魚泥棒


ここにはゴーストライダーの様に姿は中々見せないが色々な動物が住み着いていて
干してる魚がいい塩梅に干せた頃に夜陰に乗じて無くなってしまうが
今週は高さ3メートルの場所に魚を干して大丈夫と思っていたら美味い魚ニシンとガヤが無くなっていた。
犯人はアライグマかと思い役場に頼んで罠を仕掛けて貰ったら
コイツが犯人で眼が可愛い尻尾と足が黒いのでクロテンだった。
倉庫の天井から吊り下げていた太さ1センチほどのウインチ配線コードを登ったらしい
西部劇では馬泥棒は即縛り首 当局に引き渡すか さ~てどうしたろうか!

道間違える

そこそこ長い人生で何度も道を間違える性格なのだが俺も相当性格が悪いと思った
紅麹ニュースを見て思ったが和歌山工場に立入検査をした厚労省の役人は何処から歩いて来たのだろう
ニュースを見る限りでは工場には駐車場もありそうに見えるが
なんの為に役人はわざわざ歩いて工場に入ったのだろう。メディアサービスか

 


おいおいグーグル先生この道案内はほんとかいな ここで車を落としたらJAFはこんぞ


ミカンを運ぶモノレールで想像するには急カーブ脱輪をこのトタン板一枚で防いでいるのかも怖すぎるぞ~

内地は何処でも墓があるが今まで見て来た墓とはちょっと違う
狭い場所では平らな処は食糧を作り畑に出来ない急斜面や家のすぐ裏に墓を作る事が多いがここでは墓参りに行くにも大変な高台に作っている。
内地の各地の奥地に行ったがこんな高台に墓があるのはかなり珍しい
なぜだろう?
目指しているのは「歴史が見える丘」に向かってるハズなのだが歴史も何もミカン山しかないぞ
何かがおかしいここで不慣れなスマホで情報を取ってる事に気付くべきで地図本を持って来るべきだった。
この後で無理くりUターンして側溝に脱輪をしてしまいやっとデフロックを使い脱出するが
かなり時間を無駄にしてしまい「歴史が見える丘」は等々行く事は出来なかった。
スマホに変えた事や一度思い込んだら中々修正が出来ない性格が災いしてる

今もつくづく「歴史が見える丘」に行かなかった事を悔んでいるクッソ~秋に再度呉にいくぞ~
今から贅沢は敵だ~何か手放す物さがして売り飛ばしまた千円貯金をしようと気持ちを切替えて日々生きていくぞ~

皮脚絆の街


鉄のくじら館の下にあったバイク
呉れのご当地ナンバー 下の赤い部分が船底を表し右の切 欠きはバルバスバウを表してる
これもびっくりだがバイクのナンバーの下地色は全国的に決められていて50以下は白 51から90は黄色125はピンクなのだが
126cc以上は車両番号で125cc以下は税標識番号と呼んでいて税金を払って市町村の道路を使っているかと見る為のナンバーで交付や使用方法は市町村に権限があり
簡単に貰う事が出来るし現在はご当地ナンバーで色以外はデザインは比較的自由に出来るのだが
びっくりしたのはこのバイクは下地が白いので50ccか250ccがあるが250はご当地ナンバーは無いと思うのだが50だろうかそれにしても車体が大きい車種はなんだろう
長い事バイクに乗り続け今も乗りもせんのに数台持っているので
早く売って銭にして次の路銀にしよう。
車旅も長距離は身体がだんだん辛いのでフェリーの往復料金が6万8千円なので今度は格安飛行機でマスクして目的地に行くのがいいなかと想い始めてる。


コンテナ船とポンプ浚渫船のパイプ
このパイプで海底の砂や泥を吸い取っていくポンプ浚渫は道内でもアチコチで昼夜止める事なく作業員が働いている。


周辺を掃除していた昔は呉れで超元気だったろうと思うオヤジに綺麗なカチ上げですねと言った。
そのオヤジは造船所で働いていたそうで色々話の相手になって呉れた。
俺が若かりし頃借金の方に包里で皮脚絆と皮前掛けを付けて毎日毎日溶棒を溶かし続け
危険回避の為に大声で張り詰めた日々があった事を思い出していた。

呉で車中泊する場合は大和ミュージアムの有料駐車場が24時間使えてトイレもあるので便利でもう一泊したかったが
一度も行った事がない四国に渡り讃岐うどんを食わねばならんと泣く泣く諦めて
何処か高台から皮脚絆の街、呉れを眺めてと思ってグーグル先生お勧めの高台にドンドン進む


下の集落から登って来たのだがなんか凄い処に行かされ道幅は軽がやっとバックで戻るも怖いので前進あるのみ


もし下から登って来る車がいたらすれ違う場所が無い農作業車に迷惑だと思って
ここでユータンをしなかった事が後で困る事に

潜水艦カレー


火星21型 三菱製

何処かで聞いたような名前だが関連はない
この星型エンジンの凄い処はシリンダーヘッドセットボルトが無い
普通はシリンダーヘッドはセットボルトでシリンダーかクランクケースに固定されるが
このエンジンはヘッドそものがネジになっていてクルクル回してシリンダーにセットするのだがプッシュロッドの位置合わせが超難しい
それも冷間時に合わせたら熱を持った時に緩みが生じる
現在でさえ二分割クランクケースは上下は一セットになり部品番号は同じだが互換性はない
このエンジンは14気筒で一個づつ14個のヘッドを現物合わせをしていく事になる
それはもう職人技になり誰でも出来る事ではなく組立工はその組立が出来る間は戦地に行かなくてよくそのコツを誰にも教える事は無かったと言う
その話はエンジンを実際に組んだ本人は戦後も一切話す事は無かったが栄生の姉さん(あねさん)に聞いた。
色々思い出し気が滅入って来たので河岸を変え向かいのくじら館に移動


潜水艦 マッシュルームアンカー

普通の船が使うダンホースアンカーなど使ったら揚錨した時に潜水艦に突き刺さるからこの型しかない
これはゴムボートも同じで普通のアンカーを使ったら恐ろしい事が起きてしまう。


このプロペラはダミー

潜水艦で音を出す事は相手に知られてしまう 特に航行中のプロペラのキャビテーション音で潜水艦の機種が特定されてしまう事になる為に見える場所ではカバーを掛けてしまう
それほどプロペラは極秘でつい最近まで日本製大型船外機のプロペラを注文する時は売り先を申告する必要があった。
いまは違うが以前は船を輸出する時はエンジンはいいがプロペラは外す必要があったのだ。
と言う事は日本の海岸線では近寄って来る船が日本か外国かと監視するシステムが海岸線ではあると言う事になる。
国境の海を抱える稚内の巨大なレーダーサイトでも日々の情報を集めている。
夫婦でも国でも相手をきちんと知る事はデンジャラスな状態にならん様に抑止力になって行く


潜水艦の内部 写真撮影が可能

見る事が出来るのは操縦室とベット居住空間と士官用洋式トイレのみ
艦が退役になってもあとは見学は出来ない
きっとスパイは来てるのだろうと思う 俺は滑舌も目付きも悪いのでスパイと疑われない様に
あまりキョロキョロしない様にしたが初めての潜水艦で何が何だかわからんかった。
この狭い潜水艦でも士官と隊員とトイレが違うのは面白かった。
説明して呉れる元潜水艦員が居たので聞いてみた
「 隊員はポットん和式トイレですか 」と聞いた答えは
自分の家は和式だったけど潜水艦はすべて洋式ですと言った。
自分の家まで説明をして呉れた人はすごく真面目な人だと思った。


鉄のくじら館は入館料はタダだったので何か買わないとイカンと思ってジャンバーを見たが少ない路銀では手が出なかった。


それでこれ食った 潜水艦カレー
食った後に旗をくれと頼んだら綺麗な物を呉れたが
それとて銭だと断りこの現物を貰って来て車に飾ってある。
知合いに根室の右翼の兄~がいるが仲間になった訳でないと説明しとかんといかん

孤高の人達


酸素魚雷
この人は普通の人に見えたが青図を踏む事はなく離れて見ていた。
ちょっとした事なのだと思うが見た目からは想像出来なくても所作の美しさは
形から入る日本の習い事の作法とはまた違ったその人の内面を見てしまう。


もともと魚雷だった物を改造して直径1メートルの中に人間が入って操縦する
一度母艦から切り離されたら中の燃料の4エチル中毒になったりエンジン始動出来なかったり燃料切れなどで若い人達100人は二度と生きて戻る事はなかった。


単機筒4サイクルエンジン
魚雷が4サイクルエンジンで走ってる事は初めて知った
燃料は4エチルと酸素O2で空気と違い酸素は取扱いが難しく危険


反転ペラ
船に乗った人はわかるだろうが物標が無い時には2次元空間を移動する船でも潮流れや風などで船を真っすぐ進ませる事は難しい
その中でもペラの反力で船体が傾き一方に流れて行く その為に3次元空間を移動する魚雷は右回りと左回りのペラを反転させながら走るがそれでもエンジン自体の反力もあり
さらに水中で物標を捉えられないので操縦は至難の技になる
真っすぐ進ませる為に魚雷にはジャイロスコープが搭載されていて真っすぐ進むが
それは相手が動かない事が条件だが
当然逃げ回避行動をする


射撃盤 愛知時計電機製

相手の距離、速度、方位などを入力して射撃角を決める
戦争はこちらが頑張れば相手はそれを学習してさらに頑張る
一旦端緒を開くと永遠に続いて個人の思いなどは及びもせずにひとつの塊となって一人歩きをしてしまう。
それを回避する為には一人一人が考える事から始まり常に本物を自分の眼で見る事が大事なのだと思う。
紀元前1286年から始まった戦争が現代もまさに今も続いていると言う事はこれと言った確実な戦争回避方法はないのだろうと思うが
考える事を止めない事でその為にも歴史を振り返る場所は大事なのだと思う。

俺自身は大和だからと特別な思いは無いがいま大和ミュージアムは若い人が多くその要因は艦コレとか言う戦争ゲームがあるらしくその影響ではないかと言う
3階には造船の仕組みや大和シアターがあり大和の歴史15分間の上映があるが
そちらはがら空きだった。
居酒屋のマスターが大和は国の象徴で敵に渡すなら沈めると選択した結果が沖縄で沈めたと言ったが
その時に3332人の乗員のうち生存者はわずか276人しかいない
15分間の上映最後に親も子もいるだろう乗員全員の出身県とひとりひとりの名前が流れたが愛知県や岡山県などが多かった気がする。
上映終了まで館内に居たのは俺を含めてわずか3人だった。

倍尺


大和ミュージアム 9時開館
鉄のくじら館開館まで時間があったので入って見た
俺はこの手の百田 尚樹が好きそうなミュージアムにはあまり興味は無い
戦争は政治の最大の失敗なのだ

昭和30年代に題名ははっきり覚えていないが203高地かなんかだったと思うが戦争映画を何かの集まりでタダで銀映座で見た記憶がある
その頃は食うのと生きるのにやっとでガキのくせして少々ヤサグレていて殴られる痛みも殴る手の痛みも知っていた。
小学生が開館待ちをしている子供達を見た時に大和ミュージアムはこの子達にはどうなんだろうと思った
時間待ちしてる間に何処から来たか聞いてみた呉のすぐ傍の町から来たらしい
逆に何処から来たか質問されて北海道と答えると雪はあるのかどんな処とどんどん質問されて楽しかった。
平和が金で買えるなら買うべきだと思っている
ただ一点はこの子供達を戦争で死なす事だけは避けなくてはいけない
何かを知るそれは未来を予知をする為に大事な事だと思うが
知らないで経験せずにのほほんと一生が終るのもそれはそれで結構な事だと思っている。
いまだに携帯を持たずに暮らしてる人と年に一回逢い呑むが、それで何か不便があるかと言ったら本人いわく何もないらしい
差し迫った危険でもない限りは知りたがって聞かれない限りは教えないと言うのが俺の基本姿勢なのだ。
聞こうとし見ようとした時に初めて聞こえ見える、
それが自分自身にも準備が出来たと言う事なのだ思う。


回天 実艦

これには色々な面でショックを受けた
青図面は回天の物で
地べたに青図を書く意図はなんだったのかそれもどう言う訳か2倍に倍尺されている。
現在はキャドなど使うが製缶ものを作る時は普通は現尺で書くので倍尺はあまりない
わざわざ倍尺で書いてそれを皆に踏ませる意図がわからんキリシタンの踏み絵か
皆が無造作に一番踏む場所はまさしく二十歳前後の若者が100名も死んでいったその顔、身体を入れていた場所なのだ。
この大和ミュージアムを作ったりコンサルした連中の無神経さが知れん
この構図は政治家の無神経や初期の高齢者の落ち葉マークを作った奴の無神経と同じなのだ
立案から制作といってる間に異論はなかったのか
回天を立案し自分では乗る事は無かっただろう青年将校に対する当てつけか
ガイドをしてるネエチャンにこれはひどいと言った、同じ事を言う奴は結構いるとの事だった。
未来は今の延長線上にあり今は過去の延長線上にある
大事なのは今なのだ今の所作がこれではお先が知れる。続く

3月8日 呉


呉駅前通り
呉で呑み歩く為にここのビジネスホテル5500円に泊まって呑んで歩いたが
呉と言えば製缶,造船の街でもあり実在した呉出身が網走刑務所収監中に自身の経験を書いた大量の原稿用紙を飯干晃一がノンフィクションとして書き直したものを題材に深作欣二監督の映画の舞台にもなった地でもある。
造船の街なので赤提灯で多少ヤサグレてデンジャラスな製缶工達に混ざって人生最後に呑んで見たかったがかなり違った。
呉には赤提灯屋台通りがあるのだが観光地化されて、お客さんにはそんなヤサグレた人達は居なくて上品なお方ばかりでした。
他の呑み屋さんではマスターに色々な話を聞けてよかったがショックも大きかった。
何も知らないで呉に来たのかと言われ実際に初めて来るので知らんのだ
人は知らないと言う人に教えたがるのは古来からの人の習性なのだ
無知の知が自分を広げる。

2019年には広島平和記念資料館に行ったが工事中で一部しか見れなかったが工事終了後の姿は見たいとも見るべきでもないと思っている。
俺は博物館は大好きで一度いったら後で不思議が出て再度確認に何度も同じ博物館に通うが
広島平和記念資料館は一度見たら充分で何度も見るものでもないし展示物や写真に慣れてはいけないと思ってる。
そんで今回は呉れから四国に渡ろうと計画したのだが


フェリー乗り場
奥の青い船腹の船がアチコチにあるので何の船かと思ったらコンテナ船のコンテナを降ろした状態があの姿になる事を初めて知った。
ここが凄いのなんのといっかた大小様々なフェリー船が出入りしていて
それも離岸後すぐ全速で走っているで,後ろ向いたら

2004年まで実際に使っていた潜水艦がドデーンと置いてあり中も見学出来るとの事なので10時まで待つ事に
どれくらデカイかと言うと右端の茶色い線が海上自衛隊展示室で3階建てなのだ。
その通りの対岸がこれ

大和ミュージアム このミュージアム自体には興味は大したないが時間も余ってるので入館して見る。
これまた違った見方をしてしまいショックだった

3月7日一路呉に


岡山県


リヤカーか大八車がやっと思う様な道を走る


武蔵の國 作州付近 武蔵がどれほ強かったか知らんが毎度毎度よく対戦相手がいたものだと感心する。
木刀であれ相手は生きてはいないと思う
現代と違い頑健な身体の持主であっても対戦相手もそれを打ち砕く技を持ってるだろうし
武蔵自体は途中でさほど戦いたくはなかった思うが名を上げて知られてしまった時点で
弱気になったらアウトなので引けなくなっていった思うのだが
なんの恨みも無い相手を果し合いで次々と切って行くのは常人で考えられない相当の精神力の持主だったと思う。

よく時代は変わったのじゃ~などと現代も言うが紀元前に古代エジプトとナンチャラ言う国と戦争してから現代まで争い事や戦争が絶えない
人類はバカなのか無能者の集まりなのか加減を知らないのか
経験上酔っ払いと喧嘩大好き野郎とは眼を合わせない事が肝心かなと


今回初めてビジネスホテルを予約してあるのでここから急いで走らなければならない
カーナビをセットして予約時間で走る事にしたが
車旅の面白さ半減


四国に渡るには神戸からと姫路からと尾道から橋を渡る方法とフェリーを使う方法があるが
行った人に聞くと橋は横風がひどく俺の軽ではいけない時もあるらしい事と道が混んでいるのは勘弁なので呉からフェリーで渡る方法を選んだ。

3月7日 是


薬局 宍粟市一宮町福地は揖保川沿いにあり 道中大型店の薬局は見ない
他の商店もこじんまりとした店が多く地域の人に向けて商売をしてる感じがする
店構いより商品の充実が大事だと思うし資本も固定費に掛けるより商品の充実が地域の人も助かる
さらに商売屋は地域のサロン的な役割も果たす事が大事で
何百年と歴史が長い内地はそれだけ家訓や教えもしっかりと伝わって根付いているのだと思う。


山また山


志引峠 三方町からここの峠まですれ違う車は数台しか逢わないがそれでも地蔵さんか墓かわからないが花が差してあり信仰心が厚い事がわかる
山陰は東西に走る道の通行量が少ないが隣町間移動はないのだろうか
商売上は地域内消費が保てるからいいと思うが


山また山また山

宍粟市はかなり広いが林業以外はこれと言った産業は無いように見える
林業も安価な外材に押されて衰退してしまったのか

中々見えずらいが新潟から京都に掛けて直線を引くと日本有数の精密機械の一大集積ベルト地帯があり越後や信州の山また山のベルト地帯にいったいどうなって出来ていったのか面白い
思うに途中で千曲川と名前を変えて流れる日本最大の信濃川が関係してると思うのだが
信州から常を超えて奥美濃には女工さん達によって情報と銭が流れまた一つの流れが出来ていく
ところが山陰には漠然としたその様子が見えないのだ
何故だろうと思う時に日本海側と太平洋側との距離の近さ時間の近さが人の流失を生んでしまったのではないかと想像した。
国是、社是、郡是などとあるらしいが是に生きる
そいで郡是、グンゼ言う会社が綾部が発祥の地でストッキングに特別興味はないがグンゼ記念館に寄って行こうとしたらここも休館日で見ていない
思うに地政学的なものに従いその地の是に生き商売をする事が長く続く秘訣なのだと思う。

3月7日 神子畑銀鉱山


神子畑鋳鉄橋 現存する日本最古の鋳鉄橋 明治16年に作られたが途中で解体復元されている


神子畑選鉱場跡

一円電気機関車 鉱員以外にも周辺の人は昭和62年に鉱山廃坑されるまで一円を払い乗車していた。
銀も石炭も取れなくなったら廃坑も仕方ないのかも知れないが
なにかシックリこない もともとそこで生きていた人達にとっては台風に遭った様な
鉱山で働いた人達は狭い地域で暮らした濃い仲間がバラバラになってゆく
時よ~時節よ~変わろうとままに~かな


銀鉱山跡 右は沈殿槽 銀でも路上に落ちてないか見たが無かった 路銀
不思議なのは北海道と九州は炭鉱は沢山あるが本州には福島だか何処かに一か所あっただけ
石炭は露頭炭があり見つけやすいが銀鉱山がここにあると最初に発見した人が凄い


遥か下に見るつづら折りをやっとこさ登って国道429号線も小型車はこの辺りまででここからはすれ違う事が難しい処が何カ所ある


公儀御用達の林 花粉症の人は絶対来る事は出来ないだろうと思う
俺はあらゆる菌に耐性があるので大丈夫

墓じまいをする人もいるらしいが こうして残る事があってもいいのではないかと思っている
残しておけばなんの縁も無いが見て思いを馳せ拝む人も出てくる。


内地は何処にも人が住んでる
道の駅あさごから三方町およそ30キロ間ですれ違った車は2台くらい
この感じは南にある紀伊半島熊野古道とは全然違いもっと山奥は山陰とはよく言った感じで
同じ空が狭い山間部でもなにか違う
日本海から瀬戸内海まで直線にしてわずか100キロしかないので海産物を流通させる必要もないのか道路も狭い
さらに南北はまだましだが東西に繋がる道は特に走る事すら難しい道があり途中で止まってもサイドブレーキも効かない道が国道でもあった。
百聞は一見に如かずと言うが何の知識も持たず見た瞬間に感じた事はけっこう的を得てるのではないかと思っている。
それも何度も見てる間に見慣れて見失うなう事があると思うので第一印象は大事かなと
俺はいつもズタズタった格好なので気を付けようなどと思ってしまった。