第十五話 スッポンの鉄

今年、静岡の大東水産から分けて貰ったスッポンの鉄と百合もすっかり大きくなったが、鉄と百合にとってはこの狭い水槽でも全宇宙です。 
スッポンが他のカメと大きく違うところは、甲羅に年齢を表すシマ模様の亀甲がないことです。 これは年齢を誤魔化すには大変都合が良く、甲羅の大きさでも年齢推定は難しいのです。  
スッポンは非常に凶暴で咬まれると指がちぎれると言われていますが、それは大変用心深く臆病で、咬むこと以外に生きていく武器を持たない為です。 
そんなスッポンでもエサをくれる人には本気では咬みません。 
今朝もヒーターで陽炎の立つ水槽の中から、スッポンの鉄と百合がじっとこちらを見ています。

鉄&百合。

鉄はもともと若作りな年齢不詳のカメ。
なにが気にいらないのか自分でもよく分からんで仕事場を飛び出した鉄は、カメなのに年齢を表す亀甲が無いことを利用して、年齢を誤魔化して熱田区西郊通り7丁目6番地にある鬼頭モータースに就職しょうとするのでした。
「おじさんこれプラグって言うんだろう  俺なんでも知ってるんだ  使ってくれよ」、
鉄は、鬼頭モータースのメガネを掛けた、ごろんとした大将に頼み込んでいるのでした。
住むところが無かったので、どうしても暗くなる前に住み込みの仕事を探さなければならない。
鉄は家財道具一切を詰めたナップサックと風呂敷包み持って、
「なんでも出来るし、するから、使ってくれよ」。

高度成長期の真っ只中、中卒の若者を金の卵と呼んで東北や北陸からかき集めて就職させたが、馴染めずに会社を飛び出した若い子達は、親がかりになれない事を知っているだけに国元に帰らずに行き当たりばったりに住み込みの仕事を探していた。 そんな若い15や16の子ども達が当時は沢山いたのでした

そんな時代にナップサックに風呂敷包みを持った鉄が来たわけで、太っ腹な性格の鬼頭の大将は
「俺も呼び名は亀頭だ~」とばかりに即日採用で即、工場の二階に住み込み決定。 
スッポンの鉄の巣穴と仕事が決まったのです。 
以後足かけ二年、鉄は町工場の沢山ある西郊通りに暮らすことになった。

そこでの初めての仕事。
鬼頭モータースの大将の実家が名古屋でタャ~シタ~大きいタマゴ屋で、実兄がそのタマゴ屋を仕切っていた。 
そこへ連れて行かれ、タマゴの選別と、タワシが沢山並んだ機械にタマゴを放りこんで洗うと言う作業をさせられるのだった。 
単純作業ほど一番性格がわかるので、鉄の性格をみたのだと思う。 
 
大将は名古屋でも名門の名古屋工業高校機関科を卒業していて、「俺も機関科の鬼と呼ばれた」といつも酔うと人に言うのがくせだった。 
言わなくてもわかる顔なのに、機関科の鬼に連れられて居酒屋に焼鳥屋にと連れて食べさせてくれた。
「さ~食え お前は若いんだからもっと食え」、
自分は傍らで日本酒を手酌で嬉しそうに飲んでいるのでした。 
今思えば、鉄が美味しそうに食べるのを見るのが嬉しかったのだと思うのです。 

その後も、
タマゴ選別とタマゴ洗いと梅干し作りが丁稚の鉄の作業となった。
車修理など触らせても貰えないが、タマゴ屋に行くと腹一杯 タマゴが食べられるのだった。 
鉄は、くにのおっかさんと姉ちゃんと弟二人にタマゴを腹一杯食べさせてやりたいといつも思うのだった。  
雪国では、運動会か正月でも来ないと、タマゴなどは食べれなかったのだ。 
ゆで卵に目玉焼きにホロホロ卵と、朝からタマゴ食い放題。 
ひょうろくだまの鉄だったが、兄弟の中でも一人態度もデカイが身体もデカクなったのは、この時の時代と鬼頭の大将や近所が大きくしてくれたのでした。

やがて鉄にも春が。
壁一つ日比野寄り隣の材木屋に、新卒のお姉ちゃんが入社してきた。 
名は百合。
ある日、鉄は隣の百合にデートに誘われる。 
鉄の給料は住み込み手取りで日給月給200円。 それでも、どこから来たか分からん保証人すらいない丁稚の手取り給料としては、良い方だった。 
鉄は、着る物と言ったら、油で汚れたナッパ服しかなかったのです。
どんな職業の職人でも、作業服が似合わない職人は一人前でないと言われた時代、
「折り目がある作業服は恥ずかしいぞ」と言っていた時代、
新品を着るときは一度、洗濯をして着たまま寝ると良いと言われたのだった。 
冠婚葬祭のど派手な名古屋でさえ、葬儀に作業服で出る事がよくあった。 
それが、その職人や職工として生きた人に対しての最高の別れの挨拶だと今でも信じている。
 
鉄はお洒落に目覚め、急遽すぐ近くの六番町の、朝から晩まで同じ物を作り続ける数物屋の職工をしていた松波会の岩兄ィに相談に。 
「岩サ兄さん、金がない。 なんかアルバイトないべか~」。
「鉄、花見の鶴舞公園で酒瓶の雑品回収だ~」。
「夜中に車で行って、一升瓶とゴザを集めればわけなく稼げるぞ~」。
これは稼ぐしかないと。
時期は春真っ盛り、区違いの鶴舞公園でアルバイトだとばかりに出掛けた。 
花見の酔っぱらいの後片づけをしてやる代わりに、一升瓶やビール瓶を持ってきて売り飛ばし、鶴舞公園のゴザは返しに行くと預かり金が戻されるので、ゴザを丸めて公園事務所に返しにと一生懸命稼いだ。 
ところがどっこい数日後、岩兄ィとその若い衆と鉄は鶴舞公園を仕切っている「地回り」にボコボコにされるのだったが、岩兄ィは鉄の為に縄張りを荒らしたのだった。
  
給料が入った。 
町工場の若い衆も、鉄も、給料日の翌日は昼休みに西郊通り六丁目の郵便局に並んで、国元に仕送りするのだった。 
あの辺りは零細町工場の住み込みが多く、稼いでさえいれば食うには困らないので、給料の大半は送っていた。
大概の若い衆は親方や大将の家族と一緒に家族同然暮らしているが、それでも遠慮があり、
「よその飯にはトゲがある」
と言って、仕送り後の給料のほとんどが、いつも腹空かしていたおやつ代や食もの(くいもの)に消えていた。  

その時代 岩兄ィは近所の若い衆が遊びに来ると、
「おぉ 飯食ったか~」、
「食いましたー 」、
「なら、また食ってけえー」と言うのがいつもの口癖だった。
そんな岩兄ィが格好良くて、若い衆から尊敬とあこがれで見られるのでした。

そんな中、鉄は他の若い衆と同じくご多分にもれず、年から年中「ピンケツ」だった。
鉄 「百合 動物園に行こう」、
百合  「うん   」。
一杯飲んで機嫌のいいところ見計らい、「大将 バイク貸してくれ  」。
鉄は山口オートペットのケツに百合を乗せて、一路、名古屋の東外れにある大高緑地のこども動物園に向かった。
「こども動物園」はタダなのだ。
おまけに大高緑地は少々小高い寂れた山にあり、金の食いそうな店などどこにも無いのである。
「動物は自然が一番だべや、あるがままが一番」と、百合に説教たれる鉄でした。
大高緑地の「こども動物園」はタダだったが、見るのも大変な場所で、足下が粘土地でドロドロでした。

そこにいるのも、タマゴを生まなくなってシメられる寸前を貰ってきたような鳥とか、ヤギのメ~さんとか、うるさいばかりのガチョウなどが主でしたが、 なんたってタダには勝てない。
鉄 「 しけた動物園だぜ、これなら留萌の雪印牛乳動物園の方がましだぜ」、
「雪印牛乳動物園の山は、鍋や釜を磨く、磨き粉が取れるんだぜ~」。
当時の貧乏ガキは、雪印牛乳動物園の磨き粉を持ち帰るので、山にポコポコと穴があいていた。
どこまで行っても貧乏くさい生活から抜けられない鉄だった。
「しけてるな~」と、鉄はうそぶくのだった。
「百合、いつか留萌の海をお前に見せてやる」。

名古屋にある東洋一の東山動物園などに行って、二人分の入場料と二人分の中華そばなぞ食って、池の貸しボートなど乗って、村田英夫の「人生劇場」など歌って百合に聞かせた日にゃ~、鉄は一ヶ月は立ち直れないのである。 
電話代の10円も無くなるのである。
電話を掛けれない、これは困る。
当時の市内電話は、10円玉入れれば一日中話しても良かった。
そのかわり長距離電話料金が非常に高く、ごっそり銭を入れなければならなかった。 

百合ちゃんの家は、名古屋港の藤木海運本社のすぐ裏にあった。
長屋の表をぶち壊して店にし、中国から引き上げて来たお母さんがお好み焼き屋をやりながら、残り一間しかない奥座敷では電話を抱えた大貫禄の年の離れたお兄さんが、彫り物で皮膚呼吸が出来ないぶんハァハァと額に汗しながら手に赤鉛筆を持ち働いていた。
港で働く沖仲仕や労働者を相手に、中京競馬や大府競馬の胴元をしていました。 

百合の家は電話が一本しかなく、早い時間は怖い~お兄さんが電話に出るので 電話を掛けるのは決まって夜でなければいけませんでした。 
料金が安くなる夜間、この界隈では六番町の交番前にしかない公衆電話は、ほとんどが国元を離れて名古屋に働きに来ていた旋盤工や木型屋、製缶屋、数物屋の若い衆に占拠されていた。 
一応は待つフリをしながらあからさまに、
「男がメソメソと国元に電話してるんでね~ぞ」と睨め付ける鉄なのである。 
さっさと追っ払ってから10円玉を電話器に入れて、隣で働く百合と毎日会っていたのだが、
「百合ちゃ~ん、元気~」、と電話を掛ける鉄だった。 
これには事前に電話を掛ける事を、油で汚れた人差し指を耳に突っ込み、クルクルと回し知らせておく根回しが必要だった。
百合の家の電話は、「至誠通天」の張り紙の前に白いレースの布を掛けられ、昼休みはお兄さんがちゃぶ台に載せて競馬に使用しているので、やたらと長いコードの付いた黒電話が礼儀正しく鎮座していた。 
夜になるとその前に百合が正座して、ベルが鳴るのを待つのであった。

怖いお兄さんは、沖仲仕が仕事している時間帯は暇なので、キャベツを切ったりお好み焼きの下こしらえなどしながら、
「鉄、男は利口ではイカン、馬鹿になれ」。
「男の苦労は語るな、今日の飯が黙ってあたる奴に言って分かるような苦労は、苦労でない」。
皆、誰にも言えない空白の何日間があるのである。

「人間、上を見たらきりがない、下を見て暮らせ」。
上を見てキャベツを切った時に一緒に千切りした、短くなった小指を隠しながら語るのでしたが、実際に人生を失敗した人の言葉ですから、当然重みが違います。

「鉄、お好み焼きあまった。 食え~ 」、
「青ノリは高いから掛けるなよ~」。

「鉄、トコロテンあまった。食っていいぞ~」、 
「ゴマは高いから少しだけ掛れよ~」。

さらっと言いながら、本当の気持ちを照れて伝えれない不器用な苦労人でした。
自分の食う分のメシを「ならまた食ってけえー」が口癖の岩兄ィも、遠い所に旅立ってしまいました。

その後、掘りもお好み焼き屋も、北陸や東北から集めた稼ぎ人を押し込んだ軒の低い、文化と言うにはほど遠い文化住宅と言う長屋が名古屋のあちこちに立っていましたが、その長屋も夢の跡のように消えて、数軒忘れ去られたように立っているだけでした。  

みんな、みんな今頃は、きっとどこかに集まって苦労話を笑いの種にしながら、 欠けた丼の中でサイコロをチンチロリンと鳴らしてることでしょう。 
兄ィ達、こんどいい目が出たら、自分で使って下さい。

作者後記 
これはフックションです。 実在するスッポンや団体や人物等は一切関係ありません。