有線から、守屋浩の有難や節が流れる開運町新世界。 そこはもともと運の無い人達が集まり、せめて名前だけでもと、付けた街だった。
留萌川河口の湿地帯だった所を埋め立てた、湿気臭い、盛り場と小間物商店がごった煮の、新世界と言うマーケット。 新世界の名前は、当時から全国どこにでもあったが、眼の前がすぐ海、港内と言うのは珍しいかもしれない。
その新世界界隈を遊び場に暮らした。 そこにはキッチリとした礼儀と少々の腕白が必要であった為に、遠い旧市街にあった錬成館までいって畳の上げ下げを手伝うと、柔道着が買えないガキにも稽古を付けてくれた。 それは街を闊歩するには十分役にたったが、上には上がいて、どうしても勝てない奴がいた。
そ奴(やつ)は大和田炭坑の坑内夫機械係の息子だった。 その後改心して、今ではひたすら座卓を作っている。 その力関係は今も続き、「親父の座卓」などと、電脳競り市場でそ奴の作った座卓を売るお役目をしている。
そんなこんなの新世界だったが、現在の開運町郵便局側から、人の背丈より少し高い有楽トンネルを抜けて左に折れ、その並びを東に少し行くと陣屋というラーメン屋があった。 現在は無い。
初めて陣屋ラーメンを食べた時はビックリするくらい美味かった。 そこへは留萌の老舗靴屋の御曹司と一緒に行った。 当然、勘定は老舗靴屋の御曹司のおごり。 俺達は礼儀をわきまえているから、老舗の御曹司の顔をつぶすことはしない。 しかしごちになると言うことは、お返しが必ず必要である。それがなければただの”たかり”である。 以後 小柄な彼が界隈を歩く時の風よけになるのである。 だがそれやこれやで秋の気配が漂うころ、そのラーメンとも新世界とも別れる時がきた。 ある日突然帰る家が無くなった。
母さん あなたは254(ニコヨン)をしながら俺達を育ててくださいました
朝鮮特需のときも 鉄屑拾いながら 俺が拾おうとしたら 「子供は拾ったら駄目 」 と決して拾おうとさせなかった
ありがとうございます 母さん
なんの見返りも期待せず ただただ子供に与えるだけの母でした
親とはなんと有り難いのだろう
なぁ お前達よ
親がお前達のラーメン代を払ってくれたら 一度親に聞いてみな 「この見返りは何と?」
ドンブリで頭をカチ割られ ケリ入れられ テメエの呑み込みの悪さに大泣きされるだろう
大和田炭坑の、閉山のあおりを食った人達がたむろする留萌駅から、汽車に乗って一路名古屋へ。
すこしずつ乗客の故郷の訛りが薄れてゆくと、同時に不安が反比例するように大きくなっていった。 人にはそれぞれの事情があり、人を蹴り倒してはいけないこと、親に逆らってはいけないこと。 列車の中での二泊の仮眠の最中に、山のように覆い被さって来るのでした。
30年代の汽車は石炭を焚くから、客車も、トンネルをくぐると石炭のススが窓枠の隙間から入ってきて所々が黒くなっていた。 それでも窓に顔をすりつけ、焼き付けるように過ぎる景色を見ていた。 恵比島、沼田、滝川、札幌。 もう、どこにも故郷のゴメと岸壁の魚臭い面影は無い。 その後、恵比島はNHKテレビ朝の連続ドラマに出る事になる。
函館からは船に乗り換えである。 当時の青函連絡船は、函館駅改札ホームから直接階段を上り、連絡船通路を渡るとそこには青森行きの連絡船が待っていた。 皆は 津軽海峡をショッパイ川 橋の無い川と呼んでいた。 これを渡ると、この桟橋を渡ったらもう北海道には歩いては戻れないのだよと、人は言いながら、決して海と言わなかった。 幼いながらもそれは川ではなかった。 川ならどこかに橋があり、浅瀬があるはずだった。 だが俺には確かに見えた海だった。
海、それを見て覚悟をした。 その長い渡り廊下は、途中どこも抜けるところも無く、引き返す事も出来なく、乗客は一様に大きな荷物を背負い眼の前のショッパイ川に向かいもくもくと歩いて船に向かった。
乗船すると、分かっているだろうなと言い聞かせるように止め(とどめ)の出船のドラがジャーン、ジャン、ジャン、と鳴り響き、桟橋を連絡船が離岸した。
数時間の乗船の後、青森に着く。 接続は急行列車が先で、貧乏人の乗る鈍行は待ち時間がかなりあった。 ホームでの長い待ち時間のあいだ、何か忘れ物が有るような気がしてたまらない。 何だろうとずっと考えて、青森駅に着いて思い出した。 そうだラーメンだ、乗換、乗換でラーメンを食ってなかった事を思い出した。 当時、青森駅の前の大きな砂絵の展覧会をやっている建物の食堂で、ラーメンを食べた。 それは北海道のラーメンとは全く別物であった。 なぜか、その時ラーメンを食いながら、今まで泣いた事のない目に涙が止まらなかった。 あれほど好きだったラーメンをもう食べれないのだょ、もうここは北海道ではないのだょ、自分で選んだ道だろうと本州の青森ラーメンが語っていた。
ラーメンを食いながら、名古屋まで送り届けに来た姉が一緒に泣いていた。
「由美子姉ちゃん泣かないでくれ 俺は好きでいくのだよ あんな小便臭い新世界もサイナラさ」。 その後数年間、北海道のラーメンを食べることも、母さんにも姉、由美子にも会うことはなかった。 ラーメンが食いたい、カジカ鍋が食いたい、食うときは留萌で家族揃ってもう一度食いたい。 ガキの頃、ご馳走といったら絶対ラーメン!と言ってしまうくらい食べるのがドサン子だ、そう言われた北海道だった
ベル食品のラーメンのタレが、ドサンコの体に中に染みこんでいるのだった。 だからこそご当地ラーメンであれ、他のご当地の味であれ、どんな味でも決して他の土地の味をけなしてはいけない。 そんな権利は誰にもない。 それは、相手の出自と歴史をけなすことになるから。 ご当地の味は庶民の味であり、その土地に育った者には遺伝子のように自分に組み込まれた味なのです。
どうかお願いです。
貴方が何かを決断するときは、決して、腹を口食して一杯の時に決断しないで下さい。
ぜひ一杯ラーメンを食べてから考えてください。