第五話 雷鳴 カミナリから昔へ

カミナリが落ちた。 それも見ている前にまともに落ちた。
その落ちた家には、漁師の爺さんと婆さんが二人で住んでいる。 
一瞬、焼けた鉄を水に入れた時の、水蒸気の様なものが屋根から立ちあがった。
俺は一目さんに雨の中を走った。 すぐ前なのにスローモーに景色が動く。
走りながら、ここにまたカミナリが落ちたら助からないと思い、覚悟しながらも水の浅いところを探しながらへっぴり腰で走った。
その家に着いて戸に手掛けようとして、はっとアルミサッシュなのに気付いた。
冬、車に乗るとき、静電気で手がしびれた事が何度か有ることを思い出し、 それの何万倍もの電気だろうからひょっとしたらクタバルかもしれないと思ったら一瞬躊躇した。
凄く大げさに残りの人生ままょとアルミサッシュの戸に手を掛け開けた。 思いっきり怒鳴ったら、中から婆さんと爺さんが「テレビがテレビが」と言いながら出てきた。
ま~、テレビは買えば良いだけなので良かった。 

しかし、思うに今年はカミナリが多い。 でも優しいカミナリでよかった。
カミナリと言えば、昔、カミナリ族などと言う、今で言う暴走族みたいのが居た。
こい奴(つ)らは形(な)りは悪いが苦労の分だけ意外と優しかった。  
いつも土曜日になると名四国道を爆走していたが、今の暴走族とは少々違った気がする。   
一番の違いは、全員、仕事を持っていた。
金の有る奴はホンダスポーツカブのOHV、金のない奴はカブか山口オートペット運搬車、ロータリーチエンジの三速だった。
サスペンションストロークが10センチもない運搬車に乗って、熱田区西郊通りの30センチごとに段差のある路面電車の石畳の上を走ると、バイクの荷台の取っ手がケツの尾てい骨にぶつかり、大した痛かった。
とにかくひどい振動なので、ケツに当たり痛くならないように座布団をくくりつけ、バイクを押さえ付ける様にして走った。一生分の按摩に掛かったようなもんで、あれいらい肩こりを知らん。

あの辺りは工業地帯なので、皆、何かしら町工場(まちこうば)の仕事をしていて、 田舎から出てきたなまりの抜けない製函屋の若い衆、旋盤工、溶接工、木型工、修理屋の丁稚などが、親方や大将が一杯飲んで機嫌の良い時をみはらかってバイクを持ち出し、六番町の新幹線ガード下に集まり、東海通りを下り名古屋港に向かうのだった。

ひとしきり、まん丸っこくなって走り、六番町から西郊通り7丁目に向かい西に行くと、名古屋最大の日比野中央市場がある。そこには、全国から故郷(ふるさと)の生鮮食品を運んで来ていた。
日比野では、当時はまだ汽車による輸送がおもだったのでトラック輸送がまだまだ少なかったが、それでも少ないながら地方からのトラックが来た。
懐かしいナンバーのトラックが止まると、運転手さんに声掛けて「どこから来たの、どこ行くの」と聞いたものだった。
今なら自販機があり、缶コーヒーでも手渡しして話でも出来たのだろうが、当時は自販機など無く、もちろんコンビニもなく、 ただ手ぶらで長距離を走って来て疲れている運転手さんに、一方的に話掛けた。

名古屋には東洋一の動物園があること、地下に街があること 一号線は混んでいる事。
分かりきった事を次々と話し、返ってくるお国訛り「だべや~」がただただ懐かしかった。 

「暇だれ、さしました 運転手さん 気い付けて帰ってください」

と、一丁前の生意気な口調で見栄張って言ったものだった。

「ありがとょ、あんちゃんもな、体で覚えた技術は盗まれないんだよ がんばれよ 」。

トラックのパネルにぶら下がった「オートテン」カーラジオから、お座敷小唄が流れていた。 
ありがとうございます運転手さん、差し上げられる物は気持ちしかないそんな丁稚時代でした。

故郷に帰るのに、木の椅子の背もたれが直角に立った鈍行二等列車で、乗り継ぎ乗り継ぎして片道二日 、一ヶ月分の給料が片道の汽車賃、帰るに帰れない。
爪の先に機械油の染みこんだ、そんな田舎から出てきた若い衆や丁稚が集まるつかの間の故郷。
明けの日比野中央市場、いわゆるカミナリ族の全盛の頃である。