そのバカ野郎のおよその行く末は見えているが
規模は全然違うが一橋大出のたった一人が破滅へと導いたのは大ナンチャラ家具でこちらもたったひとりの経営者の為に優良企業が8年で終末を迎えてしまったが
現在は資産を引き継いだナンチャラ電気の経営者が黒字化に成功している。
これらは無能を自覚していない無能で経営者や指導者としてはもっともふさわしくない者で
無能な両者ともに自分を過信して周りにも自分に近い考えやヨイショする者を置いた結果が破滅への道を歩む結果を招いてしまったのだ。
耳も眼も左右両方にあるのにだ。

この毎日が頭上からは太陽でクソ熱く 下からはアスファルト舗装の照り返す熱とに挟まれた
両面サンマ焼きグリルの様な道路に立ち旗降ってる人や工事関係者のアニーやお姉さん達が幸せと思える日々を作りだす人こそ真に有能な人なのだと思う。

俺は一度も外国に行った事は無いがなぜかコーカソイドからモンゴロイドまでと外国人との付合いがあるが知る限りでは会釈はしない
日本には離れていても意思が通じる会釈と言う文化がありクソ熱いなかで働く人の脇を通る時に会釈をする事は
その人を少しでも幸せにする真に有能な人なのかも知れない

信じる者

7月に胃の血管がブチ切れて食事制限と禁酒が続いた。
先生に胃の画像をプリントして貰い
酒呑みに誘うなと店に貼って置こうと思ったけど
ダメと言われてしまった。
食事制限が3週目に入った頃テストに一合ほど呑んだが大丈夫でメシもそれなりに食える様になったら
反動かメシを焚かずに外食ばかりしている。
先週は滝川のとっぴーに回転寿司を食いにいったが定休日で魚ベーに変更して食って来た。
ネタはとっぴーが勝ってるが魚ベーは魚ベーなりの良さがあり結構食った今度は魚ベーのラーメン410円を食って見ようと思う。

月曜日は以前幌加内でラーメン屋をやっていた兄~が滝川に移転したので食いに行って見たがやはり美味かった。
午後の閉店間際に行ったのでお客さんも二組ほどで
麺は3種類を選べ俺は基本醤油ラーメンか塩ラーメンを食うのだが
それにコッテリとあっさりがあるので組合せが12種類にもなる全部食うとなると滝川なのでやや一月は掛かる。
幌加内の店に行ったのは一回こっ切りだったが昔バイクで行った事を告げると店主の兄~に幌加内の話など色々話を聞いた。
何事も完璧や完全などはありえないのだが
この業から離れた何気ない話をどれだけ出来るかがメシテロを防ぐカギになる様な気がしてならないのだ。
20代前半の頃に不始末で出来た借金を返す為に包里で毎日毎日同じ物を1年半も作り続けた
その時は右手はこう置き左手はここに置きと効率のみで身体の動きすら決められラインに並んだ。
最初の頃は毎日疲れ切って朝には手がむくんで起きる事すら大変でただのロボットと大した変わらん日々だった。


滝川にメシ食いに行く途中の牧岡

好き放題にやってる北朝鮮がなんで攻められないかは莫大な戦費のコストを掛けて攻め込んでも何も得る物が無いからなのだ。
振り返って日本を見た時にアラブの様に石油が出る訳でもなく何か金になりそうな鉱物資源がさほどある訳でもない
もし日本に財産があるとしたらそれは人しかいない人が財産の国なのだ。
小競り合いはあってもそんな国を莫大なコストを掛けて占領して見た処でサボタージュに合うのが落ちなのだ。
その唯一の財産の人の一挙手一投足をマニュアルで縛る様な人間味を感じさない商売体質がメシテロを招いているのだ。
親も子もあるかと言うヤサグレた奴はそこら中にゴロゴロいるが
ヤサグレた奴に高額な賠償金など無い物は出せませんで終る。
これを防ぐには相対する相手や接客に如何に人間味を出せるかに掛かってると思う。

スシロー民事訴訟は裁判前に和解が出来ないか事前に双方に調停が始まるがそこで賠償請求額は過去の例から当然大幅な減額があり得る事が示される。
現実の賠償額はせいぜい100万~200万程度にしかならんだろうと思う
知らんけど!
それならお互いに他の兄弟や家族のメンタルが壊れてしまう前にスシローも公表せずに和解した事は良かったと思う。
あとはヤカラしてしまったニイチャンはグレたとしても実害を被る人は当事者以外ではほぼ居ないので
きっと良くなると信じてやる事が日本の唯一の財産である人を育てる事に繋がっていく
信じる者と書いて儲けと言う。

神様仏様

神も仏も幽霊も信じていない俺は神も仏もそれは人の心の中にあると思っていて
困った時に速攻で助けが必要な時に頼むのが神様
じんわりとボチボチ未来が良くなる様に滝などに打たれて修行して頼むのが仏様と
俺が思うには神様は現世利益(げんぜいりやく)で仏様は将来利益が多いのではないかと思う。
本当に困った時に手を差し出して貰い助かった時などはその人が神様仏様なので
神様も仏様もすべては人の間(はざま)にあると思っている。
その神様仏様を感じる事が出来ない日々は裏返すとまだまだ幸せな事なのかもしれません
神様も仏様も人間なので結構いい加減で助けてと言わなければ素通りもするし
まだまだ苦労が足りないと判断すると遠巻きに見て通り過ぎるかも知れない
神様も仏様もすべては自分の内や人の間にあり殆どすべての人が神様であり仏様ではないかと思うのだが
当然神様仏様にも例外もあるが・・・・・・


月曜から金曜日は修理作業をするのだがDF船外機はよっぽどの事がないと故障は無いので台数はあるのだが保守点検が終れば暇なのだ。
たったこの画像範囲の故障修理に最新型と旧型のパーツリストを見比べ部品番号を見ても違いが判らず画像に撮って何処が違うのかと何度も見比べて分解して寝ても覚めても考え続け作業完了まで三日間も掛かってしまった。
考えている時に声掛けるな電話するなとモンキーやスパナを投げてはいけない仏の修行が足りないのである。

教訓 簡単な単純な原因ほど決めつけてはいけない柔軟に一歩引いて休んで見る事が大事


土日はラーメン屋で月曜日からはラーメン屋の余った食材で生活をする。
余ったカキと漁師のオヤジから貰ったホヤと綺麗なお姉様から貰ったお握りを食す
ただ茶碗に入れた白米は沢山食べれないがお握りは沢山食べれる。
このお握り文化は日本が世界に誇る文化だと思う。
俺にとっては皆さまが神様仏様なのである。
ナンマンダブ~ ア~麺

琉球与那国泡盛どなん


誰か知らんが琉球与那国泡盛「どなん」が土曜日留守中に玄関先に置いてあった。
メモも何もなしこの宅配ボックスには名前も記載なしで様々な物がドデンと置いてある。
先回はセコマのビールひと箱が炎天下にドデーンと置いて在り暫く預かって置いたが持主はわからず皆で呑んでしまった。
せめて何かしらのメモでもあればと思うのだが どなん


25日には八の納骨も済んで一安心
俺は自分だけの墓ならその辺りの石に名前だけで充分なのだが墓を作ると言い始めてから次から次と自分も入れて欲しいと言って来たのでこんなに立派になってしまった。
墓は一種の広告で
そこそこに雑誌広告原稿を書いて来た経験から広告はこれから買って呉れる人も大事だが自分の店で買った人達に「なんだあんな店で買ったのか」と言われない様にせめて恥を掻かせない事も大事で
佐藤隆太も被害者と言っていいと思うのだが

俺はやりたい事はほぼやったし常に現状を受入れると言うか流されるタイプなので小言は多いが常に満足して暮らしているのでいつでもOKょ~状態なのだ。
ひと安心して隣の墓碑をよくよく見ると陸軍工兵上等兵とまでは読めたのだが
画像に撮って寝倉に戻って画像を見ると旅順203高地明治37年12月8日戦死と書いてあった。
重機も無い設備も無い時代にこのひときわ大きい墓碑を立てるには当時は相当な銭が掛かったろうと寄付などあったのか全額自費で立てたのか
息子が戦死して喜ぶ親がいるとは思えないが軍神の親として悲しむ事も許されなかったのかも知れない
旅順203高地は司馬遼太郎が秋山兄弟の旅順攻略を題材に「坂の上の雲」を書いた。
他には北海道にもなじみがある高田屋 嘉兵衛 を題材にしたのが「菜の花の沖」である。
司馬遼太郎は一時期総理経験者が一番好む愛読書となった時期もありその他の執筆も国の指導的立場の人向けの小説が多く
江戸城は誰が作ったかと問うと司馬遼太郎は徳川家康と言い藤沢周平は農民と答えると言われた。
後に司馬遼太郎は自分の文筆活動に疑問を持ち始め執筆を止め下々の暮らしを見る「街道をゆく」紀行文を書き始める。
もしかして司馬遼太郎はこの墓碑も見たかも知れないが先にこの墓標を見たら司馬遼太郎は「坂の上の雲」は書かなったかも知れんと思った。
隣に自分と回りがチマチマ食って平和にその日が楽しければいいやと言う墓を作ったので
上等兵殿が怒ってこちらに倒れて来ない様に拝んで来た。

The Last of the ryo

ここに来た30年前に初対面で知らない奴にまで、ryoちゃんと何人かに呼ばれてびっくりした事があったが
嬉しかったここを終の棲家に決めた。


神も仏も幽霊も信じていない俺が墓を作って完成した。
ガキの頃はその日のメシも食えない その後は夕方になったら今夜は何処に寝ようかと言う生活も経験したので夕陽など見て綺~レ~などと思った事がないので場所選びは西向きはやめて東向きしたが狙った訳ではないが背後に後光が~
いままで数回海の散骨を頼まれて生前乗っていた船の操船をした事があったが
俺は海に散骨されるのは嫌で樹木葬も嫌なのだ生きた証を残したいので管理費の要らない
公共墓地に墓を作ったが手入れをしない墓は撤去すると書いてあったが
後継ぎがいない墓を税金を使いわざわざ撤去はする訳はないのだ、それは倒れた墓や大きな木が生えてる事からもわかる。
黄昏て数年後に消滅もありそうな町でも何かの事情で撤去などとあるかも知れんので
撤去など不埒な事を考えたらこの小じゃれた白い石の下は全部分厚いコンクリートで
費用はかなり掛かる様に作ってあるのだ。
八も俺も銭が仇の人生だったので完成前に払い早速週明けに墓開きと八の納骨をする
私も入れてと言う希望者も数人いるので死後の世界はハーレム状態なるのは間違えないのだ。
ナンマンダブ~ 色足是食う~ 右の頬を叩かれたら左の頬を叩け~ あらーは偉大なり~


内田橋 ここに三カ月ほど暮らした。

脳科学者じゃないけど人間はトコトン追い詰められたら脳内で記憶を消し去る事が起きるのではないかと思っているが
現代はSNSとやらナンチャラでそれすら許す事なく追い詰めていく社会になっている様に思える。
俺もこのブロブを書く様になってから記憶を甦る事が多くなってシマッてほんと皆にどれほど世話になって、迷惑や不始末をして生きて来たかを突然思い出し詫びで済むとは思えないが過ぎた事と耐えてる。
それでも書くのは見ていて呉れてるかはわからんが多少若い子達と関わりを持つようになって俺でさえ生きていると言いたいのだ。
能面は見方によって泣き顔と笑い顔が一緒になってるそんな感じでトコトン困ったら笑って誤魔化せが俺の信条でもあるのだ。
脳はそれを許す構造になってると信じている。
知らんけど

夏は海を走り回り冬は雪原を走り回りとやって来た俺の血統は絶えるが今までの人生でゆったりなどは無かったので悠ったりと悠大な暑寒別岳の麓で季節季節を味わって笑っていきたいと思う。
数人に俺には心が無いと言われて来てそれもあり悠の字を選択したが
他の墓にも一文字は多いが思うに最後のあがきで自分に無いものを書いてる様な気が~
真実一路を貫き通すなどは人間の一生ではあろうとは思えんのである。

もうバイクやスノーモービルで野山を走り回る事ないだろう
The Last of the ryo

恐い夢を見てしまった。

ずうっと少しだけ知った川でのイカダの事をなぜすぐ員数点検は行われなかったのかそんな事を考えていたせいか夜中になぜかモービルではなくクレーンを水没させてしまう恐い夢を見て起きてしまった。
冬は30年以上各地でスノーモービルを数台使いチームで物標の無い湖川や平原や冬山に測量機材や物資運搬をやって来たが一寸先も見えないなど何度か窮地に落ちいた時には仲良しクラブでは脱出は出来ない船頭が必要で
それはメシの数から来る野生の勘だったりする。
その平時と違う勘の様なものを持つ者は普段意外と目立たない処にいる事が多く平時に声が大きい者はあまり役には立たないのは常識
黙り者の屁は臭いのである。
大昔コンバットと言うヒューマンテレビドラマがあったが その中のリーダーは少尉ではなくサンダース軍曹だった。

 

朝起きると堤防に必ずムラサキウニが乗っている。
この堤防の向こう側はテトラがあってそこにはウニやアワビやイガイなど浅海水産物が多数ありカラスが取って来てこの堤防で食ってるのだ。
いつかは横取りをしてやろうと思ってるのだが食ってる処はよく見るが取って来たばかりの処は見た事がない
この辺りのカラスはハシブトガラスが多くクチバシは10センチほどありそうなのだが潜る事が出来ないカラスがどうやってウニを取ってくるのか面白いのだが取る瞬間も一度も見た事がない
あと数万年もすると鵜の様に水に潜るかも知れない
その時に確実に言える事は人間は弱くなっているだろう。
たった数年前はカーナビなど絶対に使わないと言っていた俺がいまでは無しでは困るので頼り切っている。
携帯だってもしこれを無くしたら仕事や生活を戻していくには相当の月日が必要になるだろうと思う。
以前はかなりの数の電話番号を暗記していたのが今では自分の番号しか知らないし暗算が出来なくなっている。
これが暗算が出来なくなってるだけなら、まだいいが思考力まで落ちて来ているのではないか
最近の犯罪を見るとチョット考えたらすぐ捕まる事はわかるし割に合わない事もわかるのに思考力が停止した様な事件や事象が多い
文明は確実に人間を弱体化させているのはほぼ間違えはないだろうと思う。
そういえば青鼻垂らして国民服の様な服の袖をテカテカにして棒ッコ持って走り回っているガキも見た事がない
現在に生存していたならコロナなどどこ吹く風でそこら中を走り回っているだろうと思うのだが
何処に行ったのだ。


土日朝からビールと日本酒をガバガバ呑んで浜の別荘に帰る旧産炭地から毎週来て毎週同じ事を言ってる酔っ払い石炭コンビ
人生ってほんと様々だなと思う長生きしておくれ
俺も含めて酔っ払い達の為に、美味い酒を呑む為に土日ラーメン屋をやってると言っていいので30食売れたら充分なのだ。

断捨離

千葉からは3年振りで来たと言って呉れる人や埼玉から毎年旅行に来て呉れる人が立ち寄って呉れたりと
その為に出来る限りラーメン屋は開けなくていけないので土日は汗だくなりながら時間短縮でラーメンを作った。
いつもの吞兵衛がA市からやって来たがいつもなら反射神経で宴会に入るのだが流石に今回はお付き合いは止めた。
そんでもガキの頃から稼ぎ続けたがゆっくり休む口実が出来て少し嬉しい


こんな物から

DF225馬力付き 45ノット超え こんな物まで終活で処分に困っている。
あとはバイクが若かりし頃レースで乗っていたモトクロッサーなど7台ほどや鉄アレ~や多分武家の由緒あるだろうと思う道端で拾った鉄瓶や鉄釜など山ほど持っている。
他に倉庫や家が2軒とバンガローが二棟
捨てるのも銭が掛かるご時世であ~あ~なのだ。
銭も物も持ち続ける事は出来ないが人との交流や思い出はいつまでも持ち続ける事が出来る素晴らしいものなのだと思うようになって
困難があればあるほど後になったら笑い話に出来るそこが血が通う人間でAIとの違いではないかと思うのだが

昨年久しぶりに28年ほど前に逃げられた元嫁さんから純国産のウナギが食いたいとメールが来た。
メールの陰に うな亭 わがつのウナギ重を一緒に食したいと言ってる様な深読みは奈落に落ちるので
天然ウナギは高いだろうから1年待ってくれと
鉛筆程度のウナギの子を三重から取寄せて1年半で3匹が水槽で丸々と育ったが
「 情が移り捌く事が出来なくなってしまったので申し訳ないが吉野家のウナギ丼が美味いらしいからそこに食いに行ってくれ 」
昨夜メールを返した。

自然に近い状態にして8メーター水槽で飼育するとウナギの大好物はエビで次は子魚やドジョウ ウナギの姿は中々見えない

銭でも物でも物事でも始めたり何でも集めるのは簡単だが別れる切れろ捨てるはほんと難しいなと俺~は思うのだが

一番の儲け

誰にも知らせる事なく身体の中を点検する為にこのひと月ほど旭川と崖下村を行ったり来たりで忙しかった。
旭川は100キロ程度なのだが休み休み走るので片道に何時間も掛かる
昨日金曜日で一定の結果が出て対策をする事になったが
春に美濃に行った時はさほどの疲れも無く走り切ったので仕事で疲れるのは気分の問題で仕事は健康に悪いのだと思っていたが
どうもそうではなかったらしい


旭川一条20丁目あたりの民家 普通の民家にも常夜灯が付いている。
商売とは通りに灯りを付け続ける事なのだと教わって来た。

若い頃もよく旭川に行ってそれなりに裏側を見たが今は見える景色が全然違うのだ。
いま思うのは俺は商売人としてはそこそこやって来たと思うが経営者ではなかった。
やはり経営者は仕事と責任を繋いでゆく事が大事で後継者を残す事が重要な事だったが
俺は後継者を残す事が出来なかったので経営者とは言えずにいまは残っている施設をどうやって処分するか
預かってる物をさっさと返す事と売った物でアフターが付く物の、その引継ぎを考え続けた日々で
後継者がいないので建物や設備などの残務処理の為に稼いだ銭の大半が消えてしまい生涯収支が赤字になる状況に陥ってしまってる。
自分で売った物は出来るだけ買い戻しをしてさっさと処分をする事にしてるが
プーチンのバカ野郎の為に対岸貿易も止まったままになって処分は中々出来ない
さらに何でも拾って溜め込む、見る物乞食の性格で
この期に及んでなんのコッチャなのだ。


先週はお話がありますと悪魔の使いの様な若いネエチャン二人が役場から来て
これがこれで左がドッタラコッタラでとデーターを見せながら説明をする。
一番下にはビックらポンのデーター表が挟まっているが
赤ひげ大賞を受賞した増毛診療所の増子 詠一先生でさえ若くしてオッチヌのだから覚悟は出来てる。
説明など聞きたくないので若いネエチャンを喋りくり倒そうとクッチャベってると
船を手放しもう逢う事もないからと先月お別れの日本酒を二本も頂いたMさんが
「 や~今まで面白い話を一杯聞いたが今の話が一番面白かった 」と言って気付かぬうちに玄関に立っていた。
船のキャビンスペアカギをわざわざ100キロ以上も離れた処から持って来て呉れたのだ。
数十年のお付き合いの中で命の瀬戸際までとほんと様々な事があったが
俺は一個歳食ってるがお互いに戦後のどさくさに紛れて生まれて来たが強面の見た目からは想像出来ない
この人の実直で不器用な生き方に何度も助けられて来た。
もしこの商売をしていなければ出逢う事は無かっただろうと思うと
商売の一番の儲けは人に出逢えた事だったのだ。


今年に入って皆さんから日本名酒会かと思うほど貰ってしまった。
再度健康に気を付けて呑むぞ~ありがとうございやした~

旭川不思議が一杯

先週金曜日から痺れていた足が月曜日には右下半身も突然痛みで動かせなくなり火曜日は車に這って乗り旭川の整形病院に行く事になった。
ケツに注射と薬を貰ってやっとこさ戻って来てそれから3日間寝て過ごした。
痛みとは機械で言えばセンサーみたいな物でこれ以上は動くなと言ってると思うのだが
そう思う時に根本原因を排除せずに痛みを取る事が本当にいいのかと言う思いが常にあり
機械修理の場合はオカシイからと言って何でもかんでも闇雲に触るなと言うのは基本だが
人間の構造を考えると機械などとは比べようもないので下手に考えるより医者先生に任せてしまうのが一番と考えてるので言われた通りに
寝て薬を飲んで過ごしていたが徐々に良くなり火曜日には以前から数値がおかしいと言われた甲状腺の検査にまた旭川に行く
好き嫌いが激しく野菜はほぼ食わないが海草類はよく食う。
前回のチ~を抜いて検査してから海草類を一切食わずに再度検査に行くと正常と出たので海草類は週一程度にしましょうとこの件は終了だが兎に角疲れるのは同じ
疲れて来ると何もかもが面倒になり興味のある事以外はしたくなくなる。
幸いな事に故障探訪には興味深々なのだ。

北海道はそこら中にタコ部屋があり俺などは逆らうわ体力は無いわで真っ先に埋められていただろうと思う
日曜日は普段はタコ部屋の棒頭の様なオヤジ達が数人入れ替わりに来てメシ食ってるかと異口同音に言って呉れる。
タコ部屋はもう無いが声を掛けて貰えるそれだけでも現代に生まれて良かったと今更ながら思う幸せ者なのだ。


旭川4条通り21丁目 「場市出の日」右書きなので戦前からあるのかもどっちにせ相当古い市場

毎週旭川に通うようになって思うのは全国何の脈絡もなく旅して歩いたが旭川の
飲食店人口比はおそらく市では全国一ではないかと思うのだが
それと気になって見始めるとカラー効果なのか廉売市場、小売市場がやたら多い
なぜにこんなに多いのか雪が降る町だからか?それとも違うようなやはり武家や殿様がいない北海道と言う土地柄なのか
古い街の小樽も市場はあるがこれほどではないもっとも背後商圏の広がりは比べるまでもなく旭川が大きい事と小樽は海が近い為に個人の棒手振りが多い事もあると思うが
それにしても小売市場が多い
ロールモデルはあったのだろうが出来たきっかけは内地の戦後の混乱期に出来た闇市の発展系とも思えないし不思議
いまならまだ間に合うので誰か旭川廉売探訪写真集を出さないかと思っている。

氷点下の廉売市場通りで家族が食っていく為に魚を捌くその手はどんな手だったのか
きっとひびあかぎれで我が子の顔をなでる事も出来なかっただろうと思う。