第十三話 椎茸と電車

毎週金曜日に、土曜と日曜だけ開店するのに使うラーメンのスープを作る。
ここ元祖店の俺は、自分では一切調理しない。 しかし自分でしないぶん苦労が無く、なんとでも言えるので、目一杯口出しをしてすごく手間と時間をかける。
 
なぜそんなに時間と手間をかけるか!!と言うと、それは、逃げられた嫁さんがラーメンを作るのが凄く上手で、そのラーメンを食べる為には今までのことを両手を付いて謝ったくらいでは許して上げない~♪。
俺の場合は詫びたくらいではとても足りないので、高額のお詫び金が必要になる。
セコイ俺は、そのお詫び金を払うくらいならラーメンを喰いに行った方が安いと思い、ラーメンの食べ歩きを始めたがどこも満足するものには出会えなかった。

北海道中を喰い歩き、ずうっとのちになり気づく事に・・・。
それは自分の為に作られた、ゆで加減、塩加減もすべて自分の為だけに作られたラーメンであり、自分の為に作られたどこの家庭でも家の料理が美味しいのはごく当たり前のはなしだった。

当時それでもまだ気づかない馬鹿な俺は、お詫び金を払うくらいなら店を作ってしまえと、ラーメン店を作ってしまった。
これは本当にシマッタである。
いままで使った金は家一軒建つほど。 当然、お詫び金を払った方が安くついた。
銭をラーメン作りに使い切ったので、これまた当然の成り行きで銭が無くなった。
で、嫁さんは戻って来ない事に決定した。
かくしてまた、ラーメンを自分で作らなくては自分の好みのラーメンを食べられない事になり、悪魔の連鎖がスタートする。

そんなこんなで、苦労を人に押しつけた単純明快な金曜日が毎週始まる。
自分でたずさわらない分暇なので、よく考えこんでしまう。
 
ここから北に行くと、稚内までの間、○○市は留萌が最後で、町らしい町は羽幌が最後である。
サイハテのオロロン街道沿いに、何がしかの生産業に従事している人達が沢山いる。 
ここの生産業は牛や農産物などの成り物を生産していることが多い。
この成り物の場合は天候に左右され、作物の都合次第なので、人間の方が作物や牛に合わせた時間体系にならざるをえない。
サイハテの農業はみな自分の体に罪を作りながら働いている。

その中でも、天候の変動の多い北海道の椎茸は気難しさで際だつのであるが、代わりに味に格段の美味さがあります。 
サイハテの椎茸作りは年から年中365日、干し椎茸のように、ひからびながら朝5時から夜10時まで働いている。
さらに一定の暖房が必要な為に、深夜に起きて一日18時間労働。 
テレビなど見ることもなく、ましてや山間の谷底なので携帯電話も電波圏外で役立たず。
椎茸ハウスもあまりの広さで、偶然固定電話の近くに居たとしても、ベルが鳴ってから走り初めて、息切れするが早いかベルが鳴りやむのが早いかと言うくらいなので、「電話には出んわ」と言うくらいである。

町に出たら、娘に電話をかける為にテレホンカードを買っておいたのだが、椎茸は毎日毎時間ニョキニョキと出るので、椎茸ハウスから抜け出ることもなく、町にあった公衆電話も鬼鹿の馬鹿野郎ガキが壊してそれっきり。
今は携帯電話があるので新設はゼロ。 
数十キロ四方公衆電話が無いため、テレホンカードを買っても使う機会もない。
神棚にテレホンカードを上げて、都会に嫁に行った娘から、自分が電話のそばに居る時に偶然電話が来るように、苦労をかけ続けているオカンにわからないように、神棚にペタと置いた。 干からびた手を合わせて、こっそり願いをかけながら。 
唯一楽しみな娘の電話を待ちわびながら、遅い晩酌をして一生をすごすサイハテのキノコ屋の親父。

この椎茸には細かな規格があり、それによって価格が違う。
ラーメンの椎茸はひからびた干し椎茸なので 外観で大きく味が変わるはずもなく、外観にはなんの意味も無い。
椎茸は、開けっぴろげな外観に似合わず意外と気の小さく敏感な奴で、天候や湿度によって、見栄えや出来高が大きく左右されるのだそうです。
椎茸生産者が椎茸を椎茸仲買問屋に引き取って貰うときは、実際に末端消費者が要求しているとは思えないほど類別区分ごとの大きさと見栄えが多岐に渡り、それによって椎茸仲買問屋の引取価格が大きく変動するのです。

ちなみに椎茸を末端の皆さんが買うときに、1パックが同じ目方で、Mの八分咲きが何個で、MSの十分咲きが何個、MLが何個、Lが何個と、だからこれは幾らが相場といった買い方はしないと思う。  ほとんどが、大雑把な見栄えと目方で買うか買わないを決定すると思う。
ならばなぜ、何段階もの類別区分が必要なのか。
あらかた大きさが揃い、グラム数が合えば引取価格は同じでも良いのではないだろうか。
だが現実は、厳密な規格によってまったく引取価格は違うのである。 これは引取価格の値引きを意味する。 
最近思うに、これは江戸時代から延々と続く、椎茸商人が策を弄して椎茸生産者を搾取しようと企んだのかもしれない。

椎茸の歴史は意外と浅く、江戸時代に栽培が始まった。 現在の形になり安定した生産が出来るようになったのは、昭和に入ってからである。
椎茸は夜のうちに取るとカサが微妙に閉じて価格も高くなり、明け方になりカサが開くと安くなる。 だがこれは人間の摂理に反して夜働かなくてはいけない。 おまけに暗闇での作業は刃物を使うために効率が悪い。 
これもカサが多少開こうが、末端消費者は椎茸のカサが十分咲きとか八分咲きとか、桜ではないので、買う人はそこまで敏感ではない。これも勝手に俺が思うに、江戸時代から続く椎茸商人が仕入れ値を叩くために仕組んだ罠に近いと思うのである。  

近年になり、この椎茸問屋は、いわゆる種菌植え付け株なる物を椎茸栽培農家に売り、 おがった椎茸を栽培農家から買い取るという仕組みに変わった。 これはサイハテの、厳しい厳冬期のホダ木の切り出し作業が無くなるので一見良さそうな仕組みだが、これも一歩間違うと種菌の代金を払う為に椎茸を作り続けなくてはいけないことになる。
複数の椎茸問屋の選択肢が無くなった時に、椎茸問屋の引取価格に右往左往しなければならない事になる。
仕入れから販売まで一問屋に頼るのは、問屋にとっては「美味しさ極上」である。 しかし生産者にとって、この組合せは平たく言うと「往復ビンタ」、「キングコブラがガラガラヘビを飲み込む この世の地獄」というやつである。 一度このパターンに落ちて失敗すると、余程の努力か宝くじを当てでもしないと抜け出せない。
だが電波圏外の谷底に年から年中住んでいる、外部の知識の入らない椎茸親父には、ごく当たり前の営業知識を要求するのが無理というものなのです。 その為に農協や組合があるのですが、本当の意味の組織が機能しているのだろうか。

末端消費者が、本当にMSだとかMLだとか8分開きなどそれを要求してない場合は、引取価格の値付けに正当正義はないのである。
かくして、毎度椎茸を見ている目には、このままでは椎茸農民が一揆を起こす日も間近に迫っていると思うのである。

その時は、椎茸抜きのラーメンを作る策を考えなければいけない。
これは少々古いが、一時(いっとき)はやったCMの、「クリープの無いコーヒーなんて・・・」といった感じで、大きく味が変わる。 

そんなに厳密に、椎茸まで電脳機械のように類別区分をするいまのこの社会はアンポンタンの極みだ。
電脳、万能、神様、仏様の時代に取り込まれた者にはサジ加減と言うものが無く、「イエスかノーか」「MかMSか」、椎茸にミリ単位の判断をする
「買うか買わないか」「良いか 悪いか」と言う二者択一しか判断出来なくなり、本来の人としての心の部分が犯されて行く。

このアンポンタンな電脳機械に頼り切ってしまった日本人は・・・。
いや、元へ。
日本には、元々日本人などと言う言い方はあり得ないのである。 日の本の国には縄文人と弥生人との結合で、そこに又近代においても様々な人種が日本国内に存在するので、純然たる単一民族の日本人はいないと考える方が自然だと思うし、ことさら日本人と言う言い方は出来ないと思うのです。
これからは「日本人の心として」と言うよりは、「日本の心と」解釈したほうが良いと思う。 
外国から来た人の場合は、日本人が好きで外国から帰化したと言うより、日本が好きで帰化したと言う人の方が圧倒的に多いと思う。
当然、武士道などはごく一部の人の話。 先祖をたどれば大概は農民で、半農、半武士か半漁、半海賊が関の山。 人としての道は確かに多少のズレはあるだろうが、世界万人にあるのでことさら言うことでは無い。 

話はまたズレるが、能天気は能に繋がり、農に繋がり、農民が農作業の合間に神社かそこらの野原に急ごしらえの舞台を作り、芝居を楽しんだと思う。 
屋根が無いので、能が出来る天気を期待した能天気。 
能は農民のもので、武士社会だけの大層なもんではないと俺は思う。  
この話は長いのでまたの機会に。
 
てな訳で、人間関係も好きか嫌いか、排除か取り込みか。
そうでなくて、もっともっと曖昧な部分でどちらにも付かない 「まぁ~いいか」 と、 「しゃ~ない」と言う部分をもっともっと大事にしなければいけないし、それが出来るのが人の証明だと思うのです。  
今度から、優柔不断な迷い箸をして、チャシューを先に食べようか!支那竹を食べようか!と一生迷っている人は間違いなく人だと、人間だと。

迷わずと言えば、

通勤途中に、目の前に自社の間違いで怪我人、死人が出ているのに、 
たとえ自分ではどうする事も出来なくても、手を差し伸べて、出来る限りの事をしようと迷うのが本来の人として一番大事な部分であったはずなのに、それが迷わず出勤出来たり、迷わずに宴会を出来たり、それも大勢の人間がそういった行動を共にするのはイエスかノーか。
規格しか判断できないアンポンタンな電脳機械を神様仏様とあがめ奉って、人としての部分を犯されて居ると言って過言ではない。 
この電脳機械に脳が犯されると、生身の人に聞かれると返答が出来なくなり、いわゆる説明責任が果たせなくなるのですぐわかる。 

この迷う部分が電脳機械にない本当の人らしさで、椎茸もカボチャもホッケも電車もどちらつかずのもっともっと大雑把な分類で、一山幾らの世界がこれからの椎茸も農業も漁業も電車も人間関係も、救われて行くのだと思うのです。

電脳取引の時代に、最後には生産業と修理業しか残らないのではと考えている。 
物を仕入れて売る時は必ず仕入れ価格があり、それ以上は安くは出来ない。 それでも、一時的金詰まりの状況に陥った業者が赤字でも換金処理に走ることはあり得るし、それぞれの事情があり、絶対に止める事は出来ない。 
その場合、これだけ情報が氾濫している時代には少しでも高ければ瞬時にして売れなくなるので、総体的に最低価格が落ち着いた底値安定になるのは間違いない。
そうなると、生産業の人達は知恵と工夫で価格を下げることは可能なので、近い将来、結果的には自分の手で物を作る人達が最後に残ると考えてもなんら不思議ではない。  
椎茸にさえも、時代を越えた正当正義が無ければいけないとラーメンのスープの寸胴を見て思う。