12月8日に思う三つ子の魂百まで

下屋が出来た~これで朝マキを取りに雪をこいで取りに行かんでもよくなった。

俺は修理工が長いが昭和30~40年代はボデイ部品の2ミリや5ミリの違いなど許容範囲だったがやがて触ると返品が出来なくなるのでそのまま返品をする様になって
工場からスケールが消えて旋盤が消えてゆきやがて部品交換工になっていった。
この部品交換工が工場内に5人いたら一人が故障原因を10分考えたら50分のロスになると言われ始め
考えるのは工場内のフロント一人が考えればいいとなり、言われた事だけをせ~となった。
同時に住込みで24時間使われて日給月給一日200円の丁稚奉公制度がなくなり賃金が上がり始めて来たが
そこには自分で考える 物を測る事が出来ない部品交換工が出来て自分で物事を考え決断する事が出来ない者が増えていった。
俺はその丁度両方を経験したどっち付かずの最後の丁稚になる。

全国でも有数の戦闘機生産県だった愛知県は三菱は大江にあり愛知航空機は徳永にあってその後ジャイアント、コニーを生産した。
コニーのバンには狂ったオジサン達とアルバイトをした思い出があり今では笑い話だがいつか書いてみたい。
昭和40年代は戦地から戻って来た元戦闘機整備兵が30代後半から40代になる時期で修理工や機械工になった者も多かった。
その当時の西郊通は町工場がそこら中にあり戦地から戻った狂ったオジサン達が沢山居た。
修理工場だったので自然と元航空機関兵が集まったりしたが
工場で部品を目で確かめて確認してると
「 おまえ手で触っただけでわからんのか 」
「 灯りを点けたら空襲されるぞ 」と酔っ払いの狂ったオジサンに怒られた。
手の間隔で物を作った時代で
仕事帰りに寄って酒を呑んで帰る者も結構居たので帳場にはいつも一升瓶が用意してあった。

本文には関係ありません いいオジサンの方です。

当時の40代など今とは違いチョットした言動でも気いらなければ口より先に手や物が飛んで来てそれは恐ろしく近くに寄る事など出来なかった。
特に若い者が軍歌を歌ったり戦闘機の事など聞くと
「 おまえに何が分かるのだと 」と拳が飛んで来る暴力が横行して暴力は連鎖し習慣性を持ちより過激になるそんな時代で大きく影響され俺の気性も荒くなった。

三つ子の魂百までなのだ
狂った戦地を刷り込まれた帰還兵の戦後処理をきちっとしてあげなかった事が狂った修理工や狂った製函工や機械工を作ったのだろうと思う。


ハ45 誉

昭和40年代はまだ飲酒運転には罰則が無く罰則が付いたのは1970年代だったと思う。
当時は庶民が持てる車はまだバタバタと言われた中古車で青信号でスタートして次の信号まで3速に入るかどうかと言う走らない車が多くさらに頑丈な鉄板のバンバーが付いて事故でもそんなにひどい事故は無かったが自家用車を持てる人は少なく
市電や歩いてる人が多く夕方はそこら中の町工場は狂ったオジサン達が集まり居酒屋と化してその中から様々な物が出来上がって来たのだが
いまや俺も部品交換工となって寸法を測るなど出来ない様になっている、その中で数えて寸法を測り丸バタを組んで下屋をやっと作った。

いつか様々な不始末や中途半端でお世話になった愛知にお詫び行脚をしにいかんとないと思いながらも気が重く行く事は出来ないでいるが
もう修理工としても終わりたい
これからは直っていたら魚か菜っ葉でも持って来いやと言う日々を送りたいと思っている。

小っせい奴が大河ドラマ見る

久しぶりに青天を衝けを見たが
石狩にも小樽にも渋沢倉庫と看板を見るが、どう~だ庶民など1ミリも付け入る隙間もない様な系図が明治から延々と続く
渋沢栄一の息子、篤二の例を見る迄もなく
出来た親に出来た子と言うのは現代においてもすべてがそうなるとは限らんが
この出来の悪い息子と言うのは現代の行き詰まった資本主義においては大変重要な役割があり放蕩のあげく家系図の崩壊と富の再分配に繋げる為に
立派な名門ほど大いに放蕩を繰返して系図を崩壊させて欲しいと!
戦国時代なら足軽か雑兵程度で落ち武者狩りを逃げ延びて盗賊になったろうひねくれた小っせい次男坊は思うのである。

人間の性格をレーダーチャートにすると独創性と協調性は対角にあると思うが綺麗なデルタ型の性格は中々いない訳で
凡人はその足りない部分は他の人に補って貰うしかない
その他の人とは一番最初は親だと思う そう思う時に小さな頃の親との関わりが大きく影響し
渋沢栄一の性格を作ったのは渋沢家に養子で来た父市郎右衛門と藍葉を買う為に末端現場を見ながら一緒に並んで歩いた道中の雑談の影響が大きかったのだと思う。
雑談は面と向かってしない処がいいところで二人で歩く時は親のどちらに並ぶかは大きく影響すると思うのだが
海外は知らんが日本では並ぶ時は右習え右で右の耳で聞く事は頭に入るらしい
親子関係はどれだけ一緒に歩いたかが大きく影響するのかも知れんと青天を衝けを見て思った。

それにしても血洗島とは恐ろしい地名だと
なんも関係ないが島続きで6年ほど前に日本一危険と言われる瀬棚の太田神社を新年参拝して沖に奥尻島を眺める。

海の無い埼玉県で島と言うのだから中洲か何かなのだろうと思ってグーグル先生の地図を見ると利根川と小山川に挟まれた平坦な地形である事がわかる。
この川に挟まれた処と言うのは農業の適地で渋沢家は結構稼いでいたらしい
親と一緒に稼ぐ手伝いをする雑談をした世代が明治維新を作ったのかも知れんなどと大河ドラマを見て思った。
逆を言えば親の手伝いをよくする子はいい子に育つと

屋根

隣にあった家が解体され100メーターほど離れた家の居間が見える様になった。
コチラから見えると言う事はアチラからも見えるのである。
少し留守にすると婆様がシャッチョ~しばらく居なかったね~と頻繁に言われる様になった。
最初はまだ見守りの範囲かと思っていたが最近は婆様が冥土の土産に俺の操を~などと思ったり
少し近すぎると思い始めてる。
住宅は横並びが適当な距離感がいいので
いまは老人ホームには絶対に入らんと思っている。

鉄筋コンクリート造の学校がアチコチに放置されてるが
なぜに集合住宅や老人ホームに活用しないのか不思議

一気に降った雪はまだ周辺に残っているが、たった40キロ南下すると

無い 北海道は40キロ程度なら買い物に行くかと言う生活圏なのだが南下はよく行くがなぜか北には中々行かない
内地では40キロ違えば違う土地で文化も違う。
北海道はアイヌの人以外は元々は和人の移住者でアチコチの文化を持込んでいるのでごちゃ混ぜになっている。
それでも集団移住した田舎は何処となく雰囲気と言うか空気を感じる場所がある。

知内方面は四方屋根が多くあり、北の江差松前などは切妻屋根が多くなる。
雪が屋根の型を変えて来たと思うのだが
四方屋根などは玄関先に雪が落ちて出入りが大変だと思うが
それでも四方屋根や鬼瓦に拘るのは望郷の念がそうさせているのだと思う。
その土地ならでの屋根があったがそれももうすぐ消えて行くだろう。

屋根は重要で一つ屋根の下と言う。
横並びで平屋の集合住宅は外に出ないで隣に行き来出来るのはこれから高齢者が多くなる田舎では必要ではないのかと思うのだが
なぜか海岸線の平屋集合住宅はいきなり通りに出る作りが多いがすぐ傍で内陸になる北竜や雨竜の集合住宅は外に出ないでも隣に行ける共同の屋根を持っている住宅が多く見られるが
海岸線は風も強いのになぜ屋根が掛かった共同通路は無いのだろう。不思議


最近たまに見る ソーラー発電の倒壊
ここは20キロ四方人家も何もない熊か鹿しかいない山奥

積雪の無い内地と雪が降る北海道とはパネルの勾配が違う。
勾配を付けづに平らに置いた方が発電量も違うが北海道は積雪がある為にカネ勾配まで付ける必要がありそれで向ける方角も狭くなるし支柱は強度が必要になる。
積雪のない所とは経費も掛かる上に発電量は少ない北海道は
個人が投資目的にやるのはまだ早いのかも知れない

デカい大地の小っせい奴

毎日雪との闘いで気分直しに当別迄配達に行って来た。
北海道は広いがカーナビに当別町青山〇〇〇番と入れるだけで玄関先まで着いてしまった。
9文字これだけで着くなどデカい大地なのに凄いなと思う。

青山は暑寒山系の裏になるが石狩まで大きく回り道して片道100キロ

生振から東に入り劉連仁記念碑
劉連仁氏は強制連行で沼田明治炭鉱に行くが逃げて終戦を知らずに当別に13年も隠れて住んだという。
昭和33年と言えば北海道はまだまだ貧乏暮らしだった思うが、ここに居たとしたらさほど高い山でもないのになぜに見つからずに13年も暮らせたのか
今年俺はスズメバチ駆除に青草を燃やしたらミニパトが来て・・・・・・
冬は煙も上げずにどうやって暖を取ったのか
冬の食料は?もともと中国ではそんな暮らしてたのか
これだけ根性と体力があれば13年間なら歩いて帰れる場所なら歩いて戻ったろうと思う。

俺が昭和38年に津軽海峡を青函連絡船で渡った時はもう歩いて戻る事は出来ないと覚悟をしたのを覚えている。
それから穴グラではないが愛知県や関西周辺をアッチコッチ転々とした。
日本列島は異国から来たら歩いて戻る事は出来ない
そう思う時に異国から来た人を在日だのなんだのかんだのと差別するのは情として人間として偏狭でセコいケツ穴の小さい、頭でしか考えられない小っせい奴なのだと思う。

劉連仁記念碑を左に見て弁華別からさらに左の山奥に入り配達完了
帰りは町場に出たので念願の天ざる1650円を食った。
美味かったが150円予算オーバ~ 俺も小っせい奴なのだ。

小っせい通りの小っせい者

雪が降ってから野外に放置していた物を屋内に入れる為に毎日雪を掘っている。
プラスチックケースやブルーシートやスノーモービルなど特にブルーシートは除雪機で巻き込むと故障の原因にもなるし取除くのが大変なのだ。
だけど記憶はほんといい加減で確かここにと思って掘っても中々見つからない
およそ400坪あるボート置場や小屋周辺を掘って掘ってまた掘って出て来た物は夏に除雪機を預かっていた倉庫が冬には空くので倉庫までひぱって行くのだ。
もうクタクタで歳に勝てないが不思議な事に昔の事は鮮明に覚えているのだがついこないだ置いた場所を忘れている。
何かを頼まれた人には携帯に着信を入れて貰う様にして机に座ったらメモをするのだがメモすら忘れる事がある。
メモは頭と手が記憶するのだと思うのだが


昔は古い家を数軒買い駐車場にしたりしたがその一軒から大量の本が出て来て
日本の貿易がドッタラコッタラと教科書などを書き写したのか自筆で書いた物が沢山出て来た。
捨てるに捨てられず取っておいてあるが高校一年某ナンチャラと書いてある。
俺は小学校は言葉がうまく喋れづロクに行っていないし中学も以下同文であまり行っていない俺がいま思うのは小学生の書き順を習う時だけは真面目に行っておけばよかったと思っている。
現在生存している兄弟の中で俺だけが字が汚く読めないのだ。
ところがこの某ナンチャラ言う女子の字は小さい字だが読めるのだ、それだけでも凄いのにこの量を書く

う~んこれだけ勉強をし努力したのだから勉強をした者としない者が将来に差が付くのは当然なのだと納得するのだ。
もはやこれは写経で修行僧に近いのではないかと

こちらは世界の地理がドッタラコッタラとこれも手書きで書いてある。
思うに現在はコピーで写し込むものを自分の判断で加除しながら手書きしているので現在の勉強とは全然違うのではないかと思う。
面白いのはノートでなく藁半紙に書いてあるのだがなぜにノートでないのか色々想像すると面白いのだ。
書き主に一度も逢った事もないが現在はどうしてるのだろうか
どこかの官僚でもやって悠々自適だと思うが
それともこれが普通の高校一年の勉強の仕方なのだろうか
年齢的に近いと思うのだが小っせい通りの小っせい大した努力もしなかった俺の現在を思う時にこの書き物を見ると自業自得と納得してしまうのだ。

さ~今日も雪堀人足をせんといかんが俺には肉体労働はピッタリだと思う。
この歳になって思うのは自分のレベルを下げる事は簡単で癒されるがレベルを上げる事は難しい
いまニューヨークで苦労をしてるのは貴顕社会しか知らない
お姫様に合わせ所作も変えなければならない圭さんの方ではないのかと思ってしまった。
幼児期からの努力や勉強で身に付いたものは自然に出て来る そこに小っせい通りの小っせい者が合わせる事は中々難しく
俺は嫁さんに合わす事は出来なかった。

北緯40度 ニューヨークは冬に入ったが嫁さんを寒さから守るのは亭主の役目なのだ。
頑張ってほしい

貧乏人の肌感覚

11月24日 一晩で15センチほど積もってシマッタ。
除雪機やスノーモービルを盛んに売っていた時は安く仕入れる為に9月にまとめて仕入れ予約をする為にその年の天候予測は欠かせないと思い某国立大学の天候講義を聞きに行ったり測候所には毎年通ったが
結局は・・・・・・・
カラスの巣が低い処に作る年は風が強いとかヤギが啼くと雨が降るとか言うのは本当らしいが
中には小学校が騒がしいと雨が降ると言うのもあるが
雪国では小学校が騒がしいと雪が降るのかな?
小学校が騒がしいと雨が降るのは日本の奥地を回って歩くのが楽しみなのだが その俺が思うには
これにはれっきとした根拠がありそうなのだが後日に

35年ほど前の気象では細かい数字は忘れたが留萌は年におよそ70日程度しか雪は降らず。
それ以上何日も増えたり減ったりは異常気象と言うと覚えていたが
現在ではまったく当てにはならないが
それでもつい最近まで留萌地方にまとまった雪が降るのは
旭川が積もってから一週間後あたりに一度その雪が溶ける頃に留萌や増毛に初雪が降る。
それで今年もノンビリ構えていたのがこの降りよう。

土曜日まで雪予報なのでもう溶ける事は無いだろうと思う。
もしこの雪が溶ける事があったなら俺の予測では今年の降雪量は少ないはずなのだが
散々調べたりしたが耐久消費財に関しては長期予測は気象学者ではないので正確に知る必要もなく
大たいこんな感じだべ~と言う世間一般の肌感覚が大事で
その肌感覚が売上に大きく影響してゆく
あまりにも知り過ぎる事は裏を搔く者が現れ、またその裏を搔く者が現れ結局は裏の裏は表になって行ったり裏の裏の裏をなどと思惑だけで物の価格が変動して結局はどうもならん銭で銭を儲けようと言う連中が儲けてしまう。
それが現在の石油価格でポリタンクで灯油を買うと2000円になるが年寄りでは年金の半分が灯油代に消えてしまう人もいるが
それでも雨露が凌げる。
冬山に入っては汗が命の危険さえ招く為に汗を搔かないようにゆっくり動く事が大事で
ここは北緯43度だがベラルーシ国境は北緯53度にありその緯度では寒すぎて雪すら降らんそこで難民に放水する事はほぼクタバレと言うのと同じ事なのだ。
俺の部屋は匠の棟梁に作って貰ったおかげで灯油は日に2リッターあればよく
それでも朝は出来る限り布団から出ない夜はサッサと寝ると貧乏暮らしを楽しみ
浮いた銭は国連ナンチャラや食えない子にオートマチックに引落とされる。
銭が足らないからこそ買わないで あれこれ考える自分の手を使い修理もする
動かないモノが動く、助からない者が助かる、
募金も裏を考えてしまうと際限がなく貧乏人の肌感覚で充分で
自分の貧乏に彩りを添えて呉れ事でもある。

小っせい通りの小っせい商い

とうとう雪が降って来る。
春に行った和歌山と岐阜にもう一度行きたいと思った秋の旅行も忙し過ぎたのと銭が~で諦める事になってしまった。

敦賀に行けば時間短縮になるがフェリー代33000円、新潟は21000円で船酔いをするので出来る限り短い乗船がいい
ひと月休めたら青森から陸路を走って和歌山も面白いのだが
いっその事、春まで戻らんのもありかと思ったりと
考えてばかりでなんか出不精になってるが歳なのか山菜取りもいかん冬山も登らんくなって確実に身体がなまっている。
修理は立ったりしゃがんだりとスクワットをやってる様なもんだが
これも回数が減ってドンドン老人の域に近づいてる。


一番奥のべリング交換 ベアリングは三ヵ所付いてる
開発当初の試作機を使った時から除雪機を見て来たがカバーの芯、センターを合わせる事は大変な事でそれがベルト外れやシャフトの破断を招いた。
以前はそれを防ぐ為に自動調芯のピローボールベアリングが付いていたが
今は殆どのメーカーは単純なボールベアリングを使用している。
せめてセンターのベアリングだけでも自動調芯を使って欲しいと思うのだが
と言う事は除雪機も使い捨ての時代に入ったのだろうと思う。

長持ちするいい物を作れば売れなくなり
ガサい物を適度に!適度に!うまく作り金掛けて宣伝をすると販売もドンドン回転してゆく
現在の消費社会の矛盾でもある。
ところがである。
コロナになって全体の売上は減少したが一回の販売額は数百円や数千円と小さいが取引回数は明らかに増えてるのだ。
ボートの様に一回の販売額が大きい物は次迄の間が永く資金や設備の待機期間が増えてしまうので結構不安があったりと大変な商いなのだが
その点は細かい数百円や数千円の商いは毎日あるので安定と安心感がある。
その数百円規模の商いがコロナ以降明かに増えて儲けは薄いが仕事は増えたのだ。
原因は船と違い除雪機はエンジンが止まっても焼付いてもたいした事は無い
それなら時間もあるし何処にも行けんし自分の機械は自分で修理をやって見るかと言う人が増えたのだと思う。

自分の手を使う事に目覚めた人が増えたのだとしたら、
それはとてもいい事で自分の手を使い自分の手を汚して初めて人の苦労もわかり視線も変わってゆく
よいよ手に負えなくなった時にはそこら中に歳食った鍛冶屋や修理屋が居る。
年寄りは皆なにか言いたくて仕方ないのである。

動かない物が自分の手で動き出すそれを子供さんや家族や近所で
アッチ持てやとかコッチ押さえれとかと一緒にやって行く事で
家族や子供と何かをやって見る。
それは今までとは違った世界が広がると思うのだが
コロナがまったく全てを奪うとは限らんと思い始めている。

最近また朝ドラを見始めた
雉真たびのオッカが言った。
「 小っせい通りの小っせい商いが 」これからを変えてゆく可能性も見えて来たような

色は必ず付いている。


真直ぐ前が北北西
入港は赤灯台右小回りが原則だが15日はシケで漁船は北西から進んで入港するが風と
赤灯台の堤防に跳ね返った潮流れが船にブローチングを喰らわし横に倒しながら危険な暗岩が数か所あるテンヤの岬にどんどん流されながら入港して来る。


午後から風が変わる。
19屯のブリッチは三階の建物ほどの高さにある。
さらにブリッチより上にカゴを積む為の枠があるが
それがすっぽりと見えなくなるほど波の谷間に入ってしまう中で出航してゆく
毎日この光景を見ながら仕事をしている。

「 金には色は付いていないから貰う 」
「 へ!金に色は付いていない!お前まさか白紙の紙幣を持ってるんでないべな 」
と言いケリを入れてやろうかと思った。

たとえ思っても言葉を呑めと思いながら、まさかコイツからそんな言葉を堂々と聞くとは思わなかった。
すべての紙幣には必ず色が付いている。
何色で刷ってるか知らんが血の色の赤もあれば空の色の青もあるはずで
漁師でも誰でもいま手渡しして呉れた金になんの色を見るか苦労の色を見るかで男の甲斐性と器量が決まるのだ。
金には色は付いていないと言い切り
誰にも迷惑掛けんでコロッと行くと言った奴は今は病院の中
言葉が軽いんだょバカが

あとひと月で今年度の売上が確定する。
領収書の無い金など一円たりとも経費には認めてもらえん
トラックで夜通し船を運び続けて眠気覚ましに飲んだ缶コーヒーも自販機で買ったら経費にはならん
シケの合間を見て海を夜通し船を回航しても時間外手当などもない

へ!領収書も要らん非課税非公開で100万そんな上手い話があるのか
知らんかった。
お前ら金には色は付いてないと貰いながら今さら言葉かるいんだょ一度脳の病院にでも入れ

上天ざる蕎麦

少し暇になったと思ったら
交通事故ではないが第一当事者も第二当事者もどっちも知合いのトラブルに巻き込まれてアッチ行ったりこっちに行ったりと走りまわった。
第一も第二もどっちもガッテン系だが第二当事者の面子と意地の丸出しで
部屋に入ると天照大御神とはかなり違う強面ツラの歴代の白黒肖像写真が長押に飾ってある。
う~んこの感じ雰囲気は末広のコメ10キロ事件以来で久しぶりだな~と思って眺める。

バイクの販売店をやった時期があって当時はコイツはどうもならんと言う奴が多く出入りしていたのでトラブルには若干慣れている。
バイク事故はむき身で乗ってるので必ず人身事故が付くし右からぶつかると左に倒れるので車と違い片側だけ壊れると言うのはなく
ほぼ全損になってしまう。
若い子でカスリ傷程度なら罰金刑が付く人身事故扱いせず物損事故にして一ランク上の新車を買ってやった方が早い解決になってゆく
若い子は自損事故なら全額自分が泣く事になる事を思えばカスリ傷などヘッチャラの平左なのだ。

事故が起きる時は100/ゼロは無い 同じ場面でも切り抜ける者も沢山いるし原因を相手側に100を押付けるといつか同じ場面が起きた時に同じ事が起きてゆく
そうなった時にどう避けるか避けるすべは無かったのかと追求する事が大事でこれを怠たる様なら海に出たりバイクなど乗ってはイケない
相手がどんなに悪くても信号無視しても怪我をする命を危険にさらすのはバイクの方なのだ。

海もバイクも自分の身は自分で守るが原則でオッチンでしまったら文句も言えんのだ。

先週から話合いの立ち合いに行ったり来たり北に向かいひたすら走る。

話合いとはお互いにま~ま~よかったかと思う処が大事で一方が儲っけ~とか一方がもろに損をしたと感じる事はあってはならない
銭金的にはそうなってしまう事が多いがお互いがなぜそうなってしまったかと言う処に
行きつかせないとまた同じ事が起きるし折角危ない目に遭った事が今後に生きてこない
ホントかどうかわからんがひとつの事象の陰に300の危険が隠れていると言う。
海もバイクも命あっての物種なのだ。
些細な事にこだわり先を間違えてはいけないと思う。

一昨日で一定の解決を見たので自分へのご褒美に上天ざる蕎麦を食べようと思ったが
留萌い行こうか!深川に行こうかと何処に行こうか折角なら車中泊で一杯呑みたいと思ったりと
ひとの事なら な~な~そうせ~と肩など叩いて一刀両断で決断出来るのだが
自分の事は優柔不断の性格が出て上天ざる蕎麦 予算1500円をまだ食っていない

普通の人

除雪機の整備も船の上架も終わりこれから春まで巣籠になる。
以前はスノーモービルを使い冬山の荷物運搬をやったが歳食って自分のミスはチーム全体を危険にさらす事になるので60代なかばで辞めたが多少の怪我はあったが大した人的損失もなく辞めれた事はよかった。


北緯45度 遮る物がない平地では数分で環境が変わり閉じ込められる。

俺はいつも思うのはヒマラヤに登ったとか滑り降りたとか画像があるが
カメラクルーは本人より先に登り重いカメラを覗き込み足元が見えない中で構える。
たいした生産性もない有名人が山に登るなら勝手に一人で登れと思うのさ。

環境や通信を守る為に常時メンテナンスが行われているが
冬ですから吹雪だからやりませんは無い どんな時も人知れず行われその人達は表に出る事も脚光を浴びる事もない
そんな人達と電波塔や水質調査や雪崩調査に荷物運搬で30年を越えて同行したが画像に残せるのはまだまだ余裕を咬ましてる時だけで本当に窮地に落ちいった時は画像などない

書けない事も沢山経験したが、ただ困った事に
春が来て氷が解け草が見え始めるとほっと安堵するのだが
それも数週間で何か身にテンションを感じないと日々が退屈してしまうのだ。
そんな奴は表に出てはいけないと思う。

何の用があるか知らんがビルも下に降りて歩いて隣のビルに行けばいいものをわざわざ屋上から綱で渡ろうとしたする奴もいるが実際の現場では危険を犯す事はチーム全体を危険にさらす事になるから、そんなはねっ返りや独断形は要らないのだが
近年のゲームは勘違いを起こさせる様な気がしてならないのだ。

沢山の現場に居させて貰ったが地道にコツコツタイプの現場代人の方が安定して作業も終了していく
もうすぐ厳しい冬が来るネットを使えるのも綺麗な水を飲めるのも
物が普通に届くのも陰で支える続ける人達がいる。

69歳にもなって新幹線に火など付ける前に目立たない普通だった事が社会には必要で役に立った事を思い起こすべきだと思うのだが