第十六話 昭和43年初冬

その日は朝から寒い日だった。 
早朝に三菱ミニカの空冷軽トラックに乗って、西郊通りから六番町を右折して一号線に出て、一色町の魚市場に魚を買いに行く途中だった。  
途中ものものしい検問があり、行き先を聞かれた。 当時は16歳から軽自動車の免許は貰えたから、若作りな鉄はよく無免許に間違えられ検問に掛かった。 

鉄の場合は自動二輪免許を取って軽自動車の免許が付いてきた。 
後から知ることになるが、その日の朝はのべ数万人の捜査員による大捜査網が敷かれていた最中だった。

容疑者は東北、または北海道出身の訛りがあること。
二十歳前後の年齢に限りなく近く、機械に精通していること。
土地勘があること。

事件現場の7番町から西郊通りは僅かに700メーターくらいしか離れていなく、絨毯捜査の的に充分はいる距離だった。
この条件に合う者は、バイクに乗っているだけで両手の指紋と手形を取っていた。 
とうに忘れ去った、爪楊枝の先みたいな前歴をほじくり返されてガサ入れもある。 
この時の事実は数日間伏せられたまま、6番町や7番町界隈の東北や北海道出身の若者やバイク乗りはことあるごとに捜査の対象になり、大捜査網の犠牲になった。
もともと痛くもない腹を探られるのならいいが、もともと痛い腹を捜査陣にゴシゴシと探られるので、痛さ倍増である。
すっとぼけても相手もプロ!熟練公(工!)、 簡単なことからポロポロと剥がれ落ちるのです。
あそこで車ぶつけて逃げたとか、駐車場の金網に突っ込んでぶち破り逃げたとか。
悪い奴は誰を恨む筋では有りませんが、俺達とは違い、ただひたすら真面目に働いてお国訛りが残る若者にとっては、腸(はらわた)が煮えくりかえる状況だったと思う。 
その大捜査網に乗じて、昭和43年当時の六番町や七番町界隈のバイク乗り人別帳を作ったのだと思います。   
その後、官に反感を持った若者が集まった。
日本最大の暴走族グループが名古屋に出来たのも、あながち関係なくは無いとは今でも思っています。 

その日、七番町で若いタクシー運転手が死んだ。  
ちまたの話では、首を錐の様なもので刺されたとのことだった。  
捜査する側は容疑者に肝心な事を伏せて、カマを掛けてくるのである
事実は22口径で首を撃たれたのだ。 
若い22歳のタクシー運転手だった。
逢った事は無いが、大体は運転手になる人は車が好きで最初は修理工になり、その後に転職するのが決まりだった。 

半年後に犯人は捕まる。
北海道出身で、同じ年齢だった。
ヤクザがヤクザを撃ったのではない。 夜勤で働く若い22歳のタクシー運転手に、死に値するほどの落ち度があったのだろうか。 
数千円の金ほしさに、真面目に働いている若者の頭を冷静に撃ったのだ。 
たとえ反動の少ない22口径と言えども、ピストルでは一メートル離れたらカボチャだって撃てない。 これを撃つ為には相当の訓練と冷静な精神力が必要なのです。 
彼はその訓練と人を撃つという行為を、冷静に四人もの人間に四回もやり遂げたのです。  
決して許される行為では無い。 自分の命を以て償うしかないと思うのです。

その後、彼は文学なんたら賞などを受賞したらしいが、そんなモンは暇人の気休め!
拘置所では労役は一切ないので、暇でしょうがないのです。
賞をやった方もただの遊び半分なのだと思うのですが。
その後、刑の執行を止めさせようという一団の連中が現れる

「何を言ってるんだ」

「貧乏だったなら何をやっても許されるのか、四度も冷静になって繰り返しても許されるのか」

当時の、知識人と称するメシの食いはぐれることの無い連中が刑の執行停止運動を続けたが、なら貧乏にも負けずに食う物を切りつめて、一生、陽の当たることもなく稼ぎ続けて国に仕送りする連中や、自分の食い扶持を切りつめて子供を育てている連中は何がどこまでやっても良いのか許されるのか聞いてみたかった。 
そこまで言うなら弁護団の先生がた、お前が的になれと言いたかった。  
この件は平成9年に幕を閉じた。

 
人情刑事 落としの多貫さん
  
昭和43年当時の警察には、セコセコと場末で働く人間には人権などはどこにも無く、田舎出の若者には弁護士などまったくの無縁で、弁護料も当時の金で着手金が20万位と言われていました。
そんな金は逆立ちしても出てこないのでした。

テレビで見るような人情刑事ものでは 「落としの多貫(タヌキ)さん」などが自白に追い込むのですが、これは息のピッタリ合った相方(あいかた)刑事と仕組んだプロの仕事なのです。  
相方に、一方的にさんざん訳も分からなくなるぐらい責め立てる役の頭のいい刑事が必ずいるのです。 
こいつに48時間、お前のカアチャン出べそくらいまで言われ、ズタズタになった後に人情刑事「落としの多貫さん」が優しい事を言うのです。 
今まで散々攻められた後に優しい事を言われ、これでころっといってしまうのです。
本当はこの多貫刑事が一番のくせ者で、「お前も国にカアチャンが居るのだろう~ 親が泣いている。 俺にもお前くらいの子がいる」くらいのワンパターンなことを言いますが、親に泣かせられた子は?

腰のホルダーに入れた旧式南部6連銃をこれ見よがしに見せて、容疑者が思わず見ると、「飛び道具に異常に興味を持つ奴」となるのです。 
大概ピストルを見て驚かない奴はいないが、見なければ見ないで「見ても驚かない奴」となるのです。
タバコなどを差し出しながらこれで一気にたたみに掛けるのですが、当時は金が無い奴ばかりなので、タバコをすう奴は意外と少なかったのです。 
この刑事コンビ二人のうち、どうしようも無いクセ者はこの人情刑事「落としの多貫さん」なのです。
もっとも悪い奴に取っての話ですが!
早く出たいばかりに筋書き通りの自白調書にサインをすると、その後「落としの多貫さん」刑事は、容疑者の前に二度と現れることはありません。
法律では容疑者は48時間以内に身柄送致しなさいとなっていますが、代替え拘置が有る限りそのままそう簡単に署外に出ることは出来なく余罪追及になるのです。

数物屋

高さ20センチほどの木のミカン箱に、股を大きく開け、これから作る製品を両膝で抱えるようにして腰掛ける。
身体にはアーク溶接の火の粉が飛び散るのを防ぐ為に皮で出来た前掛けを胸から掛け、特に股の睾丸にアーク溶接の光が当たると子種が無くなると言い、二重に皮の前掛けをした。
足には安全靴(あんぜんか)の上から皮の脚絆をして、三つ指の皮手袋をつけ頭から面を被る。
背中をまん丸くして、手にしたホルダーに特売の神鋼B10の溶接棒を挟み、一日何百回と繰り返される点付け溶接作業に没頭するのでした。 
溶接用の遮光ガラスも、遮光度が高いと製品が見えにくく能率が悪いので、遮光度の低いガラスを透明の「捨てガラス」の間に挟み、目が悪くなるのを覚悟で毎日毎日数物を作り続けるのでした。 
曲げ物屋が曲げた鉄パイプを、岩サ兄が学校用のパイプ椅子に組み立てて行くと暈(がさ)ばり、工場の奥から積み始めて、どんどん出来る端から工場の中に積んで行くのでやがて出入りも出来なくなり、数物屋の工場(こうば)は窓から出入りをしているのでした。
毎日単調な同じ事の繰り返しですから、作業中は色々つまらん事を考えている。
作業が終わったら今日もバイクに乗っていつもの場所に集まり、皆に会ったらどんなギャグを噛ますかと、そんな事ばかりを考えながら仕事をしてるのです。
   
同じ通りのすぐ側の工場では、50キロ以上も有りそうなニチユのバッテリーリフトの足を毎日小脇に抱えながら作り続け、仕事が終わったらカチカチになったチーズをツマミにしてビールを飲む。

「チーズは雪印だ~ なぁ~ 鉄」 流れの毛利の親父。 

数物を作る鉄工関係は流れ者が多く、仕事が切れたら次の職場に移り、仕事が出たらまた来るなどを繰り返していた。 
どんな偉そうな事を言っても、日本はこの名も無き人達に支えられたのです。

「鉄、頑張れよ。 この本をお前にやるから勉強すれよ」

岩サ兄は「鉄道日本社の自動車工学」を鉄にくれるのでした。  
短気でお人好しでケンカ大好きで、何にでも一途な岩サ兄はいるだけで皆の励みになるのでした。 
岩サ兄が・・・申し遅れました、岩サ兄には岩手から来たから岩サ兄なのです。 
岩サ兄はこの六番町や七番町近辺の一斉手入れに、噂が噂を呼び、誰もが信じられなくなり嫌気がさしていたのでした。

鉄「誰もが言ってみただけだ。根拠は何も無いのに、気にすることないべさ」

当時はいわゆる悪い奴は風体、ツラからしてトッポイ格好で、歩く凶器のような顔をしていたので見てくれで選ぶ人達には今よりは分かりやすく、危険回避もしやすかったのでかえって安全だったのですが!

修理屋は油虫と言われ見るからして油虫だったし、その日暮らしの労働者は誰も彼もわかりやすい服装と顔付きだった。製缶屋や鍛冶屋は朝から晩までドカンドカンと大ハンマーを振っていたので腕力の固まりみたいだったが、耳の遠い者が多く、聞き間違えようが言い間違えようが、一度言い出したら何があっても聞かない。
黒いカラスも白くなり、カモメを見てデケ~鳩と言いだす。
鶴舞公園の真ん中に音楽ホールがあってそこでは良家の出来の良さそうな若者がギターを持って歌っていたら「トワエモワ」だと言いだし、無理やり石原裕次郎と浅岡ルリ子の「夕陽の丘」を歌わせるのだった。  

そんな岩サ兄がいなくなる。 
バイク仲間の皆で工場の二階に集まり、お別れの会をしたのだった。  
皆で兄の好きだった「夕陽の丘」を歌います。 聞いて下さい。

「夕陽の丘の ふもと行く~ バスの車掌の襟ぼくろ~ 
        別れた人に 生き写し~ なごりが辛い たび~ごころ」

「かえらぬ人の~  面影を  遠い~他国で 忘れた~さ
    いくつか越えた きた~の町 目頭うるむ  たび~ごころ」

「真菰の葦は~風にゆれ~ 落ち葉くるくる  水に舞う~
     この世の秋の  哀れさを しみじみ胸にバスは行く~」

「お前ら、 辛い時が有っても泣くんじゃねよ。 笑え、笑うしかないんだよ。 どんなブサイクでも笑い顔は見られるモンだ、縁があったらまた逢えるじゃないか」

その後、東京に行って事故にあったとの噂があり、それが最後のお別れでした。  

「みんな、 あばよ。 お前達が馬鹿になって辛抱すれば若い衆の励みになるから、 馬鹿になって稼げ」

「皆が偉くなったら、 毎日毎日馬鹿みたいに同じ事をやる奴が居なくなるべゃ」

「鉄も 這い蹲(はいつくばって)って稼いでる奴に気遣いしてやれ」

伊勢湾台風の後に出来た名古屋全体をぐるっと囲む堤防でバイクに乗れば一番早く、手先も器用でケンカ大好きで皆から尊敬とあこがれで見られたそんな岩サ兄でした。

「ほんとに行ってしまうのかい」

「ぁ~行く」

「なぜ皆いなくなって、岩サ兄さんまで行くの」

「俺も自動車の修理工になりたくて岩手県から名古屋まで出てきたが、途中で金になる数物屋になったのさ。 でもいい目はとうとう出なかったなー」

岩サ兄は、広域108号の馬鹿野郎に条件が合いすぎていたのでした。

その後、 
岩サ兄の居なくなった六番町の新幹線ガード下では、何もなかった様にジージーとアーク溶接の光りがバラックの工場の隙間から漏れてくるのでした。

俺も北海道に帰ってラーメンが食いたい。 

※筆者注 これはフィクションです。 団体個人等とは一切関係ありません。