第七話 箸休め 「魅惑のアンヨ」

 海の上から事務所に、携帯電話で連絡が来た。 相当困っている様子だった。 
そらそうだろう、シケで有名な日本海の上を走っている最中、エンジンがいきなり止まるのだから。 
その場所は、いつ完成するかわからない幻の国道と言われ、つい最近難工事のすえ国道が全面開通した。 しかし今もって工事中で、石狩厚田から増毛間約80キロにトンネルと隧道の数は20数カ所。 長いトンネルで延長2キロもある。
わけあって一度歩いた事があるが、長くなるのでまたの機会に。

 船のエンジンが突然停止したのは、カムエト岬を越えた、人を寄せ付けない断崖絶壁の雄冬沖60メーターラインだと連絡が入った[※注 GPSが無い場合、海の深さを知らせると、海底地形図で陸岸からの距離がおよそ分かる]。 そこは岸に近づけば暗礁帯があり、エンジンの止まった船は舵が効かないから風まかせ・運任せだが、操船の出来ない船はシーアンカーを流し、無い場合は何かをロープに付けて流し、船が流されないようにして波に立てるのが一番。

  雄冬海岸に近づけば、沖の暗礁帯で確実に座礁する。 運良く陸に着岸しても、その断崖絶壁を登る事は出来ないし、 人の住んで居ない海岸はオロロン潮マムシと、鹿とヒグマの野生の王国。 そんな場所なのは皆さん良く知っているから、あせるのも分かる。 おまけに断崖絶壁に近づけば、大概の場合、携帯電話は電波を遮られて通信が難しくなる。
  一概に言えないが、故障の場合、増毛では沖あい3海里くらいが双眼鏡で目視出来る距離であり、波の間隔が長く一番作業がしやすい。 陸と海上では目視出来る距離は違います。 一般には海上の方が見通しは効くが、遠くは見えません。 裸眼で船種を確認出来るのはその日によっても違うが、天気の良い日でおよそ1.5海里でないでしょうか。 逆に言えば、お互いが30マイルで航行している場合は、2分後には衝突の危険がある距離です。 いったいして天気の崩れる前日は遠くが見えると地元では言われています。

 その日、波は1.5メーターくらいだった。 ここ増毛港から直線で約11海里。 大きく迂回するから時間にして約30分。 出港前点検、情報収集とバックアップ人員確保のために出港までに30分必要で、計60分。 風が変わらない事を祈る。

増毛の羽賀研二と言われた、飲んだくれの「キム」と相棒を組む事にした。 
飲んだくれのキムともう一人。 100マイル兄貴の、これも又、飲んだくれ「竹ちゃん」。

  竹ちゃんは、アメマスの釣れる舎熊の海岸にある 「セイコーマート いとう」で買い物をしている時、見知らぬ人に「あの車は兄さんのかい?」と声を掛けられた。 「そうだよ」っと返事をしたら一言、「燃えてるよ~」。 店から飛び出し、その晩に飲もうとして買った焼酎レジェンドを燃えてる車に掛けようとしたが、勿体ないので一口飲んでから掛けた、というくらいの飲兵衛なのである。
 
 この二人と相棒を組むとなぜ安心かと言うと、操船技術が格段のうまさで、船に飛び移る時に一番信頼出来る事。それと救助とは何が一番大事かをよく知っているからである。  この二人に外されるなら本望だとさえ思う時がある。
 1.5メーターの波で船から船に飛び移るのだが、多くはご存じの通り、意外と捕まる処と足を掛ける場所が無い事が多いので、海に落ちる確率が高い。 海に落ちるのを防ぎながらキャビンに捕まるのを失敗すると、デッキに叩きつけられる事になるか、それとも足を踏み外し海中に・・・。 「いい奴でした、」と言われて、それでおしまい。 

 工具もなく、身一つで船に飛び移っても、知識だけでは何も出来ない。  ただ眺めて「あ~だ、こうだ」とは誰でも言えるし、うるさいだけで居なくてもいいわけです。  ちなみに飛び移ってから「工具が足りない」と戻る事も簡単には出来ないので、一通りの工具を持ちます。 重さ約25キロあるのですから、片手で工具を持ち、飛び移り、片手で船のどこかに捕まる。 出来そうでなかなか出来ないのですが、やるしかない!
 足を踏み外すか、船が波で大きく動くとデッキに叩きつけられるわけですが、この場合は失敗すると「逆くの字」に背骨がやられる事になり、何ヶ月かはベッドで白衣の天使のお世話になる事になってしまう。  が、いつも行く留萌の某外科病院は通い初めて何十年、院長先生がいい人だったのでスタッフの顔ぶれが変わらない。 と言う事は、白衣の天使は白衣の白アザラシへと。      

  とても、病院名は明かせない。

  運の無い奴の開いた町にある、西角に手押し信号機がある病院。
 俺は船で足をケガして、そこに入院をしたことがあった。 その時は二階の西角の部屋の、さらに西角の信号機を下に見るベッドに寝かされた。 部屋には年長組が3人、若い衆が俺も含めて3人。 年長組は永い人で3年も入院している。 年長組は昼間も夜も寝ているしかなく、誰一人面会もなく、まったく可哀想なもんだった。 若い時は第一線に立ち、戦後日本を支えて来たのだろうに。 そう思うと何かして差し上げなくてはと、うっすら考えていた。 
 ある時、ふと窓から下を見ると、西角には手押し信号機があり、そこに車が停まったのが見えた。  
 病院の二階は通常の二階よりかなり高く作られていた。そのために顔は見えないのだが、車を運転している人のアンヨが見えるのだ。いつも、お世話になるアザラシ仕事人の足しか見ていなかった俺には、やたらスリムで綺麗な足だった。 顔が見えない分、かえって足ばかり強調されてなかなかよろしいのである。 
そこで、常日頃やさしい俺は年長組のジイ様に生き甲斐を与える事にした。 「ジイさんこっちだよ」と、俺はベッドの窓から下を見せてやった。 その時、年長組ジイ様たちはとても喜んだ。  日中あまり車は通らないが、朝は抜け道になっているので、綺麗なアンヨのオネイチャン達の車がよく通った。 それから朝の俺のベッドは「アンヨ・ウオッチング」の場となった。 
 顔が見えないのが良かったのか、病室は♪バ~ラが咲いたバ~ラが咲いた♪状態だった。

  数日後隣のベッドに、「仁義なき戦い」のモデルになった広島に本社を置く、某自動車メーカーの単身赴任の支店長が入院して来た。 やはり支店長ともなると、俺達とは面会に来る人が違った。 なにやら様子の良さそうなスーツを着た妙齢の方が、面会者用の椅子が有るのにわざわざベッドに腰掛けて・・・。

  言えね~!これ以上は。 

  支店長はノートパソコンを持ち込んで仕事をしていた。 二人でノートパソコンをのぞき込んで、門限ぎりぎりまで真剣に仕事をしていた。多分、退院と同時にメモリーは消去されただろう。 お仕事ご苦労さん、支店長さん。

 そんなこんなで、3日目に白衣のアザラシの元締めに強制退院勧告を受ける羽目に。 足のケガで歩けないからと、ひたすら詫びて延期して貰ったが、その後に見舞いに来てくれる奴らが悪かった。 信号を越えた処は飲屋街で、夜ともなると赤い灯・青い灯である。 ベッドの布団の下にあちこちからの金一封が貯まって来たころ、リハビリも兼ねて松葉杖を持ってルビコン川の信号を渡った。 
 ここの病院は留萌では大手で、地下には自家発電設備と厨房設備があり、その突き当たりに職員通路が隠すようにあり、24時間開放されていた。 今は厳重に鍵が掛かっている。 
 とうとう最終退院勧告がアザラシの元締めから来た。 アザラシには俺も海の男の端くれだから逆らえるが、以前から世話になった院長先生はやさしい人格者なので逆らえない。 抜糸とともに退院する事に。
 だが退院の日に、年長組のジイ様にもう行くのかい、と、泣かれたのには困った。 

 そこでは、ゴウツクババア達がテレビを見るのも有料にして稼いでいた。
  その時は知らなかったが、中国の病院やら学校やらに寄付している事を後で知った。 院長先生の人柄と、思うところがあったのだろうと、改めてボランテアとは何かを教えて頂いた。
 ボランティアは匿名だからいいのである。 それは助けてくれた人が誰か分からない。 自分が一丁前になってその時のお返しをしたいと思っても、相手が分からないから出来ない。 その気持ちがあれば、お返しが出来なかった分利息が付いて、次に誰か困っている人に回ってお返しをする事になるのだと思う。
 「ボランティアは、匿名だからこそ環が広がり回って行くのだよ」
と院長先生は草場の陰で言っているだろうよ。
 新潟地震の多くの名も無きボランティアにごくろうさま。 

  話はそれた。 宮川俊助を助けに行かねばならない。 それ行けカムエト岬を越えて。