第九話 春海と花火(出会い)

Mとのこと
 春。 もうすぐ増毛の桜が満開になる季節でした。 
 15歳になる子供が、両腕を抱えられるようにして移送されてきた。 
面(ツラ)は一端(いっぱし)の悪ガキ面で、頭髪は信号機のような赤、青、黄色だった。 
なにか間抜けた締まりの無いツラだったが、よく見ると眉毛が全然無い。 体は根性焼きの跡だらけで、腕は切られた跡があり、今時の15のガキの割にはすさんでいる事が一目でわかった。
 
  通常の場合は書類が付いてくるのだが、大概は自分達にしか分からないような小難しい専門用語と言い回し、言葉使いで、一般庶民には参考にはならないのと、貰っても頭が痛くなるだけなので、彼についての予備知識は一切ない。 知ったところで理解など出来る訳もないし、対策を講じられるほど、彼の今までの人生が簡単で無いことは分かる。 
でなければ、旭川から山また山のさらに山奥深く、90キロ近くの峠を越えて田舎の海岸町に、兄弟のように育った仲間と別れ、単身増毛に来る決心をする訳はない。
 
 目を下に落とし、右足を一歩前に出し、斜(しゃ)に構えて、いつでも逃げ出すか反撃の用意をして立っている野獣のようだった。 
  だが浜をナメってはいけない。 浜には海を仕事場寝ぐらにした、荒くれた野獣のようなオヤジがそこら辺りにうじょうじょ居るのである。そして太った漁師はいない。皆、鋼のような体である。
 
 スナックに行っても、「山の男の歌」ヤッホ~など間延びした歌はこの辺りでは聞けない。 「農家の男」の歌は少ないが「海の男の歌」は山ほどあるし、畠中4丁目の飲み屋街にいっても、あちらこちらからコブシの効いた鳥羽一郎が聞こえてくる。 

  ♪俺と兄貴の~よ~ 兄弟船が~♪

  農家の嫁不足は良く聞くが、漁師の嫁不足はあまり聞かない。 大体が浜の仕事は海賊の様なもので、嫁さんも奪い取ってくる習性があるらしい。 こっちの漁が無ければあちらに分捕(ぶんどり)りにと、たえず力の行使でいけいけである。 
なんぼ強がっても、そんな十五や二十歳のガキに負けるものは居ない。 ここだからこそ、こんな子供達でも立つ瀬があり、受け入れて貰えるのです。
  そんな彼が、ここを選ぶか元の場所に戻るかの選択をしなければならないのであるが、彼には選択の余地はまったく無い。

今までの中で最悪最強である事は、身のこなしですぐに判別出来た。 相手の目をまともに見ないで目線を下に落とすのは、01通りのストリートの実戦で鍛えた技なのである。 今日も明日も黙って飯(めし)があたる子供には想像も付かないだろうが。
  相手が殴って来るときは、決して足は体に平行にはなって無い。 手より先に足先が動き、次に手が動くのである。 つま先が最初に動く事を彼は経験的に知っている。 目は絶えず下に落としながら、相手の動きを警戒しているのだった。 ハッキリ言ってこいつはかなり出来ると感じた。 目を下に落とす子と、おとなしい子と、ポケットに手を入れたままの子には要注意で、安易に近づいてはいけない。

  この小野獣とは、その後数年間、寝起きを共にすることになる。 俺にとっては忘れられない数年間で、彼のおかげで俺自身が成長したと言っても過言ではない。
 満足に食ってないせいか、年の割に小柄な背には、大きなリュックサックが背負われていた。 その中味は後に知ることになった。 陽が沈んだあと、堤防に上がり、背中を丸っこくして膝小僧を抱えながら、夜の海に向かってロケット花火を打ち上げるのだった。 
まるで今までの人生に別れを告げるように、「おっかさあん、とっちゃん俺ここにいるよ」と叫んでいるような音を出し、毎日毎日ロケット花火をこれでもかこれでもかと夜の海に打ち上げていた。  

  リュックの中味は餞別代わりに仲間から貰ってきたロケット花火の束と、分厚い各種専門学校の入学案内書だった。 字も読めない、学校も行っていない彼が、どんなつもりでその本を片時も手放さずいたのか聞くことすらはばかれた。  
ポケットには、やたら大きいチャック付きの財布が入っていた。 中には、これも後で知ることになるのだが、生まれてこのかた一度も見たことのない父親の写真がたった一枚だけ入っていた。 まともな家族のいない彼は、その写真を片時も離すことはしなかった。
後に、彼は父親探しの旅に出て、遠くは富山まで行ってしまうのである。

 ここから80キロ離れた旭川の街に同じような仲間がいて、D君、N君、沖縄出身のK君、Mと他にも数人がいた。 彼らは皆同じような境遇で、旭川の街をたむろしていた。
  誰か一人でも真っ当な道を歩んだら、他の仲間もあとに続くと誓いあって別れてきたのだった。 

  そんな彼は、仲間の希望の星だったのだ。 彼らに親身になったTさんとSさん二人が、Mを増毛によこしたのだ。 
 彼らは働く気はあったのだが、働くとはどういう事かがまったく理解出来ていない。 働くと言う事はお客さんの為に役に立つ、人の為に役立つ者が、その役立つ程度により、見返りにお客さんからお金を貰う。 自分の為にだけ働く奴は、それは役立たずと言う。 
15歳の彼らには理解が出来ないうえに、使うという所もなかった。 以前なら住み込みで奉公という事も出来たが、今はまともな会社なら最低賃金法の壁があり、最初からそれなりの最低賃金を払わなくては雇用出来ないのである。 
 ハッキリ言おう、彼らを使う事はドブに金を捨てるにほぼ近い。 最初からその覚悟は絶対に必要である。 まずは接客業、お客さんは彼らの顔を見ただけで、三分の一は回れ右をするだろう。 製造業ならどうか。全力で生きてきたから、力加減が分からず壊すほうが多い。 雪掻きをさせると、毎回必ずアクリルスコップは壊した。
 逃げる瞬発力はあるが、ガキの頃からの喫煙で体力は無い。 学校行ってないから字は読めない。 字が読めないから伝票は書けない。  お金が無いために、就職の履歴書に当時はやりだしたプリクラの写真を貼って、挨拶文は夜露死苦と書いて出すと良いと先輩から教わり、本気で信じてきたのだった。 

  有る期間彼らを雇用すると、幾ばくかの金が国から出るらしいが、絶対に一円も受け取ってはいけない。 自分にお金が付いているから使ってくれるのだと言う考えになり、自ら働かなくなり、彼らの自立心と自尊心を傷つけるのである。 
 それよりは、最低賃金の適用除外のほうがずっといいと思う。 住む所があって、食べる所があってとなると、そう多くはない。 飯場などはこれもまた未成年者は雇用してくれない。 労働者の権利を守る為の法律が、エリート労働者にはいいが一度はみ出した者にとっては、逆に働く場その日をしのぐ場を無くす事になっているのである。

 そんな彼の浜での最初の頃は、隣近所を謝って歩くことが仕事なのである。 どこかに遊びに行き、帰りに歩き疲れたら、通り掛かりの自転車を止めて貸してくださいと頼むのだった。 あの、ガキのくせして眉毛もない極道面が、誰も通らない暗い田舎の道で、今まさに乗っている自転車を貸してくださいと頼まれたら、俺ならすぐ貸してやる。 
「なんでしたらジュースも付けましょうか」と言ってしまうに決まっている。 
ジュースの好きな子だった。
 残りの人生を自転車と交換はしたくない。 良くても夢でうなされるだろう。
 毎度借りてきたと言って貸し主の分からない自転車が、自分の住みかの隅にあり、持ち主を捜し、返しに車に積んで行ったものだった。 
 先に手を出されたら正当防衛だからと、仲間で付けた知恵を使うチャンスをいつも伺っている。 彼に、田舎のノホホ~ンとした悪ガキがちょっかいを出すのも時間の問題なのである。 
 ある時、コンビニの前で因縁を付けられて襟首を捕まれたが、ほんの数秒でケリがついた。 田舎の一番悪い子は都会の一番良い子なのである。 勝てる訳がない。
 留萌の22~23歳の子が、15の子にゴロまかれて、乗っている車を持って謝りに来るなどと言う事もあった。 
 だがそんな彼でも、出来ないなりに一生懸命に働こうとするのだ。

  小さい時から今のような生活をしてきて、夜昼逆転した生活の習慣が抜けるまで、いかんせんうまくは行かなかった。 子供は生まれてくる環境も、親も選ぶことは出来ないのである。 子供はある一定の年齢になるまでは、どんな環境でも、今ある環境に甘んじなければならない。
  児童相談所はそういった子供を救うのが仕事で、その為に職員は給料を貰って今の豪華な生活を維持している。 「虐待を救えませんでした」などは、修理屋がタイヤのボルトを付け忘れましたと同じで、給料などは当然無い。 その担当児童相談所は、全員忘年会など絶対に許されない。
 本来の働くと言うことがどう言う事か、まったく理解できていない。 ま~税金を使い、最高学府を出たと思われる日銀関係者でさえ、日銀券を競馬の外れ馬券と同じ感覚で入れ替えるなど自分の仕事を理解出来ないのだから、きっと難しい事なのだろうが。 

 貴方が腕力に自信があり、回りの知り合いにそんな子がいたら、一声掛けてあげて欲しいと思う。
  格段難しい事でもない。 ただ声を掛けるだけで良いのである。
  「元気か」とか、「メシ食ったか」とか一言を。 

Jとのこと
  Jと会ったのは、ちょうど暮れのクリスマス前の今頃でした。
  場所は留萌、元川町変則交差点。 そこは札幌、旭川、稚内、増毛行きと、各地のバスの乗換地点でした。
 最終便到着は夜9時。 バス会社各社の意地と都合か乗り場が何百メーターも離れているので、年寄りや子供には一苦労なとても分かりづらい場所でした。

  そこに、小学校に上がるかどうかと言う年頃の男の子が、弟と見える子の手を引きガラス戸の外に立っているのでした。 雪の降る夜中の11時頃。 「こんな夜中にどこ行くのだ」と声を掛けると、手に持っていた紙を差し出した。 それには、「増毛へ行きたい」と書いてあった。
  上の子はJと言った。 下の子はS。 本当は実名で書きたいが、下の子は今、嫁さんも可愛い子供もいるのでやめておく。 その子は、ここから北に120キロほど行った遠別から音威子府に抜ける山中の工事現場で、父親と一緒にいたのだが、厳しい冬が来る前に暖かい増毛の親戚の家に預けられる為に、子供達だけで何時間もバスに乗って留萌まで来たのだった。 

  乗換に次ぐ乗換で、工事現場から留萌まで丸一日かかる。 牛と鹿の方が人間より遙かに多い土地です。  
  着いたそこは、バス会社の縄張りの為に稚内行き、札幌行き、旭川行き、増毛行きと各バス停が何百メーターもバラバラにあったから、子供達ではなかなか乗換が出来なくて、最終バスに乗り遅れてしまった。

  次から次と、夜空から雪が光りながら落ちてくる夜だった。 子供達を留萌から増毛まで車で送って行ったが、その何年か後、子供達とはまた留萌で逢う事になった。 その時すでに父親は山中の工事現場にはいなく、どこかの工事現場に移っていた。 彼Jはその後どこに住んで居たかは定かではないが、いつも弟を連れて歩いていた。 
当時港の南岸では、荷下ろしするイカ船が入港するのを待ちかまえていて、イカ箱を手渡しで降ろすのを手伝うと、手間賃としてイカ一箱が貰えたのだった。 次々と入港する数十隻のイカ船を手伝い、一隻から一箱ずつ貰い、朝早く留萌漁組駐車場横の電話ボックスそばの道路に30パイ入りイカ箱を沢山積んで、一箱を500円で通り掛かりの車に声を掛けて売っていた。
 イカ船が入らない時期は、中心街のとあるデパートの界隈を縄張りに、カツアゲや(これはメンチカツを油で揚げている訳ではなく、目と目を合わして先にそらしたら人からいくばくかのお金を借りると言うことです。そのせいかどうかメンチを切ると悪ガキどもは言います) 悪さで毎日をしのいでいた。 そこのデパートにテナントで店を出していたときに、 ビデオデッキが白昼堂々と盗まれた。 

 その界隈を縄張りにするJには、うちの店から盗んで行くのが許せなかったのだと思う。 Jはそれこそ必死になって探し、ビデオデッキは戻ってきた。 それはうちのテナントだと知らない良家のガキが、当時はまだ高級品だったビデオテープをダビングするために、親に買って貰った他にもう一台いる為にかっぱらって行ったのだ。 

  Jは幼いながらも昔の事を覚えていてくれたのだった。  悪い事をするにも、ここまではするがこれだけはしないと決めていたような処のあるような、そんな子でした。 

 丸いケーキを3つに分けろと言ったら、縦に3つに切り、真ん中を自分で食って、三等分は120度間隔などそんなもんオラ知らんと言う顔ですましている。 もう一人の子は、缶ジュースを買ってやると毎度必ず一気飲みをするので、一度どうしてそんな飲み方をするのだと聞いたら、返せと言われる前に飲んでしまうのだと言っていた。
  もう一人の子はU、いつも発泡スチロールの空き箱を自転車に括り付けて港を彷徨い、学校にも行かず、留萌港に出入りする漁船の船名と船長をすべて記憶している子だった。 
今は漁師株を一般にも公開しているから、いい漁師になれたろう。

  学校に行ってないこと、学歴が無いことが彼らのステータスなのではあるが、生活の知恵がぎっしりと詰まった子供達でした。 
 こんな子達は、そのくせして食い物を分ける時はまったくその後の縄張り争いを予感させるような真剣さで中心を決めるのだった。 丸いケーキを定規だけで中心をだすのはなかなか知恵がいる。
 その後 港には移動式ベルトコンベアーが導入され、人手が要らなくなった。 
 それで彼らは失業した。
  後、する事は決まっていたが、悪いことをして新聞に載ったら、親がいつか新聞を見て迎えに来ると本気で信じているのだった。

  「でもな、お前達よ。 空を見てごらん。 こんなに沢山、星があるだろう。 でもその中に人が住める星は一つしか無いんだ」
  「そしてお前達と会う確率は何億分の1なんだよ」  
 「きっとこれからいい事が必ず有るよ」 
 
  空虚な言葉が次々と出てくるのだった。
  いいことが必ず有ると言う時は、そんな事は絶対無い時、これからも来そうにない時に言うセリフなのである。 こい奴(つ)らには、わずかな明かりでも先の明かりが見えさえすればいいのだ。
 どんなに慣れた自分の部屋でも、スイッチを切った瞬間に何も出来なくなるし、 けつまずく。  だがほんのわずかでも明かりが点いたら、出口に豆電球くらいでも明かりがあったら、それを目指して日々しのいでいくのだと思う。

  いい子は黙ってもいい子になるが、悪い子にはぜひお金を掛けてやって下さい。 それも一時も早いうちに。
  小さな子はバスで隣町に行っただけで大きな冒険で、バスの中で声を掛けられ、アメ一個貰っただけで感動して一生の宝で思い出に残るのです。 ひねた大人になったら飛行機に乗せてもたいして喜びません。 

  Jの弟はその後トラックの運転手になる。 なんぼ偉そうに言っても日本経済は運転手さんに支えられている。
  している事が悪いと教えなければならないが、そんな事は分かりきっていたのだ。
 施設があるだろうと言うが、何十万人もいる道北に、七〇人分しか児童収容ベッドはないのである。 そこでは規則を守れる子だけが優先され、字も読めない、いう事も聞かない子はそこへ入る事すら出来ないのが現状なのです。 彼らはまさにそんな子だった。
 だがJは、弟が真っ当な仕事をするようになった時に札幌へと旅だった。
  が、それから数年後、遅咲きの桜を背中に咲かせて雁首揃えてまた逢いに来たのでした。
 「諦めるな、諦めたらそこから先はない分かってるのか」と頭を小突くのでしたが、 「おじさん分かってるよ」皆、殴られるのを楽しむように頭を出して来るのだった。

  どの子も一様にお喋りで、一方的にしゃべる。 幼いMやUやJがそこに立っているのでした。