誰にも知らせる事なく身体の中を点検する為にこのひと月ほど旭川と崖下村を行ったり来たりで忙しかった。
旭川は100キロ程度なのだが休み休み走るので片道に何時間も掛かる
昨日金曜日で一定の結果が出て対策をする事になったが
春に美濃に行った時はさほどの疲れも無く走り切ったので仕事で疲れるのは気分の問題で仕事は健康に悪いのだと思っていたが
どうもそうではなかったらしい
旭川一条20丁目あたりの民家 普通の民家にも常夜灯が付いている。
商売とは通りに灯りを付け続ける事なのだと教わって来た。
若い頃もよく旭川に行ってそれなりに裏側を見たが今は見える景色が全然違うのだ。
いま思うのは俺は商売人としてはそこそこやって来たと思うが経営者ではなかった。
やはり経営者は仕事と責任を繋いでゆく事が大事で後継者を残す事が重要な事だったが
俺は後継者を残す事が出来なかったので経営者とは言えずにいまは残っている施設をどうやって処分するか
預かってる物をさっさと返す事と売った物でアフターが付く物の、その引継ぎを考え続けた日々で
後継者がいないので建物や設備などの残務処理の為に稼いだ銭の大半が消えてしまい生涯収支が赤字になる状況に陥ってしまってる。
自分で売った物は出来るだけ買い戻しをしてさっさと処分をする事にしてるが
プーチンのバカ野郎の為に対岸貿易も止まったままになって処分は中々出来ない
さらに何でも拾って溜め込む、見る物乞食の性格で
この期に及んでなんのコッチャなのだ。
先週はお話がありますと悪魔の使いの様な若いネエチャン二人が役場から来て
これがこれで左がドッタラコッタラでとデーターを見せながら説明をする。
一番下にはビックらポンのデーター表が挟まっているが
赤ひげ大賞を受賞した増毛診療所の増子 詠一先生でさえ若くしてオッチヌのだから覚悟は出来てる。
説明など聞きたくないので若いネエチャンを喋りくり倒そうとクッチャベってると
船を手放しもう逢う事もないからと先月お別れの日本酒を二本も頂いたMさんが
「 や~今まで面白い話を一杯聞いたが今の話が一番面白かった 」と言って気付かぬうちに玄関に立っていた。
船のキャビンスペアカギをわざわざ100キロ以上も離れた処から持って来て呉れたのだ。
数十年のお付き合いの中で命の瀬戸際までとほんと様々な事があったが
俺は一個歳食ってるがお互いに戦後のどさくさに紛れて生まれて来たが強面の見た目からは想像出来ない
この人の実直で不器用な生き方に何度も助けられて来た。
もしこの商売をしていなければ出逢う事は無かっただろうと思うと
商売の一番の儲けは人に出逢えた事だったのだ。